Citizen Kane ①ー『市民ケーン』か『アメリカ人ケーン』か?ー
昔演劇をやっていた頃、シェイクスピアの「ヘンリー四世」に少しだけ出させてもらった。その時座長に観るように勧められた「フォールスタッフ」、あれがオーソン・ウェルズとの出会いだった。その時は俳優としてのウェルズの迫力に圧倒されるばかりで、映画自体を分析するような余裕はなかった。
ウェルズ作品との二度目の出会いは、大学のスペイン語の授業だった。講師が翻訳の仕事もしている人で、語学だけでなく、読者に分かりやすい、日本語としておかしくない翻訳を学ぶという主旨で、映画の解説文(スペイン語)を日本語訳する練習をした。その時の課題のひとつに、『市民ケーン』があったのだ(何故スペイン語の授業で英語圏の映画を取り上げたかは未だに謎だが、多分先生の趣味だろう。『真昼の決闘』の解説文も課題だった)
課題の為に500円DVDで観た時、筋が複雑で一度では理解できなかったが、いくつかのシーンの美しさに魅せられ、面白いと思った。そしてこのかなりクセのある映画作家に興味が湧き、『マクベス』『オセロー』などのシェイクスピアもの、『上海から来た女』などフィルム・ノワールものと手を広げていったのだった。カフカ原作の『審判』も観たいのだが、ゆっくり鑑賞する時間がとれず今に至っている。
今回はウェルズの代表作『市民ケーン』について、書いてみたいと思う。美学的見地からも、ストーリー、登場人物のキャラクターの面からもかなりな難物だが、大河ドラマ的なスケールの大きさと、緻密な心理描写、美しいシーン構成が秀逸なこの名作について、僕なりに語ってみたい。
『市民ケーン』か『アメリカ人ケーン』か?
オーソン・ウェルズの映画処女作にあたるこの映画だが、原題は「Citizen Kane」である。普通に訳せば「市民ケーン」だ。
この「邦題」が果たして適切なのか?
前述のスペイン語の翻訳の授業での問題提起はなかなかに含蓄のあるものだった。
まず「市民」という概念が、日本人の中に充分に(欧米人が理解、というよりもはや体感的に了解しているのと同水準で)浸透しているのか、という問題。
ヨーロッパにはギリシャ・ローマ以来この「市民」という概念が根付いていて(個人的にはローマ帝国崩壊から啓蒙主義くらいまでは断絶していると思うが…)、「国」や「社会」は庶民にとって「雲の上」にあるというより、市民が積極的に参与して「国」「社会」を作っていくような意識が当たり前になっている。だから市民運動というのが欧米では比較的盛んに行われる。
日本人にとって「市民」という概念は、明治維新以降初めて移植されてきたものだ。この時期の西洋思想受容史には暗いのだが、近代ヨーロッパにおける「国」と「市民」の関係がすぐに日本人に浸透するはずもなく、現在でも「お上」と「しもじも」のような封建的な感覚が残っているのではないか。ならば「市民」という訳語では、「citizen」の意味するところが正確に伝わらないのではないか。それが先生の問題提起だった。
(この授業はあの3.11の前に行われたもので、もちろん安部政権発足前でもある。ここ数年盛んになった市民によるデモ、SNSでの「市民」からの発信などの現象、民意の高まりは想定されていないことは補足させてもらう)
代わりに先生が提言したのは、「アメリカ人ケーン」という訳だった。
正直、初めに聞いた時は飛躍が過ぎる暴論だと思ったが、映画を何度も見返した今考えると、作品の本質を適格に捉えた訳かもしれない。
まず、「アメリカ人」という言葉なら、「アメリカ」の一員であるということが了解されやすい。「民」という字がつくと、「お上」と「しもじも」の二分法のうちの後者を指すように感じられるという批判をかわすことが出来る。
ストーリーに即して言うと、この映画は実在の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにしていて、乱暴な言い方をすると「主人公ケーン=ハーストと共に『アメリカ』が発展していく」姿が描かれているようにも思われる。その意味で、ケーンが「アメリカ人」であるという解釈もできる。
主人公チャールズ・フォスター・ケーンの生き様が「アメリカ人」的であるという見方もできる。
西部の貧しい家に生まれた幼いチャールズが、運命の悪戯で鉱山の権利を手にし、東部の銀行家に引き取られ養育されるというアメリカン・ドリーム。新聞業だけでなく、政治をはじめ様々な分野に、自分自身の信念に基づいてトライ&エラーするチャレンジ精神。なんともアメリカ的だ。
この映画の脚本が構想された際、草稿段階ではタイトルが「アメリカ人(American)」だったという事実も補足させてもらう。
ここまで書いたところでかなり長くなってしまったので、他の点については次の記事で書いていこうと思う。
次回はケーンの「独りよがりの愛」について、作中の台詞を検証しつつ扱う予定だ。
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