「多数が正しいというから正義」と言うものを考えるためのお話
正義は時として危険でもあります。
一般的にもしくは一定多数の人が「これはこうである」と言うとそれ以外の意見や行動を排除するあれはまさしく正義の暴走です。
天動説と地動説
有名な話ですが、天動説が一般的だった時代に地動説は狂人のたわごととされていました。
大地は平面でありどこかの果てしない先で滝のように海は落ちてるとか、超巨大な亀とかそんな感じの上に世界は乗っかってるとか、今思うとなんだそれは見たことあるのか?と言う感じですが。
でも当時は本気で信じられていたわけですね。
天動説が正義だったわけです。それ以外の説には石をぶつけても良かったわけです。
石をぶつけてた人はその他多数に紛れ込める
仮にその正義が入れ替わった場合、今まで石をぶつけていた人は逆に石をぶつけ返されるのか?と言われたらそうではありません。
正義の主導をしたほんの一握りは処されるでしょうがそれ以外の人はどうでしょう?
はだしのゲンの町内会長
ここで私が思い出すのははだしのゲンに出てくる町内会長です。ゲン一家を非国民と散々いじめ抜き、一家の収入であるゲタすら川へ捨てる(まあやったのは息子だけど)わけですね。当時としてもそこまでやる権利があったのでしょうか?
で、戦争が終わると戦争反対を訴えていた平和の戦士として政治家に出馬し、当選しています。
罰則されていません。
戦後は戦争反対が正義だったわけですから、ゲン一家ではなく戦争賛美していた人間へターゲットをチェンジしたわけです。
その時その時の正義に便乗すれば、何をやっても正義の執行(処されるどころか称賛される)になるのです。
漫画はフィクションですが、このような行動をするキャラクターへ対する読者の感情は紛れもなく「ゲンの敵、悪役」だと思います。実際ゲンからすれば敵であり間接的に家族の敵です(家がつぶれた際、彼らが手を貸せば家族は助かった可能性がある)。しかしあの世界では常に「社会における正義の味方」だったわけです。
正義の味方こそ、なにをもって正義の味方なのかを見極めるべき
例えばダークナイト三部作にバットマンそっくりのコスプレで手助けしたいという人たちが現れますが、私はあれこそ「正義の味方ごっこ」だと思います。バットマンが称賛されるから真似したわけで、もしバットマンがいなくても彼らは自主的に正義の味方として仮面をかぶり悪と戦ったでしょうか?
(だとしたらもうちょい体鍛えるでしょ・・・)
あの作品のバットマンは、正義とは孤独であるべきという信念を持っています。
多数派になるとそれは正義ではなく多数意見や常識となります。己の正義を貫くとは、その正義と少しでも違う部分があるなら相容れない、そういうことです。なのでバットマンの「正義」は称賛されたり批判されたりとコロコロ変わるのでしょう。
彼はしいて言うならゴッサムの正義の味方であり、それ以外の正義には興味ありません(恋人は唯一の例外。なので弱点にされた=正義を曲げた結果)。ゴードン警部補ですら正義のために協力できる部分だけ協力しており、彼を執事レベルまで信頼して扱ってはいません。
ちなみに執事も自身の正義を持っており、その正義を貫けないと知ると即屋敷から去りましたね。
そしてバットマンの正義がゴッサムの常識となった時、彼は姿を消しました。ライジングのラストシーンですね。新たな正義は彼の後継が生み出すでしょう。
映画のエンタメとはいえ、正義とはこういうものであると思います。けして多数を先導し悪人をぼっこぼこにするものではありません。
それはどっちかというとジョーカーがやっていることです。
彼はヴィラン(悪役)サイドから見たら正義の味方です。そしてその正義のために多数の人間を操り、本人は病院の起爆スイッチをぽちっと押しただけ。
ヴィランの正義の味方になりたい人いますか?
まとめ
昔から・・・特に日本人は長い物にまかれろという風潮があり、多数が行っていることというか、数字上で多いモノ=正義や善、正しいとみる節があります。
そしてそれが覆された時、何食わぬ顔でまた長いものにまかれに行きます。
地動説を否定したことも忘れ、ゲンの一家のことなど知ったことではありませんし、バットマンが批判された時のことは覚えていないでしょう。
しかしそういった部分に目を向け、真実はどうだ?と考え、本質を見抜いた人ほど歴史を切り開いてきたのもまた事実です。
そういう人がいなければ石をぶつけられるの恐れて地動説は発展せず、いまだに天動説は揺るがないものだと思います。