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「パリの砂漠、東京の蜃気楼」が刺さりすぎて

金原ひとみのエッセイ、「パリの砂漠、東京の蜃気楼」が刺さりすぎて痛い。

その理由は、西加奈子の推薦文を読んで腑に落ちた。

自分を愛することを認めてくれる人はたくさんいるけれど、自分を愛さないことも認めてくれる人は稀有で、金原ひとみさんはその一人だと思う。

巷に溢れる「自分を愛そう」とか「自己肯定感」とか「自分軸」という言葉、幸福と繋がる道はたぶんそっちの方向にあるのだろうとは思う。

でもそれらが私とは一生交わりそうもない遠い世界の言葉に聞こえるときもある。

私は外国に住んだことも結婚したことも子供を産み育てたこともないし、小説も書いたこともなく創造の苦しみも知らない。

エッセイを読んでいても金原ひとみとは全く違う人間で、全く違う人生、全く違う世界を生きていると感じる。

ただ、彼女が感じている苦しさの種類が私のそれと似ている気がした。

読みながら何度も、そんな風に抱えて生きていたら大変だよ、どこかに置いていきなよ、と言いたくなった。

私も誰かにそんな風に思われている。

握りしめて手放せないたくさんのものたちがこんがらがって心が雑然としている反面、どこまでも空っぽで何も無いようにも感じられて、ときどき呆然とする。

私の心の中には子供がいて、その子供は世界のあらゆるものを恐れている。

心細さを表現することも克服することもできないまま、暗闇で壁をつたい歩いているようなおぼつかない瞳で立ち尽くしている。

私はずっとその無力な子供に苛立ちと嫌悪を感じてきた。

弱さを愛せず向き合わず無視して、外側に答えを求めて流されるように生きてきたのに、すべて自分で選んで決めたかのような「ふり」をしてきた。

「ふり」をすることで生き延びてきた。

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カウンセラーに、この先もし心理療法で回復したら私の厭世感もなくなるのか聞いてみた。

それはなくならないだろう、健全な大人として生きることは社会の間違いをより目にすることでもある、といったニュアンスの答えが返ってきた。

間違った社会で人は幸せになれるのか。
自然の循環の輪から外れた人間は生きるに値する存在なのか。
そういった思いを長らく持ち続けてきた私が、それを捉え直すことができるのか。

その疑問に対して、映画「ライフ・イズ・ビューティフル」や「この世界の片隅に」のようなイメージだと言った。

不条理な世界でも幸せを感じることはできる、という意味だと解釈したけれど、私は社会のシステムエラーと人間の幸福が真に共に在ることは不可能に思える。

オセロのように一気にひっくり返すことなどできないこの世界で、自分の矛盾を受け止めて、自分以外の苦しみを見つめながら、絶望せず、信じて、与え合い分け合いながら、幸せに生きる、なんてことが可能なのだろうか。

映画のこともカウンセラーのことも自分のことも疑いつづけている。

信じたい、世界を捉え直したいと思うのに。

金原ひとみの言葉がヒリヒリと滲みてくる。

言った子がいずれ自分の言ったことに苦しむ日が来るかもしれないこと、言われた子がその言葉を一生忘れられないかもしれないこと、そういうことを言われる可能性のある世界に生きているこということ、あるいは自分が差別だとは気がつかずに吐いた言葉で誰かが苦しむかもしれないということ、人の傷つきやすさ、人の傷つけやすさ、全てが恐ろしく感じられた。
(中略)
 この砂漠のように灼かれた大地を裸足で飛び跳ねながら生き続けることに、人は何故耐えられるのだろう。爛れた足を癒す誰かの慈悲や愛情でさえもまた、誰かを傷つけるかもしれないというのに。

パリの砂漠、東京の蜃気楼/金原ひとみ





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