分かるということ
ニュートンが万有引力の法則を発見する前から林檎は木から落ちていた
前に通っていた整体の先生の言葉。
真理だと思う。
人間は(と、デカい主語を使う)、人間の言う科学的根拠の前に自然界の原理原則があるということを忘れてしまう。
自分の中で定義できていないのに外側にある誰かが言った根拠を頼りにしてしまう。
ヒトが万有引力の法則を発見して定義する、そのずっと前から法則は働いていた。
だから、現代の人間の世界で、人間の理屈で、証明できていないモノが存在しないとか間違っているわけではない。
そもそも自分の中で繋いでいる点と点、その因果関係を証明することは難しく、最終的には私がそう思うか思わないか、私がそう信じるか信じないかみたいな話なんじゃないかと思う。
2011年、興味本位で火山に関する講座を受けた。
東京大学の教授らしい高齢の講師は地球の内部構造についてさんざん説明した後、
ま、そういうことになってるってだけでわかりませんけどね!
人間は宇宙には行ったことがあっても地球の内側には行ったことがないんですから。
と言い放って、豪快に笑った。
「わかりませんけどね」という言葉は無責任にも聞こえるけど、こういう感覚はとても大事だと思った。
(「火山はプレートの100〜110kmの位置にあり地震によって噴火が誘発されることがあるんです。あんなに大きな地震があったから来るか来るかと期待してたんですけどねぇ…」とマッドサイエンティスト的な発言をしていたのはちょっと引いた)
何事も、学べば学ぶほど不思議なことや分からないことがでてくるのが常で、人間が知れることなんてきっとほんのわずか。
さらに一般庶民が世の中的に「そういうことになっている」ことが本当なのかどうかを自分自身で確かめることは困難で、本当の本当のところは分かりようがないと思う。
地球が本当に丸いかどうか、私には断言できない。
いろいろ学んで調べて、「今のところ」「自分は」これが「真実だと思う」とは言えても、これは絶対にこれはこう!その根拠はこれ!あなたは間違ってる!って言い切れることって少ないんじゃないかと。
だからなにかに対して、正しいとか間違ってるとか個人同士が熾烈なバトルを繰り広げてさらには憎しみ合ったりすることがものすごく無意味に感じる。
分断を促す構造に飲まれてしまっているパターン、リアルでもネットでも目にする。
私も、なんでこの人は気がつかないんだろう?なんでこんなことを言うんだろう?なんでこんなことをしてるんだろう?と他人に対して思うときがあるし、私も誰かにそう思われていると思う。
でもそれは単なるステージの違いなんだと思う。ただ単に現在地が違う。見えてる景色が違う。どちらが良いとか偉いとか上とか下もない。
お互い自分のステージで頑張って生きているねということで、誰もがその時その時の瞬間ベストを選んでいる。
あとから振り返って間違っているように思えても、その時はそうするしかなかったということがこの世にはある。
だから誰かを説得したり論破したり戦う必要はなく、される必要もない。
お互いに間違える権利、悩む権利、苦しむ権利、泣く権利、怒る権利がある。
「分かる」ことは「分ける」ことで、人やモノに境界線を引くことでもある。
でも誰にでも分かりやすくはっきりと同じ場所に引ける境界線は存在しない。
だから「分かる」ということは、本当はとても難しいことだと思う。
よくアーティストが「自分で自分に満足したら終わりだ」みたいなことを言うけど、それに似ていて、私もこの世界のことや誰かのことを「分かった気」になってる瞬間の自分はちょっと終わっていると感じる。
私は、私が、この世界の曖昧さや矛盾、揺らぐ境界線に対して、寛容さを持てないことが苦しみの原因のひとつだと考える。
どんな人で在りたいか?
どんな風に生きたいか?
私は、「温かい人」になりたいと思う。
これまでこの世界は危険だと信じていて、他人は私に悪意を持っていて、私を傷つける存在だと思ってきた。
いつも臨戦態勢で生きてきたし、今もそう。人といて、心が安らぐということがない。それが悲しい。
交感神経優位でアドレナリン全開。
いつでも逃げられるように心臓に血を送る。
手足が冷く、息もしづらい。
心と体が警報音を鳴らし続けているから疲れる。
だからこそ、いつもすべてを許したいと思っている。
すべてを許して、楽になりたいと。
自分と他人のありのままを認められる人。
今この瞬間にただ居られる人。
自分の心に寄りそって自分で決められる人。
そうなれたら楽だろうと思う。
そのために私の根底に流れているべきモノは、根拠のない「大丈夫」という感覚だと思う。
私はどうやって「大丈夫」を持てるようになるのか。
どうやって愛着の問題を克服できるのか。
分からないまま、考え続けている。
先日、7ヶ月継続したカウンセリングを終了した。
特に何かが大きく変わったこともなく、だからといって無駄だったとも思わない。時間が経って分かることも出てくると思う。
この話は整理できたらいつか書こうと思う。