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戦後79年 私たちの知らない歴史 後編 〜向日葵新聞 第一弾〜

向日葵新聞とはひまわりに通っている(住んでいる)利用者さんから聞いたお話や利用者さんが実際に体験した出来事について記事にした新聞です。

前編ではOさんから戦前・戦時中についての貴重なお話を聞きました。後編では戦後にどのような生活を送っていたのかどんなことを楽しみにしていたのかなどを聞いていきます。

その日はいい天気でした…

昭和20年8月15日、その日はいい天気でした。ラジオが”ガーガー”と流れていて、後ほど戦争が終わったことがわかりました。空襲に怯えなくてよくなりましたが、戦争が終わったからといって生活はそれほど大きく変わりませんでした。

海士町青年団隠岐神社にて 終戦直後(昭和20年ごろ)

海士町への移住

女学校3年生の16歳、父親の生まれ故郷であった海士町に両親と10個上の姉と一緒にきました。田んぼもありましたが、アメリカからの農地解放の命令(田んぼは小作人に頼ると取り上げられてしまう為、自分で作らないといけなかった)で3町分あった田んぼのうち2町分を小作人に渡し、1町分(3000坪)のみ残し、自分たちで耕しました。その時、父親は50歳(当時は人生50年だった時代)になっていて農業ができなかったので、Oさんが田んぼを耕すことになりました。海士町へ来る前までは家には女中さんがいて、ご飯を自分で炊いたことすらなかった少女が急に農業をやることは生半可なことではありませんでした。

結婚はお見合いで

結婚はお見合いをして婿に来てもらいました。お相手も婿に来るのは渋っていましたが、説得され結婚されました。Oさんは「結婚は嫌ではなかったのよ。相手がいい男だったのよ」と笑って話されました。その後、1男3女の4人の子供に恵まれましたが、子供を修学旅行に行かせてあげられない程に苦しい生活でした。

昭和26年と現在の八幡坂

当時の暮らしの楽しみ

当時は今のような娯楽もあまりなく、生活するのに一生懸命でした。しかし、その中でも楽しみを見つけて生活していました。

青年団・婦人会の活動

歌ったり、踊ったり、劇をしたり、西ノ島や知夫里島に旅行に行ったりと活動していました。当時は遊ぶものがなかったので、自分たちで活動することで楽しみを作っていました。また、青年団は百姓の手伝いもしていました。

宇受賀青年団 知夫郡木村八幡宮にて 昭和23年3月3日

社交ダンス同好会

年に1回クリスマスにダンスパーティーがあり、現町長や副町長が青年団にいた頃には一緒にダンスを踊りました。フレアのきいたスカートを自分で作り、ワルツやブルース、チャチャチャを踊るのが好きでした。「この思い出はすごく楽しかった」とOさんは話されていました。

花札

日中は働いていました。女友達との(唯一の?)息抜きが花札をすることでした。毎晩のように友達と一緒に花札をしていたOさん、年を重ねてもその腕前は衰えていません。現在もデイサービスで毎週花札を楽しまれています。

Oさんは現在も花札が大好きです!

昭和後半から平成にかけて

Oさんは40代になると隠岐建設の事務所で働き始めました。オートバイの免許を取得し、オートバイで通勤していました。そこでOさんは危険物取り扱いの資格を取得し、なんとダイナマイトを爆発させることができるそうです。また、60歳の時に免許取得し、無事故無違反で90歳の時に免許を返納しました。とてもパワフルですね!

Oさんの人生はここでは書ききれないほど、波瀾万丈な人生でした。もっとたくさんのお話が聞きたかったのですが、今回はここまでにしておきます。

デイサービスで働いていると常に多くの高齢者の利用者さんと接していますが、なかなかこのように1人の利用者さんの話をじっくり聞く時間が取れないのが現状です。しかし、今回のようにOさんの向日葵新聞を作らせてもらい、ご利用者さんの人生について日常の関わり以上に深く話を聞かせてもらうとその人に対しての理解が更に深まると感じました。他の利用者さんの話も聞いてみたくなりました(翔)

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