星空の下の思索:「考えること」の意味
大人たちの忠告
時々、ふと立ち止まって、星空の下で自分の存在や時間の流れについて考えることがあるんだ。「今、ここにいるって、一体なんだろう?」って。
こんなこと考えて何の意味があるんだろう? 大人たちはこんな僕を見たら、将来を心配して「考えすぎはよくないよ、何かしたいことはないの?」と忠告してくれるかもしれない。確かに、考えているつもりで、行動を全くしなかったら結局は何も考えたことにはならないし、人生で経験できる様々なことを得るチャンスを失ってしまうかもしれない。
大人たちの忠告はもっともだと思う。僕たちは毎日いろんなことを経験して、いろんなことを学んでいる。この世界って、本当に不確かで、いつも変わってるよね。今日はすごく上手くいってることが、明日にはうまくいかなくなるかもしれない。そして、今はうまくいってないことが、いつの日か大きな成功につながることもあるんだ。そんななかで、ただ、限られた時間のなかで能力を発揮して、人に認められて快適に生きればいいという気持ちはよくわかる。
「それ、ホント?」日常の中で考える疑問
その通りだよ。でもね、快適に生きたくたって、快適に生きようがない人だっているよね。毎日が楽しい極楽とんぼもいれば、何をしたってうまく行かない人だっているよね。こういう世界の現実に対して、感性に蓋をして生きなければならないほど好奇心を麻痺させた大人たちの状況に対して、「それでいい」とは僕は思わない。
大人たちに訊いてみたい。「どうして、働いてるの?」「働くことは楽しいの?」って。実はよくわかってなくて、ただ「そうしないと生きていけないから」とか「社会で活躍していないと白い目で見られるから」といったやりがいや社会貢献を口にしながら、実際はおよそ納得しがたい漠然とした答えしかない人がほとんどに見える。これじゃあ、子供が納得できるはずがないよ。子供をそんなに舐めないでほしいよ。子供だって表現できる言葉は限られているけど、色々なことを感じて、考えているんだから。
考えること、それは自分をもっと深く知るための大切なプロセス
だから、本当に大事なのは、ただ経験することではなくて、自分が何を思い、何を感じ、どう生きたいかを理解することなんだと僕は思う。哲学的な疑問、例えば「幸せって何?」とか「正しいことってどういうこと?」とか、そういうのを考えるとき、僕たちは自分自身の中にある深い部分に触れるんだ。
僕たちが世界や自分自身について考えること、これはただ知識を得るためじゃなくて、自分をもっと深く知るための大切なプロセスなんだ。
「考える可能性」はすべての人に開かれてる
そしてね、一つ言いたいのは、「考える」という道。これはきっと、どの人にも誰にでも開かれている道だと思うんだ。よくわからないまま生まれてきて、いつのまにか意識があって、そして厳しい現実を経験して、喜怒哀楽にもまれていつのまにか死んでいく。これが人生というやつだけど、その中で「考える」という可能性だけは、どの人にも開かれてる。
アル中のオジサンでも、もし「これではダメだ」と思ったら、厚生施設に入るとか、何か考えることはできるはずだよね。これもできないってことは正直あると思う。でも、そのとき、その人は主体性が全くない存在だと言わざるを得ない。考える可能性がまったくない人間というのは、責任もないけど自由もないよね。
だからこそ、「考える」ということは人間の尊厳にかかわっているじゃないかな。少なくても「役に立たないから、答えなんか出ないから考えるな」といっても、それはまったく現実的じゃないと思う。僕もどういう運命で生きるかはわからない。でも、可能性がある限り、「考える」魅力を忘れることはできないと思うんだ。
どうして僕は存在しているんだろう?
考えれば考えるほど、神秘的で不思議なことだよ。今日も星空の下で、その神秘に想いを馳せてる。
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