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〝今までの生き方は間違っていた〟という囚われ
共依存レシピ
私は支援者になってから気づいた。
自分が成長する過程でかなり重い荷物を背負わされていたことに。
父から殴られたりしたけど、それは大したことではなかった。
メインは、陰湿な家庭内いじめだったと思う。
無視。
いびり。
経済的追いこみ。
今のカテゴリーに当てはめるなら、主に心理的虐待そしてネグレクトだろう。
そんな父と一緒になった母も大変だったけど、若い母はSOSを出した。しっかりものの長女にならざるを得なかった私に対して。私という子どもの存在にすがり、時には大いに活用した。
共依存するしかない環境。
私が生まれ育ったスタート地点から、どういうルートを辿っても、共依存というゴールに辿り着いた気がする。
我が家での、共依存関係づくりのレシピは完璧だった、と思う。
自分を叱咤激励する
自分の背負ってきたことに気づいて以降、
自分で変えてきたことはたくさんある。
専門職として成長する節目節目で、自分をもっと理解しケアしなくては支援の仕事を継続出来ない。
度々そういう状況下に追い込まれそうになりながら色んなことを変えてきた。
ただ最近、その認識自体を変えた。
というか、ほんの少しだけ変えたくなった。
〝これまでの人生が間違いだった〟
〝共依存なんて間違いだった。〟
〝これまでのことは間違いだからその間違いを正さねば。〟
そう考えがちだったけれど、どっちが正しくてどっちが間違いと単純な話でもないよね、とふと思ったのだ。
大人になった今の私が、変えたいところがあるから変えるんだ。
元々私の望みはそれだけのはず。
なのに、過去は間違いだった、といつのまにか自分の過去に対して最低評価をつけていた。
それって、そのとき必死に生きていた子どもの自分に失礼じゃない?
そう思った。
自分が自分に対して、つい一言出た。
自分を守るために自分を叱る。
叱るっていうより、叱咤激励。
支援環境からの学び
私は自分の中に変えたい、成長させたい自分がいるからそうしているだけ。
はっきりとそう思わせてくれるきっかけとなったのは、支援者として活動しているときの出会いからだった。
全くゆとりなく、不適切養育を繰り返す親の元で育たなくてはならない子どもたちとの出会い。
子どもたちの中に、だれひとりとして怠けている子どもはいない。
たとえゲーム三昧で怠けているようにるみえても、それしかできないからしていることがほとんど。
いつしか、そのゲーム三昧の現実逃避の日々はやがて習慣となり、その習慣を身につけたまま大人になると、それは自己責任として扱われるのだ。
そんなタイムラインの最初のほうで生きている子どもの存在が、かつてそこに私もいた、ということを思い起こさせてくれる。
私もなんとか生き抜いてきたひとりだった。
そうして必死に生きてきた子どもに対して、〝間違い〟〝怠け〟ってレッテル貼るなんておかしいよね?
なんだかこれまでの自分の対する理解と声かけに、ごめんなさいをしたくなった。
いつも私は支援する環境から学び、その存在に支えられている。