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物より感性感覚を大切にしたい

買い物のパターンが変わってきた

あらゆる持ち物の片付けを細々と続けている。
気に入って買ったはずのものを手放す機会も増えた。

中でも服が多くてかなりの数。
本当に気に入って買ったはずなのにこういう日が来るとは…。

未だにただ捨てるのはしのびない。
かといって、売るという手間暇をかけるメリットもさほど感じない。

きょうだいや友人にあげるのが精一杯。

買い物パターンも確実に変わってきた。

以前は、いいかも!と思っていた服があって、それが値下がりしていたら、ほぼ確実にゲットしていた。

最近は…

なかなかいいんじゃない?と思った服がたとえ値下がりしたとしても
すぐに買わない。

本当に欲しい?
値下がりしたからじゃない?

そう問いかけて一旦保留。

そしてたいていの場合、
その服が欲しかったことすら忘れている…。

100均の影響もある?

片付けて物を減らすうちに、買い物パターンがだいぶ丁寧になってきた。

それまでの私は、服の買い方に限らず、生活のありとあらゆるものの買い方が雑になっていた気がする。

いつからこんな雑になってしまっていただろう?

ちょっと反省モードで、これまでを振り返ってみる。

すると浮かんだのは、100円ショップの存在。

今も時折お世話になる100均。
最初お店が登場した頃は、本当に関心の連続。
今も、こんなものが100円なの?というものにしばしば出会う。

大抵のものが100円で買えることで、選択肢が増えた、と思った。
そして、急ぎのときやあまり考えていない時には、100均で手に入るだろうか?とまず100均に立ち寄って、間に合わせる、という行動もしてきた。

100均がなかったころ(記憶が薄くなってきているけれど…汗)と比べてみたら、やっぱり私はものの選び方、買い方が雑になっていたかもしれない。

そして雑に扱っているつもりはないのだけど、使っていて意外に早く壊れた時には、100円だから、と言いつつ、次の100円か、ものによっては、やっぱりいいものがほしいなと少し揺れる。

そして、いいものにたどり着く前に、買う必要が出てきたら、ここでもまた、間に合わせるために再び100円で手に入れる。

そんな買い方の繰り返しだった。

物より感性感覚

最近は、特に長く使うような物はお気に入りが欲しいと思うようになっている。

例えばハサミ。
小学生のころにその当時としては結構なお値段のハサミを買った。いくらだったか覚えてないが、確かその文房具屋さんで一番高かった。高かったけど、気に入って気がついたら買っていた。

一目で気に入ったその高いハサミは切れ味抜群はもちろんのこと、ハサミを手にするたびに丁寧に扱わなくてはと自然と思えて、その感覚もなんだか心地よくて、大人になっても大切に使っていた。

それが引っ越しの時なのかいつなのか、見当たらなくなってしまい、とりあえず、と100均ハサミを調達。結局お気に入りのハサミも見つからないまま、今使っているハサミは100均の何代目だろうか…。

そして最近になって、もう間に合わせで買わない、と決めて、いいハサミを物色中。

こうして振り返っていくと、
最近の私は、買い物パターンが変わってきたどころか、物そのものより、自分の感性感覚に重きをおくようになってきたらしい。

物を大切にするのは、その物とともにいるときの自分の感じがよかったり、大切に作られたものなら、その丁寧な仕事に込められた、作り手の思いを自分が感じ取っているからなのだと思う。

間に合わせ、とりあえず…でお世話になりっぱなしの便利な100均。

それはそれで誰かがどこかで作ってくれたものだし、悪いわけではないのだけど、日々の忙しさや便利といった基準は時に大切な感性感覚を愛でる時間を奪うのだなと思う。

そしてそれは自分の大切な時間だけでなく、他人のそれも奪うことに繋がってな
いだろうか?これは豊かっていうだろうか?

目の前の物、ひとつでいいから大切にし始める。物とともにいるときの自分の感性感覚を大切にしてみる。

それを意識して広げていくと、どんどん自分の感性感覚も自分の外側まで広がっていく。そして、他の人たちの大切な感性感覚とのつながりもキャッチ出来るように思う。

もっと広がりとつながりを感じていけたらな、と思う今日この頃。


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