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日本人の自然観

”自然” (しぜん)

日常よく使う言葉であるが、実は明治維新後19世紀末になってヨーロッパ言語や英語のNature の訳語として当てられることとなった比較的新しい言葉だという。

明治以前の日本では、自然を人と対比して見るという概念が薄かったため、ネイチャーを日本語に訳す際、当時の翻訳者たちは色々考えた。そして、”自然”を訳語にした。その時期を境に、私たちは人間を除く自然物、そして人工物の対義語としての自然という観点を習った。私たちが西洋のネイチャーの意味合いでの自然という言葉を用い始めたのはここ200年ほどで、日本の長い歴史から見ると割合浅い。

日本の辞書、広辞苑によると、自然の定義は ”おのずからそうなっているさま。 天然のままで人為の加わらないさま。” とあり、状態を指している

一方、英語の辞書、Oxford Dictionary によると

”the phenomena of the physical world collectively, including plants, animals, the landscape, and other features and products of the earth, as opposed to humans or human creations;”

”人間や人間の創造物ではなく、植物、動物、風景、その他の地球の特徴や産物を含む、物理的世界の現象の総称” と具体的な事物、現象の存在を指している。

日本で生まれ育った私が、西洋との接触を持つようになって受けたカルチャーショックの一つに、”自然の征服”という概念がある。自然をあたかも人間と対立するものかのように捉えるとは、私にとっては驚き以外の何物でもなかった。

西洋では、自然は”征服する”、 ”耐える”ものだという。
日本では、”自然に抱かれる”、 ”自然を愛でる”という。

ここは決定的に大きい違いだと思う。
真逆ではないか。

乳幼児の振舞いは、「私、可愛いでしょ?」とアピールすることはない。    そこに自我はない。

野山に咲く花々は「きれいに咲いているでしょう、見て見て」と人の注意を引こうとはしていない。

「かわいいなあ」「きれいだなあ」と見る側の者の心が、自然なありのまま状態を愛でているのである。

仏教用語では同じ漢字で”じねん” と読ます。自然(じねん)とは、ありのままの状態、おのずからそうである世界で、一切の囚われを離れた悟りの世界だという。日本人は今でもこちらの意味合いで使っている場合が少なくない。

自然(じねん)、自ずから生ず、の意味で英語を当てるなら、something that happens of itself, or that which is of itself so、という感じになり、nature とはならない。

私は明治以降になって導入された西洋的な自然という概念は、本来の日本的なものから離れているように感じる。それは人間と自然界の一種の分断、二極化をした考え方に見える。

一方、古来からの日本人の自然観は、現象を主観、客観に分ける以前の段階、未分化の状態を含蓄していると思う。

私は、日本語が英語のI やYouなどの主語を省く傾向が強い言語であることと、 日本人がこの未分化の部分を見る感性を持ち合わせていることとは、通じているような気がする。

日本人は自らの状態と自然とを重ね合わせて感応するという特徴がある。だから、日の出参り、お花見、お月見、紅葉狩り、と四季折々自然の中に溶け込むことを好んできた。自然の中に全身全霊を委ね、そこから精神と宇宙の広大な奥行きを感じ取っている。自然こそが至高最高の姿であることを知っていて、そこに自身を一体化させ喜びを見出している。

古来から、日本人の意識の中には、本来の自然観” おのずから生ず” という、言語化するのが難しい、いや、言葉でくくるべきではない、ニュアンスとしての自然を認識している所以ではなかろうか。

平安時代末期に編纂された三宝類聚名義抄(さんぽうるじゅうみょうぎしょう)略称:名義抄の中に、既に「自然ヲノズカラ」があると言われている。こちらの自然自ずからの意味は深い。

戦後、昭和時代に経済バブルが起きるまでの日本人は、ゴルフ場開発や、テーマパーク開発に夢中になるような民族ではなかったように思う。里山に暮らし、漁業や農業を生業とし、自然に溶け込んで静かに住み、花鳥風月を愛で、祭りを楽しむ民だった。

あの時代には騒々しい音楽や、ケバケバしい広告はなく、穏やかに目の前の自然美を眺めることを楽しみとした。自然の一員としての自身と自然界の融合を体感する喜びを積極的に求めた。

奥ゆかしいとは、そういうことだと思う。

華道では天地人という自然に順応し、調和の取れた一つの小宇宙を意識して花を活けるよう教わり、茶道では、お茶室に小宇宙があるという。日本庭園では借景や縮景といった技法が存在し、背後にある自然の風景の一部を取り込んだり、様々な景勝を箱庭に凝縮したりし、またそこに小宇宙を作り上げる。古武道では兵法はすなわち悟りを開く方便だと言っている。

日本には、多様な”道”という習い事、修練を手掛かりとし、人間と宇宙の一体性を求める風土がある。日本文化の底辺には常に宇宙真理への希求、回帰が流れているとすら感じる。

私たちは悠久の歴史において、自ずから生ずる状態を尊いものと見る観点で”自然”を使ってきたところ、明治に入り西洋的な意味が加わり、動的状態を表現する言葉から静的な存在を指す名詞用法が付随された。そのため、それまで日本で使われてきた意味に西洋の見方が覆い被さり、両方の概念が混在してしまった。そこが日本人の自然観の独特さの所以ではなかろうか。

昨今、SDGs など環境保護、自然保護という活動が世界的に盛んだが、これもちょっと違和感を覚える。この表現自体が人間と自然との乖離を感じさせるからだ。里山に住み、自然と共生する生活を心得ていた民である日本人的思想からすると、発想そのものがどこか違う。

西洋の人々から、日本人は自然保護や、環境意識が低いと言われることがある。

果たしてそうだろうか?

昭和育ちの私たちはずっと水筒とお弁当箱を持って学校、職場へ通い、それを何年も使えなくなるまで大事に使った。お弁当といえば家で作るもの、手作り弁当が当たり前だった。

それが戦後、商業戦略に踊らされ、水筒はペットボトルに取って代わり、お弁当箱は食事のたびにゴミとなるテイクアウトボックスになった。

全てが ”便利” という名のもとに。。。

今、便利の代償を若い世代たちが払っているとしたら、私たち大人たちのしてきた選択を今一度深く反省し、見直さなければならないと思う。

明治16年(1883年)にアメリカから訪日した天文学者、パーシヴァル・ローエル氏は、その著作、「極東の魂」(*注1)の中で、”自然の美しさに対する独特の感応、すなわちその自然環境との或る種の精神的合意は、日本人の精神の際立った特徴である。”と述べている。

また、元台湾総統であった李登輝氏は、その著書、「李登輝より日本へ 贈る言葉」の中で、”日本人は生活において、(中略)自然との間に共生的関係を持っています。これは世界の人々にはなかなか分かるものではありません。”と書いている。

私は、自然を「守ろう」というスローガンではなく、自然に「守られている」ということに気づき、謙虚さを取り戻すことが、人類の未来を明るくする鍵だと思う。

それが日本人的自然観であると信ずる

私たちが自然を語る時、実は似て非なるものなのかもしれない。であるならば、日本人が人類の明るい未来に果たせる役割は案外大きいと思う。


*注1 出典:極東の魂 THE SOUL OF THE FAR EAST  公論社 パーシヴァル・ローエル著 川西瑛子訳



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