見出し画像

「嘔吐恐怖」4

「…もしかしてゲロが苦手なの?」
「そ、そりゃあ誰でも嫌ですよ」

ゲロ。文字で見るのも身の毛がよだつ言葉。久しぶりに耳にした。とてつもない衝撃。思わず考える前に言葉が飛び出した。心臓が痛い。
平然を装う僕の頭の中は、最悪の自体を想像することで自分を守り始める。

「あーそういうことか。まぁキレイなもんじゃないしね。それでお酒も飲まないってこと? 吐くかもしれないから?」
「…まぁ、そうですね。だから可能性は全て潰してきました」
「…はーん、なるほど」

僕は一体どう思われているだろう。一般人の中にも吐瀉物が苦手な人がいることは知っている。でも僕の場合、それとは別次元の“苦手”だ。苦手という言葉では、僕の拒絶を一ミリも表現できないと思うほどに。ただその神経質さを他人に知られない方が生きやすいということも身についた。把握されてしまうと、いくら僕が生活の中でその危険を排除しようと、親切心というお節介な怪物たちはご丁寧に僕へ知らせてくれる。また、そういう生き物だと過剰に扱われると、僕の異常さが自らの胃を締め付け、何かが込み上げてきてしまうような感覚に陥る。普通のフリをして一般人に溶け込む。そのための努力は数え切れないほどしてきたのに。

「例えばさ、君は吐くとどうなっちゃうの?」

彼女の問いかけに、閉じ込めてきた幼い記憶が蘇る。誰にも言わなかった。どうしていいかわからず助けを求めた母に、汚いものとして冷たくあしらわれたこと。母は元々さっぱりした人だった。女性らしい言葉は使わず、むしろ男らしい母だった。シングルマザーで育った僕は、そんな母が頼りだったし、全てだった。きっとあの日の態度も、日々を通してみれば普段どおりの母だったのだと、今なら思う。連れて行かれた飲食店は大人しかおらず、恥ずかしがり屋の僕はただでさえ帰りたかった。その上車酔いをしていて、一人トイレに向かう途中、堪えきれなかった。どうしていいかわからず、両手いっぱいの吐瀉物を溢さぬよう母たちのもとへ戻ったが追い返された。「汚い」と言われ、本当にそうだと思った。Uターンし、もう一度トイレまで向かう道中、大人たちは僕を見ていた。それは心配の眼差しだったかもしれない。僕にとっては恥晒しの恐ろしい道のりだった。

「…わからないです、吐かないので」
「ふぅん…じゃあ一回吐いてみたら?」
「え…」
「一回経験してみたらわかるよ、なんてことないって。やってあげよっか、あたしでよければ」

恵那さんは乾いたお通しのキャベツを口に放り込み、ジャキ、ジャキと音を立て咀嚼しながらそう言った。
僕が? 吐く?二度とすることはないと決別した行為。消し去った感覚が鮮明に蘇る。あり得ない。あってはならない。もし今の僕が嘔吐をしたら、いつまで経っても取れない臭いに苛まれ、自ら命を断ってしまうかもしれない。トロトロとした吐瀉物は消化されかけた食材の欠片が混じり、食事を辞められない自分を呪うかもしれない。断れ。ただ断ればいいだけ。こんな恐ろしい女、今すぐ自分の中から排除すべきだ。僕にとって危険すぎる。理性が警告を鳴らす。それなのにどうして僕は葛藤しているのか。なぜすぐに答えられないのか。身体が熱い。瞳が潤んでいくのがわかる。

「…そんなの無理です…汚いんで」
「私はそうは思わない」
「僕は思います。吐くなんて汚い。臭いし、汚れる。人が口からあんなものを吐き出す姿も異常だ。それをあなたの前でするなんて…絶対に、むりです」
「私は君を汚いと思わない。私のこと信じられない?」
「それは…」

正面に座る彼女が僕をまっすぐに見つめる。それは平然としているようで、僕に選択肢なんてない問だった。僕の手足は自由で、今すぐここから逃げ出すことだってできるはずだ。しかしそれはどこまで行っても彼女の支配する空間。逃げ切るイメージは、湧いてこない。

「大丈夫、私上手いから。なるべく苦しくないようにやるよ」
「でも…ほら、場所だってないですよ。 この店のトイレは男女別だし、そもそも他人が吐いたことがわかってる便器に顔なんて近づけられない。臭いなんてなんてしたら、僕は冷静でいられる自信がないです。それに僕は今まで何十年も吐かない訓練を積んだから、吐ける気がしないです。イメージもできない。それでも万が一、醜くただ吐いたものであなたを汚してしまうかもしれないじゃないですか…」
「……それだけ?」
「…え?」
「心配ごとはそれだけ?」
「それだけって…」
「だって、思ったより心配なさそうだから。場所は私の家でいいよ。こっから近いの。吐けなきゃそれでもいいじゃん。君はこんなことをしても吐かないっていう自信が安心に繋がるかも。何度もいうけど私は君を汚いと思わない。唾液なんてみんな持ってる。私は自分と同じ“人”に触れるだけ」

僕はただ呆気に取られ、それ以上返す言葉が見つからなかった。彼女から繰り出される言葉の数々から、汚さや軽蔑を感じなかった。むしろ健やかで清潔。他人を嘔吐させようとしている人間の方が正しく美しいと感じるこの世界に、僕が必死に守ってきたものは誰にも知られず小さく静かに砕け散った。
僕は自分が何なのかわからないまま、彼女に導かれるよう店を出た。
------------------

最後までお読みいただきありがとうございます。

宜しければ、Twitterフォローお願いします。
主に新しい物語、SM、日常をぼやいています^^♥

::::::::::୨୧::::::::::୨୧::::::::::୨୧:::::::::::୨୧::::::::::
■Twitter
https://twitter.com/amanegaanone

::::::::::୨୧::::::::::୨୧::::::::::୨୧:::::::::::୨୧:::::::

いいなと思ったら応援しよう!

あまね@ SM短編
サポートいただけたら嬉しいです。 少しでも多くの癖を刺していきたいと思っています。 よろしくお願いします。