「人生は悪しき冗談なり」

好きな冗談の種類の違い

石上さんと三谷さんの違いはたんに二人の好きな冗談の種類の違いということなのかもしれない。
-保坂和志『プレーンソング』 28p

「ぼく」が競馬仲間の「石上さん」と「三谷さん」の競馬のスタイルについて比較し、「人生や世界の仕組みを知ることに対して」の「貪欲さ」にまで話を拡げたあと、このように続く。

好きな冗談の種類の違い。

この小説を初めて読んだ大学生の頃は、いわゆる「世界観」や「価値観」の違いに見えることでも、このように言い換えると、それほど大袈裟なものではなく、上手くやっていけそうに思えていいなと感じたものだった。

しかし30過ぎた「いい大人」になって、「好きな冗談の種類の違い」とは、実は致命的な「スレ違い」なのではないかと思い始めている。

信じてもらえないかも知れないが、僕は根はかなり「クソ真面目」な人間である。
それでも「冗談」というものに興味を持ち続けているのは、中学三年の春、足を怪我して部活が出来なくて図書室に入り浸っていた頃に出会った加藤尚武『ジョークの哲学』(講談社現代新書)が面白かったのがきっかけかも知れない。哲学者の書いたものだけあって新書とはいえ難解だが、中学生なりに分かるところだけピックアップして楽しんでいた。今もたまに引っ張り出して、分かるところだけ楽しんでいる。

大学のドイツ語の授業で紹介された元ロシア語通訳の米原万里にもジョーク(というか小咄)の本があって、『必笑小咄のテクニック』(集英社新書)なども好きでよく読む。

このように「冗談」に対してやや「頭でっかち」なアプローチをして、「古典的」な理解をしているからかもしれない、どうしても素直に笑えない、「ノレない」種類の「笑い」があって、周囲と溝を感じることがある。

例えば僕は、「悪ノリ」が好きではない。
声の大きな数人に同調するマジョリティが、ノリについていけないマイノリティをイジる、イジメる、嘲笑うなどの形で攻撃するみたいな感じは特に嫌悪する。

「ズレ」の認知と笑い、異化効果

本当に上質なユーモアには、「異化効果」があると考える。普段当たり前だと信じて疑わないものに対し別の見方を提示し、その絶対性を揺るがすような働きだ。だから名作と言われる喜劇には、いくらかの「毒」があるとよく指摘される。

予想していた展開と実際のオチとの落差、ズレによって、常識や固定観念で凝り固まった脳みその筋肉が刺激されて痒くなったり、揉みしだかれて快感になったりする。それが笑いを呼び、喜びとなるのではないだろうか。
米原万里『必笑小咄のテクニック』 p20

米原が身体的な比喩でコンパクトにまとめたこの意見に僕も同意する(この本に影響されているんだから当たり前だが)。
「オチ」とは何かについて、彼女はこのように説明する。

異なる論理と視点が出合うことによって生じる落差こそがオチになる可能性を秘めている
米原万里『必笑小咄のテクニック』p53

具体例を示した方がいいだろう。

本当は自分が好きなお笑い芸人や、米原が上掲書でしたように、国会答弁での「論点ずらし」を例に挙げたほうがアクチュアリティーがあるのだろうが、今回は僕の力不足もあり、横着して例も著書からお借りします。
(サンドイッチマンさんが好きなので、機会があれば分析してみたいです)

(医者がアル中患者に諭している設定)
「いいですか、このまま飲酒を続けると、かなり危険です。完全に酒を断ってください。完全にです。そうすれば、寿命が延びること請け合います。それだけ、生きている時間が長くなるってことですよ」
「おっしゃる通りです、先生。先月一日だけ、酒を飲めなかった日がありまして。いやぁ、その一日の長かったこと、長かったこと…」
米原万里『必笑小咄のテクニック』p51-52

蛇足な説明になるが、「時間の長さ」の意味が、医者(常識人)とアル中では全く異なっていて、話がズレてしまっている。そのズレ、落差がオチになるのだ。

加藤尚武『ジョークの哲学』からもいくつか。

コレット「パパがお手伝いのマリーのことを、『きみは私の天使だ』って言ったのよ」
ママ「分かったわ。明日あの子を遠くに飛ばしてやるからいいわ」
コレット「じゃ明日、マリーが天使の羽根で空を飛ぶのが見られるんだわ」
加藤尚武『ジョークの哲学』64p
ムッシュウ・ユーゴーの家の壁が塗り替えの最中だというのに、酔っぱらったムッシュウは、塗り立ての寝室の壁に手を触れてしまった。翌朝ペンキ屋が来た。
夫人「寝室に来て、ゆうべ主人が指で触ったところの面倒を見てちょうだい」
ペンキ屋「あっしはもう年が年ですからに、ブドー酒一杯の方がありがてえんですがネ」
加藤尚武『ジョークの哲学』73p
娘「パパ。お隣のおじさんは朝出かける前に必ずおばさんにキスするのよ。パパはどうしてああしないの」
父「以前そうしたら、隣のおじさんにひどくぶん殴られたのさ」
加藤尚武『ジョークの哲学』82p

「オチ」の説明は蛇足かと思うので省く。

元通訳だけに政治や国際情勢に触れつつ書く米原さんと比べ、哲学者加藤さんは哲学、現代思想、レトリック論を絡めて語るので難しいところもあるが、専門的な部分を省略して僕なりに大雑把に要約するとこんな感じです。(名著なので、興味をお持ちの方は是非読んでみて下さい)

言葉とは多義的で、使われる「文脈」によって指す意味内容が変わってくる。しかし「文脈」が上手く共有できていないと、「取り違え」が起こり、喜劇になる。
(実際はその「取り違え」のさまざまなケースを丁寧にかつユーモラスに説明してます。荒っぽい要約で申し訳ない…)

社会生活上、言語ゲーム上の「約束事」と言い換えてもいいかも知れない。
「天使のよう」という比喩表現の約束事。
「寝室でゆうべ主人が触ったところ」という婉曲表現の約束事。
「隣のおじさんと同じこと」という類比表現の約束事。
これらの約束事が発言者の意図とズレた形で適用されたがゆえに話もズレ、笑いを誘う。

そしてその「文脈」の相違とは、米原のいう「異なる論理と視点」と重なりあう。

ジョークの笑いは、物と表現の「同一と差異」を両方使い分けなくてはならない人間の、故意と約束による「取り違え」から生まれる。しかしこの笑いは、言葉の表現を知ることと平行して、または表現の習得の結果として生まれるのであって、大人の笑いである。
加藤尚武『ジョークの哲学』222p

笑いの孕む優越感と集団心理

しかし「文脈」のズレから起こる取り違え、スレ違いから起こる笑いとは、「嘲笑」ではない。
異なる文脈の間には優劣はなく、「どちらも正しい」のだから。

異なる文脈のうち、片方が僕らの常識、固定観念に近いことが多いだろう。しかし常識の側がいかにマジョリティであっても、マイノリティたるもうひとつの文脈に優越感を抱き、嘲笑するのは違うと思う。

先の加藤、米原の両者とも著作の中で、笑いが「優越感の表現」として見なされてきた歴史に触れている。その上で、「それだけではない」と考え、先のような結論を出している。

「敵の敵は味方」というように、誰かを協同して攻撃することで連帯することがある。また、笑いそのものに、共感という作用もある。みんなで誰かを笑うことで、マジョリティの一員になった気分になるのは気持ちいいのかも知れない。

1987年初版の『ジョークの哲学』で加藤は、大学教員らしく(当時の)若者について憂えている。

現代の若者の心情の底には、飛躍を回避するという動機が働いている。若者が生きる世界は等質的になり、その等質性に若者は順応している。等質性を抜け出しても何も良いことはない。
加藤尚武『ジョークの哲学』56p

30年以上経った21世紀初頭の「若者」(ギリギリだけど…)として、今でもある程度の妥当性のある指摘だと思う。

多分、加藤先生の危惧した状況よりさらに悪化している。
21世紀は「多様化」の時代と言われる。
僕らはマスメディアが一方的に流す情報をただ受容するだけの存在ではない。インターネットを通じて欲しい情報を「こちらから」取りに行けるし、情報の「発信」もできる(今まさに、僕がブログを書いているように!)
その中でいろいろな趣味、価値観が表れ、それを共有できる人達でコミュニティーができる。SNSのグループはもちろんそうだし、Twitterで趣味、価値観、主義主張が合いそうな人をフォローしていくと、何かイベントがあった直後のタイムラインは賛成か反対かどちらかに偏った「論壇」になることがあり、これも一種のコミュニティーだと思う。
その意味では、世界は「等質」ではない。

だが多様化は、セクト化でもある。
セクト化した小世界の中では、やはり等質性が暗に求められるのだ。それも、より苛烈に。
隣り合う別のセクトと自身を区別したいがために、自分達の価値をより先鋭化し、差異化しなければならないということもある。

価値の揺らぎというカオスの只中で、不安を抱える人々が、ひとりのスケープゴートを共犯して嘲笑することで、自分ははみ出し者じゃない、マジョリティの一員だ、と安心するような。

それって「笑い」じゃないよな、と「権威あるマイノリティ」でいたい学者くずれの僕は思うのでした。

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