『自由になる方法』ー 自由とは、自分であること
人は考えることで自由になれる
人は考えることで自由になれる。
考えることで、世間の常識や価値観や空気や社会通念や、つまりは知らぬ間に自分を縛り付けている見えない鎖から解き放たれ、自由になることが出来るのだ。
世間の常識などのそれらは、他者が考え作りあげたもので、自分が考え出したものでもなければ、自分がそのありかたの一切に関与できるものでもない。
それらは親や教師から言葉で直接教えこまれたり、周囲のシチュエーションや空気やメディアなど諸々で、頭の内部に日々感覚として刷り込まれて行くのである。
人は小さな頃から、それらを毎日当たり前のように吸い続け、内在化させ、蓄積し、知らぬ間にそれらを自分の考えであると錯覚し、又は自身の考えの根拠とするようになる。
つまり無意識のうちに自分の内部にコピペしてしまうのだ。
社会で生きる人々は、その意味で、その善悪は別として、誰もが社会に洗脳されているようなものなのである。
言い方を変えれば、社会通念の見えない檻の中に閉じ込められているのである。
そして、そのことに気づいている人は実に少ない。
だから、それらから解放れたければ、方法はただ一つである。
それは、自分の頭で考えること、である。
世の中のあらゆることについて、多くの情報を集め、出来るだけ原点から
自分の頭で考え、答えを導き出し、再定義することが必要になるのだ。
人間とは何か等の大きな問いから、日常の小さな疑問まで、
一度常識などの他者の考えを排して、ゼロから自分で考え、答えを導き出すこと。
それが必要になるのである。
そして、そのようにして自分の考えを作り上げる時、自然な成り行きとして、他者の考えからは自動的に切り離され、開放される事になるのである。
そのようにして一つ一つ作り上げた自分の考えのピースをつなぎ合わせ、自らの世界観を作り上げた時、君の世界は一変することになるだろう。
君は、誰でもない自分自身を形成し、紛れもない自分の人生を、自分の考えに基づいて、自由自在に生き始めることになるのである。
残念ながら、現代の多くの日本人は、他者の考えを根拠にして生きていると言わざるを得ない。
常識を根拠にして判断するか、周りを見回して多数者の真似をするか、権威とされている者に従うか、世の中に流通しているテンプレート的な価値観や、一度も自分で考えた覚えがないのに何故か自分の中に存在する基準を元に判断を下して生きている。
つまり、他人の考えを基に、自分の人生を生きている、のである。
僕は思う。そのような人達は果たして本当に自分の人生を生きていると言えるだろうか。
いや、それどころか、そもそも、その人は本当に自分自身だろうか。
刷り込まれた他者の考えを根拠に判断し、選択し、怒ったり笑ったりして生きている。
これではもはや自分のあり方や人生までコピペをしているようなものにならないだろうか。
事実、日本人の多くのあり方や生き方は、似たり寄ったりでパターン化されていると思う。
他国の人々のそれぞれ自由なあり方、生き方と比べて、ステレオタイプになっていると感じる。
普通はこんなもんだろ、人生ってそういうもんだよ、とつぶやきながら、似たような人生を生きている似たような人々が実に多いのではないだろうか。
考えることで自由になり、自分になれるが、その一方で自分の頭で考えて生きることにもそれなりのリスクがある。
その考えが合理的でなかったり、周囲や社会と相いれない場合には、その結果がその人の人生を非常識でみじめなものにするだろう。
いつの場合にも、自由とその責任はコインの表裏であり、切り離すことはできない。
だから逆を言えば、常識などの社会的通念に従って生きる人には、その手の常識外れの人生もあまり見られない。
常識や慣習は、多くの人々が時間をかけて磨いてきた知恵を体系化したものである。
それらは集団知と呼んでもよいものだ。
だからそれに従って生きさえすれば、それなりの利があり、大過なく人生を生きることが出来る可能性が高い。
集団の中で全体の一部として人生を生きたければ、常識を根拠に選択し行動すればよいだろう。
双方に一長一短がある。
最良なのは、常に両方を持ちながら、状況に応じて臨機応変に使い分けていくことだろう。
常に考え確かな自分の考えを持ち、必要なら周囲の常識に合わせる。
常識は、言ってみれば全ての扉を開ける事ができる便利な汎用キーのようなものだ。
どんな人や場面にも通用するから、しっかり覚えておき、どんどん使えばよい。
この国ではそれで大抵のことはスムーズにいくだろう。
そして同時に、あらゆるものに対して、できるだけ原点から自分の頭でしっかりと思考した自分の考えを持つべきだ。
自分らしくありたいのなら、自分らしく生きたいのなら、
自分の考えを持つことは不可欠である。
考えることで、人は初めて他者が作り上げた見えない檻から外に出ることが出来るのだ。
そうして得られた自由には限りがない。
実際に周りを見回しても、思考の翼を持つ人と持たない人の人生は、その見えている景色も、感じられる多様さも、そして人生そのものの広がりや柔軟さにおいても雲泥の差があるように思われる。
そしてそれは誰にでも、いつからでも出来ることだ。
自分の頭で考えよう。
自分を自由にするために。
自分を自分自身にするために。
そして、紛れもない自分自身の人生を生きるために。