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〝怠け〟というレッテルの威力
嫌々やってきた
新年を機に。
…ということで、かねてから嫌だと思ってきたことをやめてみた(笑)。
研修、研究会、セミナー等々。
支援業界に属していると、総じて勉強会のようなものが山のようにある。
仕事の一環としてのものとは別で、自主参加によるもののことだ。
自主参加なのだからなんの強制もないし、出ないからと行ってペナルティーがあるわけではない。
でもこの業界にいると、参加して当然、やらねばならない、という暗黙のプレッシャーがある…気がする。
特にここ数年の私にとっては、義務感からの参加になっているものが少なくない。
こういうとき、空気をしっかり読める自分が恨めしくなる。
もちろん勉強にならないわけではない。
アップデートのため、研鑽のため、これは参加しておこう、というものもある。
けれど、仕事以外のプライベートの時間(そして場合により参加費)を割いて、支援のための知識らしきものを闇雲に入れるのは、ちょっと違うなあと思い続けながらのイヤイヤ参加になっているものが最近増えてしまっていた。
事あるごとに、
このパターンを変えたい。
そう思っていた。
〝ねばならぬ〟を変えたい
〝ねばならぬ〟いうスイッチが一旦入ったものに対して、ちょっと違う、と思っても〝怠け〟というレッテル張りをしてかき消す。
そうして〝ねばならぬ〟のループの中に居続ける。
私の得意分野かもしれない…
そう、ふと思った。
なぜなら、私が育った家は、なにかの強化合宿所⁉︎というぐらい、〝ねばならぬ〟のオンパレードだった。
〝ねばならぬ〟とされていることに対して違和感を抱いた時点で、それはお前の怠け心だ、と即認定された。
いつしか、私は自分の抱く違和感に対して〝怠け〟のレッテルを貼りつけることが得意になってしまった。
でも今回、これまでがっしり握って手放せなかったこの悪しきパターンに、突然メスを入れたくなった。
〝新年〟を機に、というきっかけを使える。今なら。
そう思った。
今年こそ、昨年とは違うことをやりたい。
違和感を抱いていてイヤイヤ参加していた勉強会、全部サボってやる!
サボってやる!
何度も叫びたくなった。
つい口から出た〝サボる〟という表現ひとつとっても、
お前はやるべきと思っていることを怠けてやらないんだ。
そういうヤツだ。
いつの間にか、そうインプットされていたんだ、とつくづく思った。
そうして今月も週末のたびに入っていた勉強会に欠席の連絡を入れた。
もちろん葛藤、罪悪感はたっぷり味わいながら…。
それでも変えたかった。
自分の違和感を大切にしたかった。
私にとって〝怠け〟だった別のこと
だいたい、嫌だな、と思っていること、感じていることを、なぜやらなくてはならないのか?
私が今まずやりたいこと、そして自分に必要と感じていることのひとつは、こうして自分の内側の感覚と向き合うこと。
外から知識を入れるのは時に有意義なのだけど、今の私にとって優先順位は高くない。
自分の感覚が正しいことを、ただ認める、ではなく、なんとか証明しようとしている時点で、〝怠け〟というレッテルの威力を改めて思い知った。
いや、それならむしろ…
自分の内側の感覚と向き合うことを怠けてきた、と捉えたらどうなのだろう?
そう捉え始めた途端、表向きに評価されそうなことに合わせてきた自分の姿が浮かび上がってきた。
そうだ。
今の私は、自分の内側に積極的に向き合おうとしているんだ…。
これまで怠けていたことを変えようとしているんだ。
勉強会にはきちんと参加するんだし、自分と向き合うこと時間を後回しするのは仕方ない、という生活パターンを少し変える新年からの試み。
今年は、〝怠け〟て今までと同じことだけするのではなく、新たなことにたくさんチャレンジする年だ。自分の違和感に忠実に。