スティーブ・ジョブズが最後まで尊敬し続けた陶芸家 釋永由紀夫氏との対談 Vol.1 登り窯で焼く越中瀬戸焼
はじめに
2021年のこと。「スティーブ•ジョブズが魅了された越中瀬戸焼作家、釋永由紀夫氏」というタイトルで、某雑誌向けに記事を書いた。私は海外在住のため、ご本人との内容確認はメールで行うより仕方がなかった。記事を書くにあたり、下調べをし、また釋永さんと直接メールのやり取りをさせて頂いく中、次に日本へ帰る時には是非一度直接お会いし、お話を聞かせて頂きたいものだと思いを温めていた。果たして2年後、2023年の春に日本へ一時帰国した折り、念願の訪問が叶った。大変なご親切を賜り、丸一日お時間を共に過ごさせて頂く光栄に俗した。その時のインタビューを何回かに分けてご紹介したい。
越中瀬戸焼とは
越中瀬戸焼(えっちゅうせとやき)は富山県立山町上末、瀬戸地区で焼かれる陶器の名称。430年余年の歴史をもつ富山を代表する焼き物である。立山町には、千年以上前の平安時代から須恵器が生産されていた日本有数の古窯が存在していた。1590年代、桃山時代に加賀藩主、前田利長から焼き物造りの奨励と保護を受け、尾張瀬戸(愛知県)から陶工たちをこの地に招jき、ここで窯を築いて陶器を焼き始めたことが始まりとされている。加賀藩の御用窯として栄え、越中一の焼き物産地となったことから、この地域は瀬戸村と呼ばれるように。そして、ここで焼かれる陶器が越中瀬戸焼と名付けられた。
越中瀬戸焼の特徴は、多彩な釉を掛け流したり、地元で採れる陶土を使うことである。茶褐色、黄色、青、赤茶となど様々な色の粘土を作品や用途によって使い分けている。中でも特別な粘土が白土。白土は鉄分がなく、粒子が細かく耐火度が高いのが特徴で登窯の高温部で焼くと陶器でありながら精緻な磁器の性質に近づくという。
立山山麓が生むこの白土を使って作陶に真摯に取り組んでこられた陶芸家が、今回改めてご紹介する越中瀬戸焼作家、釋永由紀夫氏である。
対談日:2023年4月24日
場所:富山県立山町にある釋永さんのアトリエ
天野:今日はお目にかかれてとても光栄です。貴重なお時間を割いて頂き、どうもありがとうございます。私は富山県へ来るは初めてなんですが、美しい所ですね。富山駅からこちらへ車で向かう途中、大きな川を超えたあたりから、目の前に雄大な立山連峰がドンと現れて感動しました。田園風景の背後に北アルプス、こんな景色は見たことがありません。立山連峰の後ろ側には日本海があるんですよね。とても独特な土地柄ですね。こんな素晴らしい場所にお住まいなんですね。
登り窯
まずは越中瀬戸焼の特徴である、登り窯について教えて頂けますか?
釋永さん:はい。私の作る焼き物は、登り窯で焼きますが、窯の温度は1300度まで上げます。
天野:1300度!そんなに高い温度でも人が管理できるんですか。
釋永さん:陶器を焼く場合、1300度までなら、そんなに無理はありません。でも、松を割った薪を燃やす登り窯は確実にもう僕の年代ぐらいで無くなるかもしれません。釉を塗って、それを登り窯で焼いているところはだいぶ少なくなりました。また、継続継承していく若手も減ってきました。そしてまた別の問題も出てきました。
天野:別の問題、というと?
釋永さん:煙が出せない。瀬戸っていう、愛知県の瀬戸市ですが、ああいった焼き物の地、焼き物産業の町でさえ、市の条例で薪が燃やせない。だんだんそういう流れになってきました。
天野:時代の流れとはいえ、なんか不思議ですね。今までずーっと何千年も続けてこれたことが今はなぜ。。
釋永さん:そうですね。でもそうあまり悲観ばっかりしててもダメで、新しいエネルギーで、新しい焼き物を作るってことを考えることも大切です。
天野:ガスとか、電気窯で1300度まで上げるということですか?
釋永さん:はい。温度は十分上がるんですが、登り窯とは雰囲気が違います。登り窯だと薪の灰がついたりしますし。あと湿度。電気もガスも地面から離れて空中に浮いてる状態なんですね。だから地面の水分とか湿気の影響をほとんど受けない。一方登り窯っていうのは、地面からの湿気や湿度が上がってきます。それが魅力の一つなんです。
天野:ある程度の湿気が残っていないとダメなんですね。そこが微妙なとこだと。
釋永さん:そう。その微妙なところがね、焼き物の肌釉の光沢にとって、土の焼き味にとって、とっても大事です。
天野:五行が全工程を通して循環しているのが、登り窯の魅力なんでしょうね。私は、真の美しさは五行が全て繋がっている時にこそ生まれると思っています。どこかで断絶されてしまうと、究極の美しさはやっぱり出せないと思うんですよね。先ほどおっしゃったように、地下、地面、地上、そして蒸発して乾燥するところまで全部が循環して繋がっているから、こんなにも美しい作品に仕上がるんでしょうね。そこを大事にされている釋永さんには、心から尊敬します。本当に素晴らしいなと思って。そういうところに意識が向く人って少ないと思うんですよね。
釋永さん:多くの人が気づくものではないかもしれない。そこに気づいたわずかな人がそれを伝え合う。それが楽しいと思ってやっています。ガスや電気だとやっぱり、、、魅力に不足するんですよね。
天野:そうですよね。木火土金水、全てがお互いに支え合ってこその宇宙と言います。釋永さんは、その宇宙観まで到達されているのは間違いないって、私、本当にそう思うんです。
登り窯は22年かけて、一から一人でコツコツ作られた傑作
天野:28歳で土レンガ作りから始め、その後窯作りに至った経緯を教えて下さい。
釋永さん: 28歳の時に韓国で李朝の古い窯を見たことがきっかけでした。そこでその窯の土レンガの寸法を測ってみて、「よし、自分で作ろう」という気になったんです。400年くらい前の李朝中期ぐらいに活躍していた窯は、こういう土レンガを使ってたんです。それで、僕は市販されていないレンガから一人で作り始めました。この土練機で山土を練って、それを窯焚きしながら作りました。 空いてるところに型を置いて、土を入れて、それでポコポコ、ポコポコ抜いて。約22年かけて1400個のレンガを作りました。
天野:すごいですね。28歳から22年もかけてコツコツ、コツコツ一つづつ作り、1400個作られたと!そしてようやく自前の土レンガの用意ができた後、この登り窯を作り始めわけですか?
釋永さん:そうですね。用意ができたというのがあったのと、家に娘と息子が学生を終えて帰って来た。それで、じゃあこれで人手はある。ということで取り掛かろうとしたのね。そこへ後押ししたのが、Jobsさんからの注文でした。なので一番最初にこの登り窯で焼いたのは、ジョブスさんのから注文の茶碗でした。
天野:わあ。そうなんですか。それはすごいタイミング。確か、ジョブズさんからの注文はTea Bowl 、茶碗でしたよね。以前に釋永さんの記事を書かせて頂いた際、この窯で150個を焼かれて、その中で一番の傑作をジョブズさんに送られたと、教えていただいたのを覚えています。
釋永さん:数だけ一人歩きしてる感がありますが、実際はもっと入れます。登り窯にはいくつか部屋がありまして、一部屋の大きさもかなりあるので、窯焚きする時に入れる作品は150とかそんなもんじゃないです。特に僕の窯は大きい方なので、窯詰めといって窯の部屋に作品を詰めていくのに、焼く数によりますが1、2週間かかります。天野:えー?そんなにかかるんですか。
釋永さん:色々とどこに何を配置するのがいいかをじっくり考えながら入れます。
天野:なるほど。
釋永さん:祖父の頃は、こ幅も背丈ももっとあって、これよりずっと大きかったんですね。ですが、僕の代になってからそれをあ自分が使いやすいような大きさに縮小して、新しく築窯しました。
天野:ということは、また取り壊す解体作業も大変でしたでしょう。
釋永さん:はい。大変でした。解体作業は子供と一緒に丁寧に壊しました。なかなかそういう機会はないので、私にとっても娘、息子にとっても貴重な体験でしたね。
天野:おじい様の作られた窯の解体作業も、釋永さん自作の新しい窯作りも、両方ともお子様たちと一緒になさったんですね。親子一体となって一つの作業に取り組まれるとは、なんて素晴らしい形でしょう。今の時代、お父さんと一緒に体を使って力仕事をする子供たち、どれだけいることか。しかもこのような伝統、芸術に携わる仕事となったらもうほとんど皆無に近いと思います。亡くなられたおじい様も、ご先祖さまたちもさぞ誇らしく、喜んでいらっしゃることでしょうね。素晴らしいとしか言いようがありません。
富山銘菓 優雅な和菓子 薄氷(うすごおり)
ー奥様がお茶を持ってきて下さるー
釋永さん:季節に合わせたお菓子をお持ち致しました。薄氷(うすごおり)と言います。どうぞ。
ちょうど今田んぼに水が張ってますけど、池とか、寒くなった時に薄い氷が張りますでしょう。その氷といっても薄い氷ですから、ポコンと叩くとすぐひびが入ってしまいます。そのひびが入っている状態から名前が付いたお菓子です。これは桜の花びらからの意匠です。
天野:わあ。なんて素敵。シャレてますね。子供のころ薄っすらと田んぼに氷が張っている朝は、それが割ってみたくてね。指で押して、パリって割れるだけで感動したものです。
注釈:この薄氷という和菓子は、1752年から今に受け継がれる伝統ある富山を代表する銘菓だそう。