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言葉以前の自分とともに
ジャッジが嫌い。
必要な場面はある、というのはわかるけれど、
人のことを簡単にジャッジするのもされるのも、とにかく好きじゃない。
子どものときの私が周りからジャッジされたとき、本当に苦しかった。
私のことなんてちっとも知らないはず…
なのに、いとも簡単にジャッジされた。
わかったふうに言うよね…
そう心の中で呟くような、ずいぶん冷めた子どもだったと思う。
一方で、心の中でそう思っていながら、私自身、結構戸惑っていた。
なぜって、私のことなんか知らないのに、って呟きつつ、
私自身も自分のことがよくわかっていなかったから。
私自身に関することで自分で言葉に出来たものなんて、全然自分の中になかったと思う。
耳障りのいい、そのシチュエーションにピッタリの流行り言葉しか思い浮かんでこなかった。それらの言葉は私の何処ともつながっていなかった。
つながってない、嘘っぱちな言葉ってことだけは何となくわかっていたから、
何も言いたくなかった。
周りからなにか言われても、聞かれても、ただにっこり笑っているだけだった。今ならその理由がわかる。
こっそり心の中で反論すらしなかった。
そうするだけの芯ある言葉が、そもそも自分の中になかったから。
でも…
モヤモヤ、イライラ…といった、言葉以前のものは確かに私の中にあった。
あることがどこかでわかっていても、結局言葉にならないとなると、そんなの何にもならない。価値がない。
かくして私は、
私のモヤモヤイライラなんて使えない、って、
相当長いこと、私の中にある言葉以前の存在を蔑ろにしてきた。
言葉以前の存在は、むしろ私の源に近いもので、私という人間理解の大切な大切な種だったというのに…。
* * * * *
言葉になる以前のものがたくさん自分の中にあるときの過ごし方って、とっても難しい。
でも、大切さがわかるようになってきて、ようやくその難しさそのものを受け入れられるようになった。
今は、私の中にある言葉以前の存在とともにいる時間を大切に過ごすよう、心がけている。
今年はこの時間をもっともっと積み重ねてみたい。
そうして見つけた自分の中にある種から、やがて芽が出て、違う景色が私の目の前に広がっていく気がしている。