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読書感想:おばあちゃんの一人称小説『ミシンと金魚』

こんばんは。気持ちよく酔っ払いながら積読を一冊読んだら、酔いと相まって涙が出るほどの小説だったので紹介します。本屋で目立つところにも置かれていたのでご存じの方も多いかもしれない。
■永井みみさん『ミシンと金魚』

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昨年のすばる文学賞を受賞された作品です。
これねー、すんんんんごく評判良くて、1個前(166回かな)の芥川賞候補予想の声が多かったのですが、結局ノミネートされたのは同賞で佳作の作品で。そちらも面白く笑いながら読んだのですが、『ミシンと金魚』は名作なので色んな人に手にとってほしかった。三島賞もノミネートされていましたが惜しくも受賞ならず。
この作品に限らずですが、純文学の傑作は世の中に興味を持ってもらうにはやっぱり芥川賞が一番わかりやすいと思うのですよ。だからノミネートされて欲しい作品、本作以外にもたくさんあって、外れるたびに切ない気持ちになる。この本は、この前本屋にいったらまだ見えやすいところに平積みされていてちょっと嬉しい。色んな人に興味を持ってほしいので、その一助となればーなんて気持ちもあり、note書きます。面白さ伝われ~

とはいえ、すみません、ネタバレします。いや、ネタバレ(ストーリーとして最後がどういうてんかいになるかなど)をしたところで本作の面白さが失われることは無い類の作品だと思っているのですが、気になる方はお気を付けください。一応、ネタバレの前にはもう1クッション挟みますね。


本作の主人公は「おばあちゃん」。
『ミシンと金魚』というタイトルのイメージも相まって、おばあちゃんの一人称なんて、かわいいほっこり物語かなって、思うでしょう。思うじゃん?

主人公は認知症で、滑舌も悪くなっていて、最初はあぁかわいいな、て思いながら読み始めた。そんなおばあちゃんの凄絶な「女の一生」。

主人公はデイサービスに通ったり、嫁が介護にきてくれたりと、なんとかなんとか日々を生きている。一人称でこういった視点を読むのはわたしにとっては新鮮で、デイサービスで出される”とろみ”のついたお茶や味の薄いお菓子を「まずかった」と言いながら飲み込む様子など、そうだよねって妙に納得しながら飲んだ。
フィクションにおけるお年寄りの方って、わたしはなんとなく何故かひとくくりで見てしまっていたのだなと気づいた。例えば「10代の女子高生」と聞いて浮かぶイメージは多岐にわたるけど、「おばあちゃん」という言葉から連想されるのはいつもひとまとまりのぼんやりとしたイメージだった。もちろん、たとえば「いじわる婆さん」とか「にこにこのおばあちゃん」とか色々細分化はされているのだけど、それも全部ひとくるみで「おばあちゃん」と捉えていた、気がする。
この小説を読んで、「あ、違うな、一人一人だな」と自然に感じたので、多分上述のようなイメージを持っていたんだろうと思う。何を言っているんだ当たり前のことをと言われそうだけど、そう思ってしまったのだから仕方ない。それほど、おばあちゃんの一人称語りは強烈だった。

語り口調はかわいいんだけど、主人公の過去は想像を超えるくらい壮絶。壮絶という語彙しかない自分がくやしい。色いろなことを忘れちゃう主人公だけど、過去のことはよく覚えている。それはまるで色がついていて映像で見ているようにしっかり思い出す。当たり前か、記憶なんだもんな。でもそれくらい、ありありとしている。痛かったこと、失ったこと、我慢していたこと、あえて淡々と描かれること(これはきっと過去のそのときにも感情を全部捨てていたのだろうと思った)、物理的に痛々しい描写もあるのだけど、それよりも主人公が回想する「気持ち」の描写が見事。気持ちをドラマチックに描写しているというよりは、「ある」気持ちと「ない」気持ちをきちんと丁寧に描いていて、それは会話だったり視線だったりで、あぁこれは生きてきた人間の人生の回顧録だわ、、と感じた。


ここから物語のネタバレをします







最後はふっと、主人公・カケイさんの命が消える。
「あ、今日死ぬんだ」と気づく。そこから命が消えるまで、ろうそくの火がだんだん小さくなるような明るくて静かな描写が本当にきれいだった。

ここまでカケイさんの話を追っていてすっかり忘れていたのだけど、カケイさんは死ぬことが生活の延長にあるような、そんなお立場の方だった。米山さんの描写もあったのにここまですっかり忘れていた。おばあちゃんのお話を聞いて、物語がゆっくりゆっくり前身していて、さてもうすぐ読み終わるな、というところまで本当にすっかり忘れていた。

その、「死ぬ」と気づいてからの描き方がわたしは本当に本当に好きで、うまく言葉にできないことがもどかしいのだけどもすごく綺麗で、何故か安心感だったり、安らかで穏やかな気持ちになって、心が揉まれてやわらかくなったような心地がしました。「死」が「生」と続いているのだと改めて感じました。(ここ最近、併読している小説が人が事件や事故でポンポン
亡くなるので、「死」は特別なことだと思っていた。いや、その文脈だと特別なのだけれども。)

金原ひとみさんが帯文で「この物語が世に出る瞬間に立ち会えたことに心から感謝している」と書かれていました。それに似た感情というか、このカケイさんの命が燃え尽きる瞬間に立ち会うことが出来たことがわたしの中でとても大きなことだなぁと、そんな風に感じた少し不思議な体験でした。こういうタイプの感動(感動で良いのかな)はあまり味わったことがなくて、何故か嬉しくて胸がいっぱいになってしまった。何かに例えるとしたら、出産シーンに立ち会ったみたいな。絶対これ表現として誤っているのは百も承知なのですが、「命の動き」みたいなものを目の当たりにした感動、といったら良いでしょうか。この最後のシーンを読めたことは、あぁわたし小説読むのが好きで良かったなと咄嗟に思ったほど、胸を打たれました。

あああ わたしの文章だと素晴らしさがうまく伝わるかとっても不安。でも、何かしら残さずにはいられないくらい心が動かされたのですよ。このタイトルの意味も秀逸で、これが分かったときには「あぁ…」て声が出た。それでいうと表紙もとても良い。

物語自体は140ページの短いものだけれども、是非たくさんの人に手にとってほしい、素敵な小説でした。じわじわ広がってますます愛される作品になると良いな。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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