SI VIS PACEM, PARA BELLUM「汝平和を欲さば、戦に備えよ」
「諸君 私はサバゲーが好きだ」
漫画『HELLSING』の敵役「少佐」の有名な演説の冒頭のもじりである。
サバイバル・ゲームを始めたのは、今思えば本当に偶然だった。
その頃通っていたバーで、スカウトされた。チームのリーダーが、僕のもうひとつの行きつけの飲み屋のマスターと知り合いで、マスター経由で僕の話を聞き、目をつけたらしい。
それ以来、紆余曲折がありながらも約3年、月1回くらいのペースで「戦場」に赴いている。
(実はこの記事も、明日のサバゲーの準備をしながら書いている)
誤解を招くかもしれないが、僕は「戦争」は好きではない。
むしろ人と争うのは大嫌いだし、何より戦争は何があってもしてはいけないと考えている。
戦争には、正義も合理もない。
サバゲーを通じて戦闘の疑似体験をしているからこそ、心の底からそう思う。
高校生の頃ミュージシャンのGACKTが好きで、雑誌の記事や本も読んでいたのだが、サバゲーについて書いている記事があって印象に残っていた。
「ゲームだから楽しんで出来るが、やればやるほど、本当の戦争がいかに虚しいかということがわかる。
死というものを、ものすごく感じるのだ。ほんとに一瞬にして死ぬ。しかも、味方に撃たれて死ぬことも多くある。」
-Gackt『自白』「ナイフとサバイバルゲーム」p193
高校を卒業して10年以上経って自分でサバゲーを初めた時、このことを身をもって実感した。
人生初のサバゲーの最初のゲーム、私をスカウトしたチームリーダーと一緒に行動していた。
「オレが先に行く。後からついて来い!」
そう言った瞬間のことだった。
BB弾が風を切る音が聞こえた1秒後、リーダーの断末魔が上がる。
「ヒット~!」
あまりにも絶妙なタイミングで、リーダーは「戦死」し、新兵は使いなれないハンドガン一丁で、押し寄せる敵とたった一人で戦わなくてはならなくなったのだ。
ドラマだったら、上官の復讐に燃える一人の敗残兵に敵の弾など当たらないだろう。「ご都合主義」というやつである。
しかし現実はそうではない。シェイクスピアのフォールスタッフが言ったように、
「鉄砲の弾丸には人間と違って感情がないからな、いきなりいのちで勘定を払わされる。」
-ウィリアム・シェイクスピア『ヘンリー四世 第一部』第五幕第三場(小田島雄志 訳)
仇をとる暇もなく、四方八方から撃たれて「戦死」することになった。
これはしかし比較的「まし」な「死に方」だったと思う。
戦場の「死」は、ストーリーも因果応報も関係なく、ただ突然に訪れる。時に何の前兆もなく、心の準備もないままに。
入り組んだ狭い通路で突然手榴弾を投げ込まれ、逃げる暇もなく爆発に巻き込まれた(飛び散ったBB弾が当たった)者。
茂みに隠れている時、敵がめくらめっぽうに乱射した弾のひとつが跳ね、偶然当たってしまった者。
視界が悪い森で、敵に間違われて味方に撃たれた者。
(これに近いケースで、敵を撃つつもりで味方も撃ってしまった、裏切って仲間を撃った、などもある)
戦闘という大混乱の只中で、僕らはどうしても自分のことだけで手一杯、敵のことも、味方のことも見えなくなってしまう。言葉を使っての意思疎通(味方との打ち合わせ、敵との休戦交渉や降伏勧告など)も、戦闘のピーク時にはまず出来ない。いくら入念に作戦計画し、連携訓練を重ねても、不測の事態やヒューマンファクターでつまずきが生じ、パニックになる。
混乱し疑心暗鬼になった兵士達は敵がいそうな所に悪戯に弾を撃ち込む。そこに仲間がいるかもしれないのに。
敵を待つプレッシャーと恐怖に耐えきれず、後ろに走る。無闇に見せた背中が敵の的になるとも知らず。
あるいはがむしゃらに突撃して敵に掃射される、もしくは敵を撃とうとした仲間の弾を背中に喰らう。
便宜上「神」の視点で書いたから因果関係がわかりやすくなってしまったが、実際はいろいろな要素が複雑に絡み合っているし、何より当事者達はここまで周囲の状況を捉えられないから、彼らにとって「死」は突然やって来る。原因もわからず、バックストーリーも何もない状態で。
「(兵隊は)鉄砲玉の餌食なんだ、鉄砲玉の。墓穴を埋めるには身分など関係ないだろう。どうせやがては死ぬ運命の人間なんだ、やがては死ぬ運命の。」
-ウィリアム・シェイクスピア『ヘンリー四世 第一部』第四幕第二場(小田島雄志 訳)
戦場とはフォールスタッフが述べた通りの、世界の矛盾が凝縮された、善悪の彼岸にあるグロテスクな場なのだ。
古代ギリシャ・ローマの格言に、こんなものがある。
Si vis pacem, para bellum.
「汝平和を欲さば、戦に備えよ」
ローマ帝国(特にアウグスティヌス以降の帝制において)での安全保証政策を見ると、この格言は来るべき戦争の為に軍備を増強するというよりも、未来の戦争が「起きなくなるように」備えるという意味が強いのではないかと思っている。
理性の入り込む余地のない戦争という野蛮を退け、「人間」として生きるために。
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