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自分癒しが親を救う…かも⁈

見えにくい家庭環境の影響

久しぶりにきょうだいと親の話をする機会が続いている。

私が一番のターゲットになったので、きょうだいが知らないことはたくさんある。先日は、私が親から過去にされた、とあること、それによって背負ったことを、いつの間にかきょうだいに話すことになった。

知らなかった、と驚かれた。

そしてさらに、家族以外の人たちの中で、私の育ちの環境のことを知る人はごく限られている。

そのごく限られた人たちからは、

それでよくやってきたね、
よくこの仕事が出来るね、

そう言われる。

家庭は百人いたら百通りの家庭があるから、これが普通というのはないかもしれない。それでも、そういうことを考慮しても、私の家は相当普通からズレているところがあった。

しかも、物理的に、目に見える範囲でおかしな部分は比較的少なかったから、かなりわかりにくかった。
それは周りから、だけではなくて、自分にとってもわかりにくかった。

その分、自分自身が違和感に気づき、課題を認識して自分を理解することが遅くなった。

ご飯も食べられたし着るものもあった。
確かに殴られて体が吹っ飛んだりしたことはあったけど、私にとっては大したことではなかった。

それよりも、心をえぐるようなことを言われ続けたり、将来を考えるような会話は許されなかったり、実際に選択肢がもらえなかったり…

思考停止に陥るしかない状況に追い込まれたことが何より辛かった。

私はたくさんのことを背負っていたのに、ひとたび家庭を出て学校に行けば〝やるべきこと〟が外から与えられ過ぎて、気がつくきっかけがなかなかなかった。

本人が気がつくきっかけがなければ、何も始まらない。

私は自分が置かれた家庭環境から受けた影響の大きさに気づいてから、自分理解と癒しを続けてきている。

なぜか今回きょうだいにまたひとつ新たなことを打ち明けることが出来たというのは、一歩前に進んだ気がして嬉しかった。

恨みつらみからは何も生まれない。

〝俺のほうが苦労した。〟
〝あんたのほうがマシ。〟

たまに親が言っていたセリフ。

そういう私の親は、親なりにきっと精一杯だったろう。
親だって、かつて子どもだった。傷ついた子どもだったに違いない。

これはキレイゴトでもなく、心からそう思う。

ただ同時に、
それと、私自身が背負ったものをどう感じどう扱うか、は全く別のことだ。

私は聖人ではないので、親に対する恨みが全くないわけではない。
けれど、正直そこに注いでいる時間やエネルギーがもったいない。
すでにたくさん費やしてしまった。

相手は変えられない。
変わる兆しもない。残念ながら。

もしも、私の心情を丸ごとぶつけたなら…
親はもしかしたらほんの少しの反省をするかもしれない。

けれど、彼らは私よりも少ないと思われる、人生の残りの時間を意義あるものにするために、全身全霊でやってきたことを肯定することだろう。

日頃のやり取りから、そういう親の反応が十分過ぎるほど予測出来る。

やってみなければわからない、というレベルなら、トライする価値はあるかも?いや、でも現時点でその兆しもないのでチャレンジする気にはなれないかな…。

そんなことをあれこれ考え続けているほうがもったいなくて、万一にも謝罪される可能性を考えても、全く割に合わないと思ってしまう。

あれこれ考えに考えて、親への恨みつらみは傍に置くことにした。
それよりも、私は私が背負わざるを得なかったことを自分で癒して、癒しの体験を同じような境遇で同じような思いしてきた人たちに還元すると決めた。

気持ちが切り変わったときはそのときだった。

単純に、今という平和になった時間を過ごして、日々心穏やかでいたい。

何より自分の背負ってきたことを自分なりに生かしてきている。
これからも、生かしつづける。
そうして成長し続ける自分を描きながら時間を過ごしたほうが気分がいい。

背負ってきたものが大きいのだから、たまにふいに苦しくなることはあると思う。そのときはそれなりにスピードダウンして過ごせばいい。

もう周りの人と合わせて走る必要はない。

癒しの道を進むだけ


ふと思った。

親は変わることはないだろう。一生理解出来ないだろう。
そう決めつけている親も、手段が増えれば、環境が変われば、世の中の風潮が変われば、変わることがあるのかも…。

私はたまたま学校に行き、たまたま色んな出会いがあり、たまたま色んな体験をして…
私はたまたま活用できるタイミングにいるだけかもしれない

このnoteだってそうだ。

両親はネット情報は得るにしても、これから自ら発信することはないだろう。

それにしても、親が手にしているある種の健康や生活の安定とゆとりがあるのだから、自分と向き合えばいいのに…。

自分と向き合うことで、確実に癒しの道を歩いている私は、ふと、私に当たり続ける道とは違う道があることにすら気づかない親を気の毒にすら思った。

親を恨もうか?というところから、気の毒にすら思う自分。

いますぐ一足飛びに、親もいろんなことを背負っていてケアされるべき存在、と思えなくても、理想の方向には進んでいるようだ。

その証拠に、私は支援者としては、子どもを主として救う場面でも、必ずその親にも気持ちを向けるようにしている。実際に出来ることは限られるにしても、その視線と声かけだけでも伝わることがあって、そんな親との安定した関係に繋がることが多い。

自分の癒しがもっともっと進んだときには自分の親にも提案してみるかもしれない。

癒しの道、知ってるよって。

それまで私は、親を恨むよりも何よりも、支援者をしながら自分癒しの旅を続けるだけだ。


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