哲学#021.教育、何を教えるべきなのか。
繰り返しますが、人は「人間」となるように教育されなければ「人間」になることはできません。
いまの世界の悲惨の元凶は、まともに成長して「人間」になった人の絶対数の少なさにもあると思います。
なぜそのようになってしまったのかというと、人の本能には子育てのノウハウが組み込まれていないためです。人は誰かから学ぶことなしには子育てを実行することができません。ところが多くの人は子育てを学んだ経験がないままに子どもをつくり、とりあえず食を与えて身体は「大人」サイズにまで育てます。
しかし、身体だけ「大人」サイズになっても心・精神・魂が育っていなければその個体は社会では「大人」として機能しません。その程度のことは、多くの人は言葉のうえではわかっているのではないでしょうか。
ところが、心・精神・魂が「大人」に育つとは、いったいどういうことなのか、それがわかっている人は少ないと思います。紀元前の昔から多くの哲学者が存在していましたが、模範となる「人間像」は伝承されてきていません。これはかなり摩訶不思議なことだと思います。
その時代の体制における理想の「人間像」というものはありました。しかしそれはイデオロギーや宗教など、そのシステムを利用して利権を得る人々に都合の良いものであって、支配される側の人々からしてみれば、反発せざるをえないものでした。
たとえばグローバル化が良しとされている現代でいえば、国際競争力に勝てるような仕事に優れた人が「大人の人間」とされています。しかし、そのために安い賃金で働かされている労働者からしてみれば、それは人間ではなく「鬼畜」なのです。
しかし、人生いろいろ、人もいろいろ、大人もいろいろ。時代によって社会体制によって価値観も変わり人の生き方も変わります。どのようなあり方が「大人」であり「人間」であるなどという定義はできないのではないかという考え方もあるでしょう。人は基本的に自由な存在であり可塑性があるのではないかと。
ところが「自由」というのは、単に「自分がしたいことをする」ことを指しているのではないと思います。自由には条件があって、「自分がしたいことをする」ためには「自分がしたいことをした責任」を自分で引き受ける必要があります。責任を引き受けることができなのなら、それはただの駄々っ子です。「大人」のすることではありません。
つまり、「大人」になるには絶対的な条件があるということになります。それは「自分は他者の中に投げ込まれている社会的存在である」という自覚なのだと思います。
そもそも「自由」という状態は、他者の存在があってこそ成り立つものです。他者がいなければ自分のしたいことをさまたげるものは何もなくなります。「自由」という言葉そのものがいらなくなります。
他者がいるからこそ、やっていいことと悪いこと、善悪、大切なもの、意味、価値などという言葉や概念が存在しているのではないでしょうか。
かつては私も人の心は自由だから、どのような考え方も生き方もアリで、可能性は四方八方全方向へ広がっていると考えていた時期がありました。絶対的なものなど存在しない、すべては相対であると。
しかし、いろいろと探っていくうちに、絶対的な一つの方向があることに気がついたのです。人が人間として生きて死ぬための知恵としての道があるのではないかと。
たとえばそれは、凧の糸のようなものです。凧は糸を引っぱるから空高く自由に飛べるのであって、その糸がなければ地に落ちます。人もその糸のような制約を意識しなければ、自分を活かすことはできないと思うようになりました。つまり、自分を律することこそ、自分を活かす道であると。
つまり、「自律」こそが自由への扉なのだと思うのです。
「自律」とは、外部からの制御を脱して、自分の立てた規律に従って行動することです。ちなみに反対語の「他律」とは、自分の意志ではなく他からの命令によって行動することです。カントはそれに加えて「意志が理性の命令ではなく、感性の自然的欲望(傾向性)によって規定されること」としていたらしいです【※1】。さすがカントです。目のつけどころが天才です。人の悪癖を洞察しています。
人の感性とはけっこういい加減なものだと、誠実に生きている人は経験から学ぶと思いますが、子どもの本能というか欲求というのは、またあなどれないものだと思うこともあります。それは子どもは自分が生存するために必要なものをあらかじめ知っているふしがあるということです。赤ちゃんがミルクを求めて泣くのと同様なことです。
子どものころ、親や教師に対して「親になるための試験はなぜないのだろう」とか「キレイごとばっかり言って本当に大事なものは何も教わってない」と思ったことはないでしょうか。自分は何か大事なことを教わるべきなのに、それを教わっていないとなぜか知っていた人は多いと思います。
で、多くの人は教わる機会のないままに身体だけ「大人」サイズになって社会に出て、多くの失敗にぶつかりながらトライ&エラーで人間として生きるために大事なものを学んでいきます。また、経験だけでなく知識も必要で、莫大な量の書物やメディアから情報を探っていかなければなりません。そしておぼろげながら大事なものがわかりかけてきたときには、もう年老いていたりします。
それはそれでいいのですが、なんと効率の悪いことだろうとも思います。子どものころに少しでもわかっていれば、もっと自分を活かすことができ、周囲の人々をも活かすことができるのにと。
同様に思っている人も多いはずです。そして自分が子どもを持てば、同じ苦労を子どもにはさせたくないと思うでしょう。そう思って自分の子どもへ知恵を伝承しようとした人がいます。
その人とは、『一人の父親は百人の教師に勝る!(原題:わが息子よ、君はどう生きるか)』【※2】の著者フィリップ・チェスターフィールドです。彼は次のように記しています。
「これは長い経験の末、私がたどりついた知恵の結集だ。君に対する愛情の証(あかし)だ。…(中略)…たしかに世間のことは理論ではわからない。実際世間に体をひたしてみなければわからないからだ。けれどその前に(若者が、迷路だらけの土地に足を踏み入れる前に)そこに足を踏み入れたことのある経験者が、大まかな地図を書いて渡すくらいのことはしてもいい、私はそう思うのだ」と。
チェスターフィールドは18世紀のイギリスの政治家で、この本は彼が離れて教育を受けている息子に送った手紙を編集したものです。内容は自分の後継者としての息子に向けた上流階級での生き方のノウハウです。そんな昔の異国の上流階級向けのノウハウなど、現代の日本の下層階級に有効なはずがないと思われるかもしれませんが、それが有効な内容なのです。
なぜかというと、その内容がいつの時代にも誰にでも役に立つ「普遍性」をもっているからです。
「普遍性」とは「良識」のことです。「良識」という言葉を出すと、どういうわけか日本では反発する人が多いですが、それは「社会通念」と混同しているせいだと思います。
「社会通念」とは自分の頭で考えたものではなく、いつの間にか一般化してしまっていた「他律」の通念と定義した方がいいと思います。それとは反対に「良識」とは、「まっとうな判断力」がある人が考えれば誰でもそういう考えになるという「自律」による見識のことです。
子どもが「キレイごとばっかり言って本当に大事なものは何も教わってない」と親や教師に反発するのは、「自律」によって得た「良識」ではなく、「他律」による「社会通念」を押しつけられるからだと思います。自分の頭で考えた結果ではなく、ただ通念としてそうなっているからそうなのだと子どもに説教したところで、言葉が心に届くはずがありません。
「道徳」や「倫理」という言葉を口にする人は多いですが、その内容がどのようなものであるか、真に自分の頭で考えたことがある人は、いったいどれだけいるのだでしょうか。それが「自律」によるものか、「他律」によるものなのか、自問自答する自覚は必要だと思うのです。
で、チェスターフィールドの書いている内容は、「自律」だと私は思うのです。その根拠は、「自分は他者の中に投げ込まれている社会的存在である」という認識をベースに、その状況のなかで「まっとうな判断力」を養う心得を説いているからです。
私も自分の頭で散々考えた結果、「まっとうな判断力」を持つことが人間の「値打ち(価値)」だと考えるようになりました。
人が生きるということは、判断の連続です。その時々で何をどのように判断して行動するか、それによって人生は豊かにも貧しくもなります。どんな些細なことでも同様です。何を食べるか何を着るかということも自分の進む道に影響してきます。運命というものがあるとしても、自分の判断によって、人生は変わっていきます。
「判断」というのは「見識」です。チェスターフィールドは次のように述べています。
「『優れている』というのは、広い知識と物事に対する見識があり、そして態度も立派な人のことだ。…(中略)…見識を持たない人間は、寂しい人生を歩むことになる」と。
彼はただ勉強すればいいと言うだけではありません。知識だけではなく「見識」が大切だと説いているのです。知識だけで見識のない人間が、どれだけ社会に迷惑をおよぼすか、最近の官僚の不祥事などからも容易に想像できます。
彼の思考は緻密です。「態度の立派な人」についても的確に述べています。それは「自分の意見は控えめにはっきり言い、ほかの人の話は気持ちよく聞く」人です。
また、彼は自分の思考を吟味する重要性を繰り返し述べています。
「まず『ほんとうに自分の考え』かどうか見直してみる。自分の頭を使って、物事をしっかり考える習慣をつけてほしい。まず、現在の君の考え方をひとつひとつ点検し、ほんとうに自分でそう考えたのか、人から教えられた通りに考えているのではないか、偏見や思い込みはないか、と考えることから始めてほしい。偏見がなくなったら、自分の頭を使って、いろいろな人の意見を聞き、正しいか正しくないか、どこが正しくないかを考え、すべてを総合して、自分の考えを持ってほしい。…(中略)…もっとも、人間の判断力がいつも正しいというわけではない。狂うこともあるだろう。けれど、狂いの一番少ない指針であることに変わりはない」
以上の言説で重要なポイントは、自分の判断が間違っている場合もあるけれど、それでもなお、自分の頭で考えることが最も間違いの少ない「指針」であることは間違いないということです。
多くの人が「考えること」の重要性を訴え、子ども向けの哲学書も出版されていますが、なぜ考えることが重要なのか、その根拠を明確に示したものは少ないです。
「指針」とは、ある「方向」のことです。その方向こそが「大人」そして「人間」への道なのだと思うのです。その方向とは、「正しい」とかそういう言葉を使うのは適当ではないかもしれません。自分を最大限に活かしながら他者も活かして共存していく「合理的」な道というものがあるということです。
私はそれを「道理(良識・コモンセンス)」と考えています。
その「道理(良識・コモンセンス)」をつかむことができないと、人はどの方向へ思考を進めてよいかわからず迷子になってしまいます。迷子になってしまうと、どんなに本を読んで知識を仕入れても意味を読みとることができず、思考は永遠に空回りするだけです。
意味を読みとることができなければ、いくら勉強しても虚しいだけです。また、それは遊びにもいえることです。「楽しそうにみえること」と「本当に楽しいこと」とは違います。
チェスターフィールドも次のように述べています。
「遊び、娯楽は、ほとんどの若者が乗り上げる暗礁のようなものではないだろうか。たくさんの帆を一杯にふくらませて、楽しみを求めて船出したのはいいが、気がついてみると、方向を見きわめる羅針盤もなければ、舵を取るのに必要な知識もない。これでは、目的地である真の楽しみにたどりつけるはずがない」
また彼は、いい人もいるが悪い人もいる現実の世の中をどのように生きていったらよいのか、合理的な方法を次のように息子に伝授しています。いっさい「キレイごと」を語りません。
「周りに好感の持てる人がたまたまいなかったら、どうしたらいいか。そうしたら、誰でもいい、そこにいる人をじっくり観察することだ。どんな立派な人間でも、ありとあらゆる長所は持ちきれないのと同じように、どんなにつまらなさそうに見える人でも、必ずひとつは良いところがある。それを真似したらいい。そして嫌な部分は、反面教師にすればいい」
「実社会は意地悪、憎しみ、恨み、嫉妬などが渦巻いているところだ。努力家よりは数は少ないが、実だけを摘み取っていく、ずる賢い人間もいる。また浮き沈みも激しい。今日浮かんだと思ったら、明日にはもう沈んでいる。こんななかでは礼儀正しさや物腰の柔らかさなど、実質とはあまり関係ない装備を身につけなければ、生き残ることは難しい」
そして彼は次のように息子を励ますのです。
「人は誰でも、なろうと思うものになれると思う。普通の知力を持った人なら、能力を開発し、集中力を培い、努力を怠らなければ、『詩人は別として』、なりたいものになれる」と。
『詩人は別として』というところがポイントです。詩人には才能がなければなれませんが、才能がなくても「地道に努力してマナーをわきまえて、自分の考えを控えめにはっきり言えて、他の人の話は気持ちよく聞く」ことができれば、基本的に人は普通に社会の中で生きていける。これが人間の基本中の基本だと思うのです。
いまの日本では「才能」だとか「能力」だとか「資質」だとか、そういうものが価値のような風潮がありますが、本来はそんなものはどうでもいいことだと思います。
それよりも、生まれて何を学び、何をどう考えてどう生きていくかということの方が重要だと思うのです。つまり、人として生まれたからには「大人」になり「人間」として生きる。それが価値なのではないでしょうか。
教育とは、人間にとって何が一番大事なのか、どちらの方向へ努力すればよくて、どのように振る舞えばよいか、それを教えることだと思うのです。つまり、真の「自律」の自由への道を教えるのです。
そのためには、「判断」の根拠となる普遍性にそった「道理(良識・コモンセンス)」を探る知恵が必要だと思うのです。神とか仏とか、そういう一足飛びな絶対性ではなく、自分の足元にある「道理(良識・コモンセンス)」という絶対的な合理性を。
【※1】『広辞苑』(岩波書店)より
【※2】『一人の父親は百人の教師に勝る!(原題:わが息子よ、君はどう生きるか)』フィリップ・チェスターフィールド(竹内 均 訳)/三笠書房
【余談】
チェスターフィールドという言葉を聞いて、家具が好きな人はソファを思い浮かべるかもしれません。また、ファッションが好きな人はコートを思い浮かべるのではないでしょうか。
チェスターフィールドソファは、彼が考えて職人に作らせたものだと言われています。チェスターコートは彼の孫が考案したものという説があります。膝下まであるコートが一般的だった時代に膝上までの軽快なコートで、多くの人が愛用するようになったものです。デビット・ベッカムが着ていて話題になったこともありました。チェスターフィールド家の人々は、いろいろお洒落で楽しい生活を送っていたことが垣間見えますね。