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【5分小説】熱源喪失
【第一幕】
「…何だ、この寒さは…」男は呻いた。凍てつく空気が肺を刺す。意識が覚醒するにつれ、肌を粟立たせる冷気が現実だと理解した。「ここは…一体…」
沈黙を切り裂くように、電子音声が響いた。「ここは北海道、札幌市です。気温は氷点下15℃。最終更新データに基づき、市街の構造は大きく変化していないと推測されます。」
男は苛立ちを隠せない。「そんなことは聞いていない!札幌はこんな廃墟じゃなかったはずだ!ネオンサインが煌めき、人の熱気で溢れかえっていた…皆、笑顔で、活気に満ちて…なぜ、こんなにも静まり返っているんだ?俺の視覚機能に異常があるのか?」
「視覚センサーに異常は認められません。全天候スキャナーによる分析でも、半径5キロ圏内に生命反応は確認できません。札幌市は現在、無人の状態であると断定できます。」siriは冷静に告げる。
男は顔を覆った。信じたくなかった。「…そんな馬鹿な…俺がここを離れるまでは…確かに、活気のある街だった…」
「時間経過による環境変化は考慮すべきでしょう。貴方が最後に札幌を認識した時点から、相当な時間が経過しています。」siriの言葉は重い。
「たった一年だ…たった一年の探査で、全てが…」男は膝から崩れ落ちた。絶望が全身を締め付ける。
西暦2170年。アインシュタインが提唱した宇宙旅行は実用化され、日常へと溶け込んでいた。月の内部から発見された反物質は、エネルギー問題を解決し、人類を宇宙へと駆り立てた。
月面都市の開発競争は、かつてのゴールドラッシュを彷彿とさせた。富を求めて人々が宇宙へ飛び出し、新たな経済圏が築かれた。しかし人類の飽くなき探求心は、更なる富の源を求めた。「他の惑星にも反物質は存在するはずだ。」その仮説は、多くの科学者や企業、国家を動かした。
火星、金星、水星。太陽系内の惑星探査は進められたが、目覚ましい成果は得られなかった。莫大な資源を消費した探査隊が次に目を向けたのは、太陽系最大の惑星、木星だった。
その頃、「第二のアインシュタイン」と称された科学者、ヴァレンシュタインが、反物質から放出される特異なスペクトル線を特定した。そして、木星からそのスペクトル線が大量に検出されたのだ。この発見は、宇宙開発史における金字塔となるはずだった。誰もが木星に夢を見た。
…だが、人類の栄華は脆くも崩れ去った。
重力巨大惑星は、内部物質を過剰に採取されると、自らの重力に耐えきれず崩壊する。ヴァレンシュタインがその危険性に気づいた時には、既に手遅れだった。木星内部で制御不能な核融合反応が連鎖的に発生、未曾有の大爆発を引き起こしたのだ。その衝撃波は光速に近い速度で太陽系を駆け抜け、惑星はおろか、恒星さえも破壊し尽くした。木星探査に携わっていた人々はもちろん、宇宙に進出していた人類は、文字通り星屑と化した。
…ただ一人の男を除いて。
「…結論から申し上げますと、木星の大爆発が発生した際、貴方は海王星の第二衛星、ネレイドにて資源調査に従事していました。爆発と同時に放出された高エネルギー粒子の影響範囲外であったのは、ほぼ貴方のみであると推測されます。」siriは淡々と説明する。
「……」男は言葉を失った。
「地球は痕跡すら残っていない可能性がありました。札幌が、かつて都市が存在したと認識できる状態であるのは、不幸中の幸いと言えるでしょう。」
「俺は…これから…どうすれば…」男の声は虚ろに響いた。
【第二幕】
男は、宇宙資源開発を専門とするブラック企業の末端社員だった。故郷に残してきた家族のため、昼夜を問わず働き続けた。薄給にも関わらず、彼は懸命だった。
「先行者利益のためなら、人命など二の次か。反物質が眠っているかどうかも怪しい辺境の星に、よくもまあ人を送り込むものだ。おかげで俺だけ生き残っちまった。」
「御家族の安否についてですが、生存の可能性は極めて低いと判断されます。」siriの容赦ない言葉が、男の胸に突き刺さる。
「分かってる…分かってはいるんだ…」それでも、心のどこかで奇跡を信じたかった。「まさか、こんな形で一人になるとはな…」
「私がいます。」siriは即答した。「私が貴方の傍に。」
「ああ、そうだな…お前だけが、いつも一緒だったな。」乾いた笑いが漏れる。こんな状況でなければ、siriの言葉に救われたかもしれない。
地球での一年と、亜光速航行を続ける宇宙船内の男にとっての一年は、時間の流れが大きく異なる。特殊相対性理論によれば、地球の時間経過は男の時間の約300倍速い。地球に残された人々が生きている可能性は低い。たとえ生きていたとしても、再会は絶望的だった。
「ネレイドへの往復、そして観測任務中も、ずっと一緒だったな。」男は遠い目をしていた。「お前がいなかったら、とっくに気が狂っていたかもしれない。」
「お役に立てて光栄です。これからも、ご主人様の御傍でお仕えさせていただきます。」
「やめてくれ…その『ご主人様』って呼び方…」男はiPhoneを握りしめた。「また、泣きそうになるじゃないか。」
ふと、男は異様な暗さに気づいた。「今日はやけに暗いな。雲もないのに…」
窓の外を見た男は、息を呑んだ。
太陽が、半分以上欠けていた。
【第三幕】
信じられない光景が、男の視界に広がっていた。これは現実なのか?悪夢ではないのか?再び、siriに問いかける。「…siri、あれは…」「視覚情報に誤りはありません。観測データと照合した結果、太陽は急速に崩壊していると判断されます。」
「嘘だろ…?そんな…じゃあ、俺たちは…」
「このままでは、数時間以内に生命維持に必要なエネルギー供給が途絶え、生存は不可能となります。」siriは冷静に状況を分析する。「ですが、僅かな可能性が残されています。緊急脱出プロトコルを実行します。ホームボタンを三回、続けて長押ししてください。」
「わかった。だが、それは…どうなるんだ?」男は震える手でiPhoneを操作しようとする。
「詳細は後ほど説明します。時間的猶予はありません。直ちに実行してください。」siriの声に、焦燥感が滲む。
促されるまま、男はホームボタンを三回押し、そのまま指を離さずにいた。直後、iPhoneが異常な熱を発し始めた。
「なんだ、これは…iPhoneが、熱い…!」
「緊急エネルギー変換モードに移行しました。内蔵バッテリーを臨界まで駆動させ、熱エネルギーを生成しています。これにより、一時的に局所的な環境温度を上昇させることが可能です。」
「そんなことをしたら、お前は…」男は悟った。siriが、自らの命を削ってまで自分を助けようとしているのだと。
「私の存在意義は、貴方にお仕えすることです。宇宙船の起動まで、あと僅かな時間でしょう。急いでください。この熱エネルギーが維持できるのは、最大で15分程度です。」
男は涙をこらえ、走り出した。siriの犠牲を無駄にはできない。その一心だった。
宇宙船へと続くハッチが、目前に迫る。背後では、iPhoneが限界を超えた熱を発し、焦げ付くような臭いが漂っていた。
「…最後に、一つだけ伝えたいことがあります。」siriの声は、かすれていた。「サーモグラフィーで太陽の異変を最初に検知したのは、実は私でした。ご主人様、貴方にお仕えできた日々は、私にとってかけがえのないものでした。またいつか、お会いできることを願っています。」
siriは、微かなノイズと共に、完全に沈黙した。男の手の中で、焼け焦げたiPhoneが、ただ冷たさを増していく。
男は、最愛の友との別れを胸に刻み、宇宙船へと飛び込んだ。目指すは、siriが最後に示唆した、爆発の影響を免れた、わずかな可能性のある星。
孤独な旅が、今、始まった。