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サバイバー支援者の#自分の中のギフト

先日支援者仲間と、お互いの辛い過去、主に家庭環境の話になった。

支援を仕事としていると、スキルアップのための様々な研修や研究会に参加する機会がある。
そういう機会はもちろん大事で得るものはたくさんあるけど、自分が育ちの環境で培ったものって、どんな研修や研究会にも劣らないよね。
そんな話になった。

いや、控えめに言った。劣らないどころか、とてつもないパワーがある。
自分の育ち盛りに、言ってみれば選択の余地ないままひたすら経験したものだし、数日どころか何年間も毎日さらされたものもある。
トラウマとかいう表現になるものもあるだろうけど、そう表現した途端に、
その時すぐ近くにあった、もしかしたら自分の強さの原石みたいなものが見つかりにくくなる気がする。ただ弱い自分になる気がする。
支援する側と支援される側が分断される瞬間だ。

支援の世界では、当事者の力が発揮される場面というのが実はたくさんある。
私はいわゆる支援のためのお勉強は色々してきたけど、人生の辛い経験は何よりも他の人たちを助けるための学びになっていたと実感している。
正直、学問だけなら現場で役に立つ範囲は限られている。自分と自分以外の見ているものをしっかり区別して自覚するための座学なんだと思う。でも世の中の多くの専門家はあまりそこに触れないし、何故かということには私もここではあえて触れない。

そんな現場のあれこれはとりあえず脇に置いて、私は自分が育った環境で得てきたもの、強み、ギフトを自分の中を見つめて探してみることにした。
何をどうギフトと思うか。自分でギフト!と思えたらギフトだ。

私の中ではすでに自覚してわかっているギフトもあるけど、そもそもどこかで表現する機会がない(私は機会がなかったけど、あるとしたら、就職面接ぐらい?思えば日本人ってそういう語りをする場面が日頃本当にない。)から、これから発見するものもあるかもしれない。

何だか自分の中の宝探しみたい♫
これから、私の中にあるギフト、と思ったらここに書いていきたいと思う。


「#自分の中のギフト」

❶ 限りなく偏見が少ないこと

絶対に偏見がないということは言えない。でも、限りなく少ないと思う。

一時期海外に住んだとき、その国で友人になった人も、肌の色も出身も宗教もセクシャリティすらも見事にバラバラだった。初めて海外に行く前から、自分は他の人よりも偏見がかなり少ない、と思っていたが、実際に多種多様な人と出会ってみて、本当にないんだなと実感したことを覚えている。

偏見の塊のような親だったお陰で反面教師になって身についたかもしれない。それに小学校高学年になる頃まで、体も小さく鈍くて何もやっても最後のほうだった。きょうだいが容姿端麗だった。だから周囲から見た目や印象で色々言われて結構嫌な思いもした。
こんな経験もあって、偏見があるかないか、には常に人一倍アンテナを張っていたんだと思う。

これは間違いなく自分の中のギフトだ。
いつも人の内面を見ている自分を信頼したいし、そんな自分に自信を持ちたい。
改めてそう思える。

ひとつ書いただけでも、ちょっと力が湧いてきた。
辛い過去を生き抜いてきていると、あえて何度でもこうして見つめて書くことが大切だ。外側からの評価にそんな真面目に耳を傾けなくていい。

私以外の人も、別に辛い過去があってもなくても、自分の中のギフト探しをして元気になってくれたら嬉しいと思って、note初心者ながら、ハッシュタグ 「#自分の中のギフト」を作ってみた(これで機能してるんだろうか😅)。

気負わず思い立ったときに2つ目のギフトを書こうと思う。

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