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やっぱりそうだったのか 相対的な感覚

「『長い』って、なんだろう」

朝、通勤中の自転車を漕ぎながら、数年前に考えたこと。
ものすごい長い丸太の木があったとする。
長い、と感じるのは、
丸太の木の、年輪に対して垂直方向の長さのことであることは、
直感的に、誰もが思い描くだろう。
ところが、どうだろう。
丸太が、縦の長さと、横の長さが等しかったら。
これを「長い」と形容する人はいないだろう。
しかしさらにどうだろう。
実は、短く切っていると言っても、
年輪の直径が5mで、
同じく、切り口から切り口、年輪に対して垂直の部分も、
同じく5mだったら。
丸太は、圧倒的に「大きく」感じるだろうけど、
「長い」と感じるだろうか。
もし、「長い」と感じない場合、
それは、丸太が、横から見たらほぼ正方形で、
横と縦の長さに差がないからだろう。
それでも「大きく」感じることから、
やっぱり「長い」とも感じるとしたら、
その丸太を前にして、自分の身長と比べて、そう感じるのだろう。

「長い」とは、何かと比べたときに感じるものなのだ。

自転車に乗りながら、思いは発展した。

「長い」だけじゃなく、他のことも、
どれもみな、相対的なものなのではないだろうか。と。

大きい 小さい
高い 低い
速い 遅い
などの物理的な尺度だけではなく、

強い 弱い
嬉しい 悲しい
など、感覚的な尺度においても、言えるのじゃなかろうか。

人であればみな、
カマキリが強いとは思わないのだが、
もっと小さな昆虫にとってみれば、強豪中の強豪に思えるだろう。
職場の上司も、
もっと上層部の人にとってみれば、
自分と変わらなく見なされているかも知れない。

今、辛いことも、
未来の自分にとっては、取るに足らないつまずきに思えるかも知れない。
今、全くの普通に感じられることも、
あの頃の自分にとっては、優雅極まりないものかも知れない。

ちょっと自分の立場や視点を変えるだけで、
目の前のもの、ことは、全く違う色を発するようになる。
物事は、ほとんどの場合、相対的なものだ。
だから、ものの「見方」が大切なのだ。

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