動揺する自分を分析してみた
私はかなり動揺しやすい方だと思います。
今日もカフェで注文する際、店員さんが怖くて内心しゅんとしました。
私がちょっとわかりにくく言ってしまい、それに対する反応が冷たかったというか、責められているような気持ちになったんです。
店員さんとしては怖くしているわけじゃないだろうし、他の人がその接し方をされても特になんとも感じないかもしれません。
でも私は、
「この言い方がまずかったかな」
「こちらを見る目が鋭くて落ち着かない…」
などと感じました。
ただ、これだけでは終わらせません。
この件について、大きくふたつに分けて考えてみました。
①私がそう認識するのはなぜか(過去)
②そう感じたうえでどうするのか(未来)
①については、
前提:
店員さんの流れを壊してはいけない
思考:
最小限のやりとりで終わらせなければいけないのに、わかりにくく言ったことで煩わせてしまった
→私が悪い
と思っている可能性がありそうです。
こうして客観的にみると、かなり偏った認識をしていることがわかりました。
②についてはまず、店員さんがどう感じていようと知ったこっちゃない。
そのうえで自分の心に目を向け、「自分動揺してるわ〜」と自覚する。
さらにそこから、自分がなぜ動揺したのかを考えてみる。
「動揺してしまう自分はだめだなぁ」とは思わず、動揺したという現象そのものに目を向けてみる。
今回はそんなふうにしてみました。今書いているnoteは、まさに②の一環です。
動揺すること自体を悪とは思わず、「自分はそういうもん」というスタンスで分析してみると、それまでと違う捉え方ができるなぁと実感した出来事でした。
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『深い雑談』というものをやっています!
私がnoteで書いているような話は、そもそも人に話しにくかったり、話したところでわかってもらえなかったり… 家族すら、もしかしたら家族だからこそ、私が感じている苦しさやもどかしさを話しても伝わっている気がしない。 それがすごく切なくて。 ずっと、私の感覚をわかってくれる相手を探していました。 わかってほしい、理解してほしい。同意はしなくていいから、「ゆめはそう思うんだね」って、ただ私の考えを尊重してほしい。私の感覚が伝わる相手がほしい。 学生という枠がなくなって、世界がちょっとだけ広くなったことで、感覚が伝わる人と出会えるようになりました。 もちろん、完全に同じ人なんていない。でも、自分にない感覚の話を、「そういう感覚もあるんだ」とわかろうとしてくれる人がいる。そのことに、私はすごく救われました。 自分の感覚は間違いじゃないんだ、自分は自分の感覚を信じていいんだって、思えるようになりました。 私も、誰かにとってそんな存在になれたら。 私が日々考えていることを言葉にすることで、似たように日々考えている人が「この人となら話せるかも」と感じるかもしれない。そして実際に話してみて、自分の感覚を誇らしく思えたら。 なんかもう、すごく嬉しいなって思うんです。 なかなか自分の感覚が伝わらない、でも誰かにわかってほしい。そんな気持ちを抱えていたら、ぜひ一度お話ししませんか?
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