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子育て 褒める 叱るよりも大切なこと

「うちは飴と鞭なんで」

これは、以前、とある保護者から、家庭の指導(?)方針について聞いた言葉です。
褒めるところは褒める。
叱るところは叱る。
背を伸ばしてきっぱり語る母親には、自信が満ち溢れているように見えました。
その言葉を聞きながら、どこか拭えない違和感を覚えていたことが記憶に残ります。

子育てにおいて大切なこと、気にすべきことは、山ほどあります。
山ほどあるのは、それらと言うわけではなく、
それらに関する諸説、主張、書籍、なのかもしれません。
超高度情報化社会において、これらに関する情報も、
まさに混沌を極めている状態です。

今回は、子供と向き合うとき、
褒める
叱る
よりもはるかに大切で、日々、念頭におくべきことについて述べます。



褒める・叱るは賞罰

どういうときに子供を褒めますか。
習い事で、何かを達成したとき。
学校で何かを表彰されたり、いい点を取ったとき。
親の言いつけを守ったとき。
さまざまにあると思います。
そして、どんなときに子供を叱りますか。
言いつけを守らなかったとき。
ミスをしたとき。
態度や素行が悪いとき。
これもまた、さまざまでしょう。

注意すべきなのは、
何を褒め、何を叱るかです。
褒め方、叱り方については、別の機会に譲るとして、
そのどちらも、多くの場合、
条件付きであるということです。
何かが「あったから」褒めたり叱るということがほとんどだと思います。
つまり、「何かあった」、特別な場面であるということです。
その特別な場面に「だけ」、褒めるなり叱るなり、
子供に声をかけるのは、実は、子供の心にあまり響かないものなのです。
響かないだけならまだよいのですが、
子供が価値観を形成していくにあたり、
賞罰的なものの見方を培っていってしまうのです。
親は、何かあったら褒めてくれる。
何かあったら叱られる。
自分は、いつも、良質な何かを生み出さねばならない。
良質なものとは、親の意に沿ったのものだ。
このような考えに傾倒し、
やがては、自分で考える力を失っていくのです。


褒めるよりも 叱るよりも 大切なのは 認めること

褒めてはいけない。
叱ってはいけない。
これは、とある心理学の見地から世に一気に広がったフレーズです。
ただ、表層部分だけが広まってしまいまい、
世の親は、我が子との関わりについて、不安を募らせることになってしまった、
というケースも少なくない状態です。

褒めてもいいのです。
叱ってもいいのです。
それらの土台を築いていれば。

その土台こそが、「認める」lことです。

この、「認める」という姿勢、行為に対し、
どうにも、理解に苦しんでいる親が多いように感じることが、
今回の記事を書くにあたる大きな動機の一つです。
認めることとは、その言葉の通り、
「ある」「いる」「った」「だった」ことを、認めることです。
もっと言えば、
「ある」「いる」「った」「だった」ことを、
そのまま、言葉にして確認、反芻するだけです。

例えば、子供がスポーツの習い事で1位を取ったとします。
子「お母さん、昨日の大会でね、1位取ったんだよ!頑張ったよ!」
親「1位?それはすごいね!えらいね!」
これが「褒める」です。
対して、
親「1位取ったんだね。すごいね!頑張ったんだね!」
これは「認める」です。

違いは、「えらいね」ですね。
えらいね、と言ってはいけないということを主張したいのではありません。
子供の様子、気持ち、状況を、子供の気持ちに寄り添って、
共感してあげたり、言葉で繰り返してあげたりすることが大切なのです。

そしてこの「認める」ことは、
1位を取ったとか、特別な場面以外の、日常場面でこそ、積み上げるべきことなのです。
子供た宿題に取り組んでいる様子を見て、
「宿題、自分からやっているんだね」
子供が何か絵を描いているとき、
「へえ、おうちの絵を描いているんだね」
子供がとある歌手の歌を、音楽を流しながら歌っているとき、
「へえ、この歌手の歌がお気に入りなんだね」

日常の、なんてことのない場面で、
子供の様子について、なんてことのない言葉をかけるのです。
冷たく聞こえる表現かもしれませんが、
「認める」は「確認する」という言葉の方がしっくりくるかもしれません。


褒める 叱る を支える 認める

なぜこの「認める」が大切なのか。
それは兎にも角にも、その子の存在を確認することから得られる、
子供の安心感に他になりません。
「見てもらえているんだ」という感覚は、やがて安心感に変わります。
よく、努力を継続していて、それが誰の目にもかからないとき、
「月が・お天道様が・神様が・見ていてくれる」
というフレーズがありますね。
ほぼこれと同じです。
「お母さんが、ちゃんと見てくれている」
という安心感は、この世の何よりも子供の心を、
優しく、温かく、確実に支えるでしょう。

そして、この「認める」ことを土台にしてこそ、
特別な場面での褒める、叱る、は、効果を倍増させるのです。
いつも見てくれている人に褒められたら、
心の中で飛び上がりませんか。
いつもも見てくれている人に叱られたら、
奥歯を噛み締め、悔しい思いをし、次は・・・!と思いませんか。

逆もまた然りです。
いつも見てくれていない人に褒められたら、
なんだよ、急に知ったような態度で、と、感じませんか。
いつも見てくれていない人に叱られたら、
なんだよ、私の何を知っているっていうだ、と、腹が立ちませんか。

子供も同じです。
ただ、語彙力、表現力の問題で、そう言わないだけです。


考えてみれば、今の親の世代は、
賞罰によって物事の動機を得る傾向の強い世代かもしれません。
仕事は金銭的インセンティブが大いに作用するような世代でした。
現代は、物質的にはほぼ、飽和状態と言える状況にあり、
より一層、内発的な動機が重要視されます。
このように書いておきながら、どこかしっくりとこないのは、
実は、内発的動機など、いつの世代も重要だと思っているからです。
ただ、世の様子から、それが浮き彫りになるかどうか、の違いがあるだけです。

今日。我が子の何を認めてあげようか。
考えるだけで、いつもよりもっと、子供の様子に注意が向きますね。
すでにその思い、姿勢が、
子供を認め始めていることに他なりません。

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