やっぱりそうだったのか 真善美
80〜90年代の映画が大好きで、
ターミネーターなどは、2まで、セリフを覚えるくらいに見た。
コンピューターが人間を超え、戦争になる日が来るなんて、
発想がとても楽しく、ワクワクとしていた。
その一方で、コンピューターや、「精密」と言われるものが、
あまりにその精密さを極めている場合、
どこか、白々しというか、冷淡というか、
精密さという性質が、
少なくとも長所に思えなくなるような感覚を抱いたことを覚えている。
そしてそれは、今もあまり変わらない。
それとは反対に、
「人間らしい」という言葉は、いかにも魅力的に響き、
それは不思議でさえあった。
鉄腕アトムをスピンオフした形の漫画、Plutoというものがあった。
そこに、
「コンピューターが人間に限りなくということは、
間違えるということをする、ということだ。」
といった意味のセリフがあった。
これには衝撃を受けた覚えがある。
ついで、あまり商業的に成功しなかったようだが、
大好きな映画、ターミネーター4では、
「我々人間が、心を捨て、機械のように戦うのなら、
機械軍に勝つことに、どんな意味がある!」
というセリフには、脳天に落雷が落ちたような気持ちになった。
二進数。0か1。オンかオフで基本を作るコンピューター世界。
迷いがなく、正誤の「誤」もない。
論理、ロジック。
これらを辿っていくことが正解であるという考え方。
これには、2つの限界があるように思う。
1つ。
答えを出すための、変数(パラメーター)を拾いきれないこと。
物事は、さまざまなことが絡み合っている。
例えば、仕事で、たった1つのミスがあったとしても、
それは、本当に、その担当者の力不足だけの問題なのか、
と問えば、必ずしもそうで無いことばかりである。
環境、条件、結果に係る要因は数えきれないほどある。
もちろん、仕事上の判断を、
係る要因が多すぎるので、結果を出せません。
私のせいではありません。
などとは言えない。
ただ、事実であることにも、ほとんどの人は気づいているはず。
その無数にある要因(パラメーター)を、
コンピューターが拾い切れるのか。
無理だと思う。
2つ。
「正解」は、玉蟲色であること。
論理的に導き出される答え、正解は、常に1つであるはず。
しかし、例えば、
論理的に1つの正解があるのなら、
どの世界でも、コンピューターを使って、その正解出せるはず。
”売れるもの”は、どの会社でも作られるはず。
”正しい行動”を、誰もが取るはず。
でもそうではない。
実は、そんな、唯一の正解がないから。
コンピューターなどに導き出される、
論理的な唯一解。
これに意味がないとは思わない。
大切なのは、それを利用する場面を考えること。
論理解が意味や効果を発する場面を見極めること。
これがまさに「真善美」の感覚だと思う。
論理は崩壊しているのに、どこかかっこいい。
経緯は紆余曲線、無駄足ばかりだった結果のプロダクトには、
そのもの以上の物語があり、魅力的。
こんなことは、たくさんある。
美しい
正義である
善きことである
こういった感覚こそ、
そもそも矛盾だらけに思える「生きる」ことに重要なのだ。
コンピューターや、
それらがもたらした超情報化の中、
より一層、際立って、光輝くものでもある。
コンピューターが人間を凌駕する、
「シンギュラリティ」はこない。
来るとすれば、人間が、
コンピューターと同じように考え、
同じように感じ、
ただただ、論理に従って生きていくことを選んだときだ。
と思う。