俺の無知無学=圧倒的な「教養の無さ」
俺が投稿する記事を読んだことのある方は感じてらっしゃるでしょうし、自分自身も感じていることだが、俺はモノを知らない。
同年代とは比較にならず、遥か若い世代より人生における教養の積み重ねが足りていない。その理由は、インプットへの忍耐力がないから。
どの時代においても、最低限これぐらいは基礎的な教養として知っておくべきと言われる書籍や映像作品がある。とはいえ書籍とその他のメディアでは歴史が違い過ぎるので古典教養の最優先は、書籍となるだろう。
聖書、各地の神話、中世ヨーロッパの戯曲、日本で言えば古事記や日本書紀、平安文学もそうだし、お隣中国の古典も山のようにある。
次に歴史の長いものを考えるとおそらく絵画や彫刻になるだろう。洋の東西を問わず宗教、神話をベースに発展した美術作品は各地に山のようにある。
ただ、悲しいことに俺は若い時分からそのような教養を積極的に学ぼうとしなかった。どこから手をつけたらいいか分からず、あまりに膨大に見えたので尻込みしたのだ。
モノを調べ探究するという事をしてこなかったため、モノを調べ探究するためのスタミナがつかなかった。社会人として当たり前に必要な能力が、身に付かなかったのだ。
そして日に日にそのインプットのスタミナが減り続け、20代半ばには大衆向けの娯楽作品すらも体が受け付けなくなってしまった。
読むのも見るのも、あらゆる意味で消耗してしまい、影響を受け過ぎてしまう。しばらく正気に戻れない。30代になる頃には何もインプット出来ない状態に陥ってしまった。
そんな状態なのに、アウトプットだけしている。だから当然の事として、アウトプットしてるものに中身が詰まってない。スカスカだ。空虚を放り投げてるだけの状態に近い。
差が開き過ぎている。教養のベースがないから今更何かを学ぼうとしても、受け取り方すらよく分からない。だが、このままでいる事は悔しくてしょうがない。いつまで生き恥を晒し続けるんだろうか。
学ぼう。少しずつでいいから。学んでいこう。
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