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29.愚痴や自虐に浸って滞るのはもうやめよう。「考え」、「行動」するのが、生きるということ。

コロナ禍は、私にとって悪いことばかりではありませんでした。何よりも世の中について、生命体としての自分について、問い直す切っ掛けをつくってくれました。
で、思ったことは「騙されていた」ということです。教えられてきた「人間としての生き方」そのものが間違っていたということです。「私は奴隷として育てられ奴隷として生きてきた」と思いました。

両親も学校の教師も社会も国も私に「」を教えてきた、と思いました。もちろん、彼らも「奴隷」として生きていましたから、私に嘘を教えているという自覚はなかったと思います。なんという悲劇でしょうか

いままで死に物狂いで働いてきました。下請けのマーケティングという仕事の性質上もあるかもしれませんが、忙しいときは終電に間に合わずタクシーで帰宅する日々が続き、タクシーで帰宅しても3時間ぐらい眠ってまた出勤というのが辛くて、会社の会議室のテーブルの上で寝ることもありました

翌朝、そのテーブルの上に資料を置いてプレゼンなど行うわけですが、それがなんだか「プチ復讐」のような気がして面白がっていたこともありましたが。

「血ヘド吐くまで仕事頑張ります!」と強がっていた同僚が、2日続いた徹夜作業の最中に、私の目の前で本当に血ヘドを吐いて救急車ということもありました。その同僚は田舎へ帰りました。
大手の広告代理店でも過労で自殺してしまった方のケースが話題になったこともありましたね。

いまでは何もそこまで辛い思いをして働かなくてもいいのにと思いますが、仕事の真っ最中は忙し過ぎて仕事のことで頭がいっぱいで思考停止しているわけです。そうしなければ生きていけないと思っていました

で、いま思うわけです「なんと馬鹿なことをしていたのだろう」と。仕事後の飲み会などではみんなで会社や上司の悪口とか愚痴や自虐ばかり言っていました。そうしてストレス発散していたのです。それをどこかで吐き出さなければ精神のバランスが崩れそうでした。

上司が悪いわけでもなかったのに、仕事の仕方が悪いために人間関係が歪んでいましたそのような人間関係が形成されてしまうことが悲しいと思っていました
そのような現象を不思議に思い、私は多忙ながらもしつこく哲学組織論を学び続けました。そうしなければ精神が崩壊してしまいそうだったからです。
で、いまではしつこく追及し続けて本当によかったと思います。なぜなら、見えてくるもの、視界が徐々に広がってきたことが実感できるからなのです。
考えること」が大切だと私が言い続けているのは、そのことをお伝えしたいからです。

で、コロナ禍が切っ掛けで私が強く思ったのは「愚痴や自虐に浸るのはもうやめよう。考え、行動するのが、生きるということなのではないか」ということです。

コロナ禍での情報収集は、マスメディアは信用できないということを痛感しましたので、YouTubeやTwitterをはじめネット上で行いました。
いわゆる「真実」と思える情報を大量に見つけることができました。「騙されていた」とわかったのも、それらの情報のおかげです。有り難いことです。
奴隷システム」に気づいた人は多いです。すでに次のようなドラマがつくられていました。

■ TVドラマ『ドラゴン桜』よりhttps://video.twimg.com/ext_tw_video/1585287356050833408/pu/vid/480x270/4QUlBM0tqodC8qqn.mp4

凄いですね。よくぞここまで言ってくれたと思います。最後のセリフ「自分なりの答えを出す力をつけろ。そのとき初めて馬車馬は人間になれる」には激しく共感しました。
自分なりの答えを出す」そのために私は哲学が役に立つと考えているからです。

ネット上では「真実」「現実」を把握した人が増えてきました。次々と「事実」が暴かれ、みんな驚き怒り嘆いています。愚痴や自虐を言っています。
私もしばらくは嘆くばかりでしたが、いつまでもそこにとどまっているわけにもいかないことにも気づきました。生きなければならないのです。

生きるということは、絶えず流れているというか循環しているというのが、私のイメージです。
拙稿「21.コロナ禍の中で見えてきた希望、それは里山(縄文)文化。」でも触れましたが、分子生物学者福岡伸一氏も次のように述べています。
身体を構成するタンパク質、炭水化物、脂質、核酸などの分子は絶え間なく分解と合成を繰り返し、休みなく入れ替わっているため、実体としての物質はそこにはない

つまり、私たちの身体は固定された物質ではなく、いわば「流れ」であるというのです。常に細胞を分解しては捨てながら、新しい細胞を合成していく、その運動が生命だというわけです。
そのような流れに沿って考えていくと、人と環境(外界)の境目とは、いったいどこにあるのか、わからなくなってきます。

私たちは環境(外界)との境目は皮膚だと考える傾向にあります。なぜなら、目で見てそう思えるからです。
しかし、人間の視覚はそう見えるようにプログラムされているからそう感じるということもいえます。皮膚を通して触ることができるから、そこに境目があるとわかると感じることもできます。しかし、それもプログラムされてそう感じると考えることもできます。

量子力学的にいうと、物質の違いとは素粒子の振動数の違いです。私たちは、振動数の違いによって世界を認識するようにプログラムされているのかもしれません。
そう考えると、皮膚の外側の世界って、どんなものか、わかったものではありません。プログラムを書き換えると、また違った世界が認識できる可能性があります。やはり、この世界はマトリックスなのでしょうか。

などと日々朧気(おぼろげ)ながら考えている私ですが、10月の初旬、自分でプログラムを書き換えることも可能だという体験に遭遇しましたので、ご報告します。
拙稿「27.国破れて山河もなし? 縄文土器は火焔ではなく水紋、水の宇宙を忘れた日本の行方。」で紹介したドキュメンタリー映画『杜人』の主人公で造園家環境再生医でもある矢野智徳氏が開催している「大地の再生@上野原講座」を受講してきました。
上野原の里山整備を通して大地の再生の視点と技術を学ぶ講座で、水田や畑だけでなく樹林や河原や川そのものの手入れを実際にやらせていただきました。

まず、上野原の畑に立って感じたのは「風が気持ちいい」「空気が明るい」ということでした。

矢野さんと上野原の水田。
野生のイノシシが自分流の手入れをした跡。
矢野さんによれば「イノシシなりの考えがあってやったこと」なのだそうです(笑。

水田では周囲の雑草を刈って風の道を作ったり、水田の泥に三角ホーを打ち込んで「点穴」を掘ったりしました。
すると、気が付けば風の道蝶やトンボが通って行くのです。「点穴」は、泥に三角ホーを打ち込んだ瞬間、水面に小さなができ、空気や水が地中を循環していくのがわかります。空気と水が気持ち良く流れ、世界が変化していく感覚を体験しました。不思議な感覚です。正直「へ?」と思いました。

次に川沿いの桜並木へ行きました。前日みんなで川沿いの雑草を刈って風通しを良くしたとのことでした。行った瞬間、前日作業した方々が「桜の葉が元気になっている。枯れそうな色だったのに、緑になっている!」と驚いた様子でした。
矢野さんの説明では「空気の通りが良くなったので、桜がそれに応えた」とのことでした。

もう桜の葉も枯れ落ちる季節ですから、前日はこのような緑の部分はほとんどなかったそうです。

樹林にも連れて行っていただいて、そこでも風の道水の道を考えながら雑草を刈り、地面に次々と「点穴」を空けていきました。
時刻は夕方近くになっていました。私はこの時間帯の樹林は蚊がいるので苦手でした。ところが作業を終えてふと気がつくと、頬に優しい風が当たって気持ちいい感触があるのです。風が変化していました
矢野さんが「蚊がいないでしょ」と言われて、私は激しく頷きました。これも「へ?」でした。不思議不思議、こんな単純なことで世界が変わる。

次に以前みんなで川の流れを正すために、川の中にある岩や流木を片付けた場所へ案内していただきました。現場へ行くまでは、片付ける程度で川の流れが正しくなるといっても、凡人の私にそれがわかるのだろうかと、それほど興味を感じないままでいました。実際、目で見たときは「あ〜水が流れている」と普通の川のように見えました。
で、矢野さんが「音を聞いてください」と言われて、意識を音に向けたときまた「へ?」と思いました。なんと、せせらぎの音の心地よいこと! 
正しい川の流れは、このような音になるのかと、また新しい発見がありました。
そのときはブログ用に撮影する気持ちがなかったため中途半端な撮影ですが、みなさんにその片鱗をシェアしたくなりましたので、その音を感じてみてください。(矢野さんの声も入っていますが、水の音はわかると思います)

■上野原の川の音

頭の中ではいわゆる「風の道(風脈)」「水の道(水脈)」の重要性は理解しているつもりでしたが、このような簡単な手入れで、これほどまで風や水の流れが変化するとは想像していませんでした。
実際は想像以上に大きく動くことに驚愕しました。肌で感じるのです。
これは目で見てもわかりません。五感を全開にしなければわからないことだと思います。「目に見えない世界」の素晴らしさを実感します。これだけでも世界観が変わります

自分という枠を超えて「命の全体性」を感じます。地球とつながったような喜びを感じます。
料理研究家土井善晴氏が「料理を突き詰めて考えていたら『自分と地球がつながっている』ことに気がついた」と何かで言っておられたことを思い出しました。普段食べているものが「地球とつながっている」ことに気づいたとのことです。土井さんは「常に地球を背にして料理をしている」そうです。
物事をしつこく考え続けた人は、このような境地に辿り着くものなのかもと思いました。
矢野さんも自然や命について、しつこく考え続けてこられた方だと思います。お話そのものが哲学的で参考になることがたくさんあります。

上野原での体験を通しても「考え続けること」、それが生きるということなのだという思いに至りました。そして「考え続ける」ために世界に対して「行動」し、その手応えに応じてまた考える。そしてまた「行動する」。それが生きるということなのだと思います。
そう考えると、この世界には面白いことがたくさんあるという期待が膨らんできます。悲観している場合ではないと思うのです。

■おまけ(Twitterからのいただきものです)

この情報を鵜呑みにはしないでください。必ず自分で情報を追って自分で確かめて自分の頭で考えてください。
これらの情報をどのように解釈し、どの道を行くか、それはあなた次第です。

■参考図書■

※『一汁一菜でよいという提案』は、普段の食事は基本的にご飯と具沢山のお味噌汁だけでよいという土井善晴氏の提案で、私も同感です。時間や気持ちに余裕があれば気が向いた料理を加えれば、それでいいのではないでしょうか。日本は料理のバリエーションが増えすぎて、それが当然という雰囲気になっていますが、それが料理を担当する人の負担になっているのが現状だと思います。料理の数が足りないと思ってコンビニやスーパーで出来合いのおかずを買うより、なるべく農薬や添加物が使われていない食材でお味噌汁を作った方がいいと思います。栄養のバランスもとれますし。自分の体は自分が食べたものでできている、ということをよく考えてみてください。

※『地球』は矢野智徳さんのお勧めの絵本です。加古里子さんの作品で、下図のように地面の下の様子や地表の生き物との関係が緻密に描かれています。このような関係性をイメージできれば、地球と自分との関係性も自ずと見えて来ると思います。子どもはもちろん、大人にも参考になる絵本です。

『地球』加古里子著より

※『かわ』も加古里子さんの作品でお勧めの絵本です。山に降ったが海へと旅をしていく様子を描いています。川と人間の関係性がよくわかり、命の全体性をイメージしやすい構成になっています。

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