メッセージfrom飯盛山
飯盛山のFM送信所
この記事のヘッダー写真に写っているのは、大阪府四条畷市から大東市にまたがって続く飯盛山です。戦国大名三好長慶が永禄三(1560)年に入城し永禄七(1564)年に没するまで居城とした、飯盛城が山頂に築かれていた山です。その後、河内国が織田信長によって平定されると、飯盛城は天正三(1575)年あるいは四年に廃城になったと言われています。現在、飯盛山には大阪のFM放送局の送信所が建っていて、ヘッダー写真中央の山頂に鉄塔が写っています。
私の著書「河内の国飯盛山追想記」(アメージング出版刊)の表紙は、飯盛山の稜線を背景に取り入れたデザインになっています。裏表紙をよく見て頂くと、FM送信所の鉄塔が写っています。下にある写真の、赤い矢印の下あたりにあるのが見えますでしょうか。
物語の中で見上げる飯盛山が、現在も情報発信のための場所として利用されているということに関連して、飯盛山の今と昔の話をしてみようかと思います。
戦国時代、天下人三好長慶の居城がある飯盛山から各地にメッセージを伝える手段は、使者、伝令や書状でした。今は電波に乗った音声を各地で聞く形です。三好家の勢力圏は近畿から四国にかけて広大な範囲でしたが、FMはどのような範囲に届いているのか、気になったので大阪の各FM局に問い合わせてみたところ、FM802は公式サービスエリアが大阪府下になるとの回答、NHKは説明があったもののブログ等への記載は認めていないとの回答、エフエム大阪は回答なし、ということで、総務省のサイトでもう少し調べてみました。
簡単にまとめると、各種の放送には放送区域が定められ、FMは超短波放送局(県域FM局等)という種類で県域放送ということになるらしく、 免許を受けた範囲の電力で送信するということのようです。NHKと民間放送局は規定が別になっているようです。総務省の近畿総合通信局のページに飯盛山の名が出ていました。大阪のFM放送についてNHKは幹局名が大阪放送局、 送信場所が飯盛山、民間放送局の放送事業者名はエフエム大阪とFM802、送信場所が 飯盛山となっています。大阪には他にFM COCOLOというのがありますが、これは放送事業者名FM802(FM COCOLO:外国語放送)、送信場所は生駒山、となっています。現在、飯盛山にあるのはFMの送信所だけで、テレビその他各放送局の送信所は、生駒山の方に多く建てられています。
戦国史とロック史
私は高校時代が1980年代後半の洋楽ファンなので、今なお80年代ロックを聴き続けているのですが、三好長慶が飯盛城を居城とした永禄三年は西暦で1560年、と言われるとすぐに、60年代、という言葉が頭に浮かんできます。戦国時代に60年代だの80年代だの言ってみても、と思われるかもしれませんが、意外に西暦とリンクしているようなところがあって、1568年に織田信長が上洛し70年代は信長の天下統一事業、82年に本能寺の変があって以後80年代が豊臣秀吉による天下統一、90年代は秀吉による文禄・慶長の役、1600年の関ケ原の戦い以後00年代が徳川家康による江戸幕府草創期、1615年に大坂夏の陣があって戦国時代が終わると10年代後半以降は完全に江戸時代になる、というおおよその区分が出来るので、ロックと似たような年代区分で戦国時代を語ることが出来るのではないかと思っています。
ポピュラー音楽あるいは商業音楽の歴史の中で1960年代といえばビートルズ、というのが有名なところでしょうが、1960年にはまだ結成されたばかりで姿を現しておらず、ローリングストーンズは結成前。1960年のBillboardヒットチャートNo.1を調べてみると多いのが Elvis Presleyで、まだロックの起源といった段階です。あるいは、Ray Charlesによるカヴァーの"Georgia on My Mind(邦題:我が心のジョージア)"といったR&Bあるいはソウルの曲が目についたりします。1500年代の方を見てみると、60年は桶狭間の合戦で織田信長が大国駿河の今川義元を討ち取り、若手の大名として全国的に名前が広まった年で、62年に徳川家康との間で清洲同盟が結成される段階。織田信長は68年に上洛して以降、70年代に天下統一を目指して大規模な活動を始めます。1970年代にはロックの方も大規模化し、代表的な大物といえば Led Zeppelinが挙げられるでしょうか。また、70年代の信長は将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼしたり、石山本願寺と争うなど、試行錯誤を続けた時期でもありましたが、ロックの方でもKing CrimsonやPink Floydといった、実験的なプログレッシブ・ロックの時代でもあります。80年代に入ると、天下統一間近になった織田信長が82年の本能寺の変でこの世を去り、豊臣秀吉の時代へと移って大坂城や聚楽第、金の茶室などゴージャス感が増していきます。80年代ロックも技術の発達と共にサウンドがゴージャス感を増し、コンサートの規模もますます大きくなってアリーナロック、スタジアムロックと呼ばれるバンドが多くなります。Queenなどが70年代からの続きで、80年代にソロ活動を始めたMichael Jacksonが世界的ヒットを連発したのは、秀吉の時代に信長時代から活躍していた武将も多かったことと似ているかもしれません。 一方で、U2のようなタイブのバンドもいたことは、千利休が侘び茶を大成したような感じでしょうか。1590年代は秀吉が大陸出兵をした文禄・慶長の役によって世間に暗い影がさした時期ですが、ロックの90年代はNirvanaなどグランジな雰囲気をもつものやオルタナティヴと呼ばれるもの、あるいはOasisのようなインディー系が盛んになりました。さらにロックが色々と細かく分かれていったのと同様、豊臣政権内では派閥争いによる分裂が生じていった時期でもあります。天下分け目の関ヶ原の戦いが起きたのは1600年、03年に徳川家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開き、新しい時代が始まります。15年の大坂夏の陣が最後の合戦となって、戦国時代は終わりを迎えました。商業音楽も西暦2000年代に入ると、ジャンルやカテゴリーといったことよりも、音楽の聴き方自体に変化が起き、新しい時代に入っていきました。80年代にはLP、SPレコードやカセットテープからCDへ記録媒体が変わったことがありましたが、基本的には音楽を円盤で聞くことが多く、90年代はまだ円盤用のプレイヤーでCDを聴いていました。00年代はiPodなどの普及により、音楽がコンピューター用ファイルの形式で扱われるようになります。10年代に入ると音楽配信サービスが盛んになって音源を持つ習慣のない世代も現れ、ついには『君はロックを聴かない(あいみょん)』といった曲が出たりします(私はダウンロード購入をしました)。20年代の今は何でもスマホ、といった様子がみられます。いつかそのうちに、我々の世代が80年代ロックの話をするのは、三代将軍家光の時代に大久保彦左衛門が江戸っ子の魚屋一心太助に向かって戦国時代の思い出話をするような感じになるのかもしれません。
連歌、茶の湯とジャズ、ロック
ロックの話をもっとしてみたい気はするのですが、話を飯盛山と三好長慶に戻しましょう。織田信長以降は時代区分としても安土桃山時代となるので、それをロックの時代に例えてみると、三好長慶はどういう例えになると言えるのか。信長以降は文化史の面でも、安土桃山文化と呼ばれる豪華さに特徴のある文化の時代に入り、それ以前の室町文化との違いが出てきます。三好長慶の文化活動は主に連歌、織田信長は茶道具収集で知られています。信長の父である織田信秀は連歌を好んだとされており、三好長慶の弟の実休は茶人として有名で、世代的に好みの違いが出てくるような雰囲気があります。連歌、茶の湯ともに室町文化の一部ではありますが、大雑把に言うと連歌は安土桃山時代から江戸時代に入ると発句を経て俳句へと変化していきます。三好長慶は1522(大永二)年生まれで、少年時代の1530年代(天文年間)から既に中央政界で活動を始め、40年代から50年代にかけて室町幕府の事実上の最高実力者として天下人の地位を築いていきます。安土桃山時をロックに例えるなら、その前は何なのかを考えてみると、ロックやR&Bと同様にブルースを起源とした音楽がもう一つ、もうお気付きだと思いますが、ジャズがあります。ジャズのスタイルの変遷は、30年代のスウィング、40年代にビバップが起こってモダンジャズの時代となり、50年代にはクールやフリーその他様々な形へと発展していったと、大ざっぱにまとめるとこういう感じになるでしょうか。三好長慶が活動した時期の年代に重なるところがあります。和歌の詠み手が何人も集まり何日もかけて歌を連ねていくという連歌のスタイルは、ジャズのセッションに似ています。後世に名が残る連歌の会を多数催し、武将でありながら連歌の第一人者として有名であった三好長慶は、例えるならば多数の名盤をリリースした「ジャズの巨匠」ということになるでしょう。
連歌の巨匠三好長慶が飯盛城を居城としてから催した代表的な連歌の会には、次のようなものがあります。永禄四(1561)年五月二十七日から二十九日にかけて飯盛千句、永禄五年十二月には百韻連歌の道明寺御法楽両吟。また、公家の山科言継が書き残した日記「言継卿記」の永禄六年二月二十一日に、25日に細川氏綱の淀城で行われる発句の会の相談をしに、当時連歌の第一人者だった谷宗養の所へ行ってみると河内飯盛城の三好修理大夫の所へ行って留守、若手の名人里村紹巴の所へ行ってみると近江へ行って留守だった、という記述があります。ちなみに、25日の淀城の会には宗養と紹巴の両人も参加が間に合ったようです。大茶人武野紹鴎や若い頃の千利休は三好家の出入り業者でもありましたが、60年代に入っても三好長慶が茶会を催したという形跡は無く、茶道具の名品で重要文化財の「三好粉引」の持ち主だったとされていますが、茶会は弟の実休が催すことが多く、長慶本人はもっぱら連歌会だったようです。
三好長慶が1564(永禄七)年に没した後、1573(天正元)年に室町幕府と三好の本家は滅亡します。織田信長の時代に入ると、歌に関して信長が好んだのは、小唄を一つと幸若舞「敦盛」の中の一節ばかりを歌っていたのが知られているぐらいで、茶会が力の誇示と配下の統制に利用されるようになります。豊臣秀吉は連歌師の里村紹巴や隆達節の高三隆達を側近にしたりして和歌も好んだたようですが、北野大茶会を催したり千利休を重用したりといった茶の湯のエピソードが多い人になります。徳川家康は歌や茶の湯を自分から積極的に行なったというイメージが無い以上に、文化活動に深い関心があった様子も見られない。そのような中で、細川藤孝(幽斎)が古今伝授を受けた和歌の大家であり茶の湯にも造詣が深く、息子の忠興(三斎)が大茶人となったというのは、Miles Davis |《マイルス デイビス》がジャズとロックの要素を融合させてフュージョンというジャンルを創り出したことに通じるものがあるかもしれません。
昔も今もメッセージは歌に乗って
三好長慶が飯盛山を居城にしていた頃、政治的、軍事的、その他様々なメッセージが飯盛山から発信されていました。家臣が使者として赴く、手紙を商人、僧侶や連歌師に託す、伝令が馬で走って行く、といった形がありました。時代や形式が変わっても、芸術的な形で歌に何かのメッセージが込められることは、昔も今も変わりません。和歌や連歌の発信地でもあった飯盛山は、その後は城跡となりましたが、今はFMの送信所から、政治色の強いものから、気持ちをストレートに表現した、といったものまで、何らかのメッセージが歌に乗って発信されています。昔、飯盛城から発信されたメッセージは近畿一円から四国に至る広範囲に伝えられましたが、現在ではFM放送の制度上大阪府内に限られた範囲となっています。他の放送で使われる送信所は生駒山に多く設置されていますので、発信されるメッセージの量は生駒山の方が多くなっていますが、三好長慶は生駒山の和歌も詠んでいるので、江戸時代後期の『眺望集』という和歌の短冊集にある、三好長慶の和歌を紹介して、この記事を終えることにします。
生駒山 まぢかき春の ながめさへ かぐわふほどの 花ざかりかな 長慶
国立国会図書館デジタルコレクション
浦井有国『眺望集』、文政8年、橘仙堂;松月堂
著書紹介
阿牧次郎著「河内の国飯盛山追想記」(アメージング出版)取り扱いサイト
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