エッセイ【私はガラスのハート。】ⅰ〜心が弱いね、と言われ続けた日々を振り返って思うこと〜
泣き虫
心が弱いね、と言われたことはあるだろうか。
私は、幼少期から叱られる経験が多かった。
そのうえ、大きな声で叱りつけられると、反射的に涙が出てしまうほどの弱虫であったため、いつも大人からは「心が弱い」ガラスのハートであると言われてきた。
しかし、自分が泣いていた原因を振り返ると、心が弱いからではなく、むしろ心が強いから、自分の意思がはっきりしているからである気もする。
例えば、
自分なりに考えて行動した結果が認めてもらえないこと。
自分が傷つけられたとき。
家族が傷つけられたとき。
大切なものを失った時。
悔し涙。
特に悔し涙は、人一倍経験したと思う。
幼少期の自分は、何かとつけて競争することが好きだった。
徒競走や縄跳び、うんていに鉄棒。
さまざまなことでクラスメイトと競争し、自分から挑む競争は、大抵全敗。
何一つ周りより上手くできないことにとにかく悩んだ。
小学校の勉強では、漢字の小テストで毎回必死に勉強するものの、本気で0点を取ったことは、一度や2度ではない。
悔しい。少しでも上手くできるようになりたい。
この感情が、私の生きる原動力だった。
そんな生活を送りつつ、どうしてもすぐ涙が出てしまう癖はなかなか治らなかった。
それが他人には「心が弱い」と見えたようだ。
でも、泣いているから心が弱いのだろうか。
悔しいと思って、たくさん努力した上で挫折し、泣くことは、悪いことなのだろうか。
今思えば、悔しさを人一倍感じ、様々なことに挑戦し続けたからこそ、努力の素晴らしさに人一倍気づくことができるようになった。
心が弱いと言われる要因はなんなのか改めて考えると、「すぐ泣くこと」に起因していたのかもしれない。
ありがとう
小さい頃は、大人は努力するのが当たり前なものだと認識していたため、親が家事をしてくれたり、様々なところに忙しい時間を縫って連れて行ってくれたとしても、「ありがとう」が言えなかった。
また、人に感謝される、という喜びがわからなかった。
親には「ありがとうって言われると、嬉しいでしょ?」と定期的に言われていたが、当時の自分は、本気でこの言葉のもつ意味を理解できていなかった。
「ありがとう」と言われることがなぜ嬉しいのか、本当に理解できなかった。
この言葉をかけられただけで周りは笑顔になるが、別に何かいいことが起こったわけでもない。
ありがとうと言われても、別に自分にいいことがあるわけでもない。
当時の自分からしたら、ただの5文字の日本語であった。
しばらくはとりあえず言っておくと周りが喜ぶ「都合のいい言葉」という認識であったが、とある出来事をきっかけに、「ありがとう」という言葉が持つ大きな意味を初めて理解することになる。
その出来事は、中学校2年生の理科の授業中に起こった。
その時、授業の内容は電気の単元で、「オームの法則」の計算を練習する回であった。
先生の作ったプリントの問題を解き終わった人から先生に採点してもらい、全問丸がついたら、まだ分からない人に「先生代理」として教えに回るというシステム。
その授業で私は、クラスで2番目に早く解き終わった。
女子の中では1番早かったので、まだ分からない女子に対して、どうやって考えるのかを一生懸命伝えた。
1人に伝え、2人に伝え、最終的には十人以上のクラスメイトに解き方を教えて回った。(当時のクラスは男女合わせて31人学級)
流石にここまで人数が増えてくると、最初はやる気のあった私もだんだん疲れてきたが、必死に自分の任務を全うした。
その時、「ありがとう」という言葉を教えた友達から聞く度、疲れがなんとなく癒やされた気分になった。
たくさん「ありがとう」と言われた1日はそれが初めてだったが、この言葉には、人と人を繋いで、人のために何かをする気持ちにさせる意味があることを初めて理解した。
だから、「ありがとう」と言われると嬉しいし、癒やされ、自己肯定感が高まる。
それまでは、対価なしに人のために何かをする意味がわからなかったが、その日から、人のために動くことを好むようになった。
「ありがとう」と言われるために。
他人に尽くし始めて3ヶ月ほど経った頃、だんだん周囲からは「ありがとう」の言葉が消えていった。
私がそれをするのが当たり前になってしまっていたからだ。
当時の私は、それに対して怒り狂っていた。
「なんでこんなに色々なことをしてあげているのに、ありがとうと言ってもらえないんだ!」
怒ったことで、さらに周りから人は離れていき、「ありがとう」という言葉は耳にしなくなった。
それに対して、心が折れたことは言うまでもない。
ありがとうを期待してした行動が、その後私がいじめられる原因になることも知らずに、とにかく人のために行動し続けて心を崩した。
人間は愚かなものだ。
人間はいいことにも、悪いことにも慣れるようにできている。
どんなにいい環境にいても、いずれそれにも慣れて、ありがたみは感じなくなる。
そのような人の口から自然と「ありがとう」という言葉が出てくることはない。
そもそもの話、「ありがとう」の一言をもらうために行動するのではない。
行動した結果、「ありがとう」と言われたら、ラッキー程度のおまけと捉えるべきである。
いわば、ガリガリくんのあたりくじを引いてラッキー、的な感覚でいるのが、本来の「ありがとう」という言葉の受け止め方なのだと思う。
「ありがとう」という言葉をもらうことは目的ではないことを決して忘れてはならない。
そして、こちらが誰かからの善意を受け取った時は、積極的に「ありがとう」と言うのは礼儀であり、一つのマナーであると理解したのである。
ここまで読んで下さった方に、最大限の感謝を込めて。
お読みいただき、ありがとうございました。