メルボルンでワーホリから正社員になった私
初めまして。酸いも甘い思い出もさらします。
私がこれから話すことは、ワーキングホリデーを含めたオーストラリアの4年間と今の私による回顧録。一昔前の事ですが、おそらく留学センターのスタッフも、語れない内容。
ハッピーな内容も、日の当たらない反面もすべてが、甘いやら辛いやら。
いろんな人生の1ページです。これからワーホリに行く皆様に、お話を徒然なるままに。誰かの役に立てたらよいな。
第2の故郷メルボルンとはどんな街
2013年9月のこと。私はオーストラリアのメルボルンの冬の終わりに、12年ぶりに降り立ちました。
ビクトリア州の州都であるメルボルンは、昔オーストラリアの首都1927年まであった街。
ヴィクトリア朝時代に建てられた古き良き建築物や、鉄道という当時の最先端の技術がメルボルンの町から、オーストラリア各地に敷かれ始め、現在も物流の中心であり、産業とアートが発達しています。人口は2023年で523万。ガーデンステイトともよばれ、いたるところに手入れの行き届いた庭園があり、高層ビルと古き文化が混在する面もあります。
昨今の日本はインフレが始まったとニュースですが、2013年の当時のオーストラリアは経済、金融で日本の物価を追い抜いて、オーストラリア人の年収は、日本の大体3倍と呼ばれていました。
とにかく物価が高い。当時は1ドル=98円。
テイクアウトのコーヒーの値段が、行くたびごとに書き換えられるほどインフレは身近なもの。
生活費のために必死で働かないと滞在できない国で、私はワーホリ生活をはじめました。
ワーホリは他力でなくて自力本願で。空気さえもおいしい。
回顧録の前に私のことについて少し。
実は、ビクトリア州の田舎町で高校生の時に2001年3月から半年間も
ホームステイ(留学)経験がありました。
高校からの留学派遣の第1号で、すべて大人に面倒見てもらいました。
(その時のホームステイ経験はまた後日にするとして)
半年間の留学が終わり、18歳の私には、以下のようなことが続きました。
まず帰って来た晩に2001年のNYの貿易ビルに飛行機がつっこむ同時多発テロが発生。
父の経営する会社が倒産していたこと、
家族が留学中の私に知らせまいと、それを隠していたこと、
長時間労働で疲れた両親、
荒れた家庭、
なんとか進学させてもらえた大学と、
一人暮らしの困窮、うつ病発症、
就職活動の失敗、
病気を抱えた兄の出奔と手術、
リーマンショックによる失業、
生活のための必死のダブルワーク
奨学金という名の借金の返済、
両親への金銭的援助、
そんなわけで。12年。
自力でもどってきた2013年のメルボルンのタラマリン空港の空気をおいしく感じ、いや、いとおしく感じたのです。
前述のとおり、金銭面で余裕がない私。手持ちの金額は20万ほど。
留学エージェントも介さず、移民局へのビザ申請(オンラインで全部英語)、チケットの手配、滞在先も、何もかも自分で。もちろん語学学校に行く余裕もなかったのです。
では英語はどうやって伸ばすのか?
日本での何を準備したの?
英語がどれくらい必要なんだろう?
ワーホリで気になるセカンドイヤービザの取り方、
光の部分、闇の部分。
私がメルボルンで見聞きしたこと、お伝えしていきます。
では、また次で。