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戦後79年 私たちの知らない歴史 前編 〜向日葵新聞 第一弾〜

向日葵新聞とはひまわりに通っている(住んでいる)利用者さんから聞いたお話や利用者さんが実際に体験した出来事について記事にした新聞です。

海士町社会福祉協議会 ひまわりのデイサービスの利用者さんには戦争を経験した方も多くいらっしゃいます。今年で終戦から79年となり、その時代について実際に経験し語り伝えてくれる方もだんだんと減ってきています。今回は終戦当時15歳だったOさん(仮名)から戦前・戦時中・戦後の貴重なお話を聞いてきました。

Oさんはどんな人?

Oさんは昭和5年(1930年)に兵庫県神戸市で産まれ、昭和16年(1939年)11歳の時に第二次世界大戦が始まりました。終戦後、父親の生まれ故郷であった海士町に移住し、18歳で結婚しました。その後、畑を耕して生計を立てたり、建設会社の事務や菱浦公民館の事務所で働きました。
現在、94歳、どんな人生を歩んでこられたのか、詳しく聞いていきましょう!

戦前はどんな生活?

Oさんは5人兄弟の5番目として生まれました。お父さんの職業は「水先案内人(船舶の乗組員に適切な水路を教えるとともに、その為の操船を指示する人)」で、給料は月3,000円で当時としては高給取りであり、家には女中さん(お手伝いさん)がいました。

昭和初期のお金の価値とは?

お金の価値は今とは大きく異なり鉛筆が1~2銭、神戸の市電(路面電車)がどこまで行っても5銭でした。小学校入学前、お母さんと一緒に大丸デパートに鉛筆を買いに行った際に10円札を出しました。するとデパートの店員はそのお札を珍しそうに、裏を見て表を見て、、、としばらく眺めて驚いていました。当時はデパートでも10円札はとても珍しかったのです。

第二次世界大戦の始まり

昭和16年(1941年)12月8日、小学校6年生の朝の会の前に鉄棒で遊んでいた際「真珠湾攻撃をして敵船の撃破に成功した」という放送が流れました。これが第二次世界大戦の始まりでした。

人生を変えた太平洋戦争

戦時中の生活(勤労奉仕)

女学生(14,15歳)の頃、1年程の勤労奉仕(ボランティア)がありました。Oさんの仕事は戦闘機のプロペラ製造会社での検品作業で、学校に行けたのは週に1回のみ、その他は勤労奉仕の仕事をしていました。勤労奉仕の期間は基本的に国の為に無償での働いていましたが、昭和19年12月にはボーナスが出ました。皆勤賞は60円、精勤賞(3日以内の休み)は40円、その他は10円でした。

学校の変化

Oさんはミッションスクール(キリスト教団体が布教を目的として設立した学校)に通っていて戦後には聖書を読む時間がなくなり、敵国の言葉だとして英語の授業もなくなりました。「バレンタイン」という言葉すら使ってはいけなくなりました。

終戦間近の生活について(神戸大空襲)

昭和20年3月17日、少し遠いところに焼夷弾(しょういだん)が落ちました。その時は「花火みたいで綺麗だな」と余裕を持って見ていました。これが神戸大空襲でした。神戸は1月3日から終戦までの8ヶ月で128回もの空襲を受けました。

焼夷弾が落ちる様子

実際の空襲の際の様子

通常、アメリカの戦闘機が近づいてくると警戒警報がなり、頭上に来ると空襲警報のサイレンがなりますが、同年6月5日には警戒警報が鳴った時にはすでに戦闘機が頭上に来ていました。戦闘機から空襲を受け、2階建て家屋の2階にあったOさんの部屋が燃えるのを見ていました。これで住むとこがなくなってしまいました。空襲から逃れる際、お母さんとはぐれてしまい母方の叔父さんの家にお母さんを探しに向かいました。しかし、お母さんはおらず、叔父の家も燃えていました。怖くなり、自分の家に帰るとお母さんも帰っていて安心しました。

疎開の際の様子

住むところがなくなり、空襲から逃れる為に兵庫県姫路市天満村に行くことになりなりました。逃げる際にはアメリカ兵の顔がわかるほど低空飛行で飛んでいた戦闘機に、道を歩いていた所を狙い撃ちされることもありました。その時には里芋畑の葉っぱの中に隠れたり、現在の道の側溝よりも少し大きい"溝"に布団を被って隠れ、生きながらえました。焼夷弾が防火水槽にあたり、その破片が胸の下に当たったこともありました。

Oさんが体験された戦時中の生活は今の私たちの生活とは考えられない程の違いがあります。自分がどれほど恵まれた時代に生まれたのか改めて実感しました。Oさんはこの他にも終戦後の生活などについてもたくさんお話頂きましたので、続きは後編でお伝えしたいと思います。

Oさんの壮絶な人生 後編もお楽しみに

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