10/2キッズライクアス出版記念イベント報告
すっかり時間が経ってしまいました。
とても貴重な時間でした。詳しくはこちらにありますが
「生きづらさを抱える子供/人たちと共に生きるということ」ということについて、2つのテーマで話は進みました。1つは境界線の話、もう1つは、いえこのもう1つも境界線のお話ではあるんですけれども、医療情報との境界線、どう付き合うかどう見極めるか、のお話でした。医療情報のほうを私が担当しました。
境界線・・・ひとが持つべき、もっとも大切なものの一つかもしれません。
特に母親は子どもが自分の身体から生まれ出てくるのもあって、きちんとそこを意識していないと、子どもに起きていることがまるで自分に起きていることのように錯覚し、その問題は子どもの問題なのか?親の問題なのか?と思うような、ぐちゃぐちゃになってしまうことがあるように思います。(親子だけでなく、夫婦、同僚、様々なところできっと起こりうることですが)
本来、生まれたときから、子どもは別個の存在で、まったく異なる人格を持った尊重すべき存在なのですが、お世話などで明け暮れているうちにどんどん境界線はなくなっていき
いよいよ思春期、となったときに、子どもがNOと反応を示してくれた場合には、ハッと気づいたり、距離を置いたりする、その重要性に気付く方も多いかもしれません。そこでギアをガクっと変える方も多いことと思います。
逆に子どもがNOを示さなかった場合は、まだまだそのままくっついたまま、まるで一心同体のような状態で育っていくことにもなるのでしょう。
境界線のところは私は専門ではないのですが、思春期の相談を受けるたびに、おおお、それは誰に起きているの?と思うようなことも多くて(お子さんでなくて、母がとても苦しそう)、誰の試合?誰の受験?そんな風に感じることもあるので、少し書きました。
以下に当日の内容をほんのちょっと記します。訳者である林真紀さんの問いかけに、専門家であり合同会社てにをは代表の岡本真梨子さんが、とても大事な指摘をくださっていました。
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訳者の林真紀さんから冒頭、『キッズライクアス』のどこが好きか、というお話の中で『発達障害のマーティンが一人で苦しんでいるわけではなくて、誰しもが何かしらの矛盾や苦しみ、自分自身との折り合いのつかなさみたいなものを抱えている。つまり、誰しもが生きづらさを抱えて生きている。』
『例えば発達障害のお子さんが家で荒れるっていうのはよく聞く。特に思春期になって、人間関係が思うようにならなくて、学校に行けなくなって、暴れる。家じゅうの壁がぼこぼこで。お母さんも傷だらけ。それでそのお母さんが「寄り添ってあげたい」と。
他人が聴いたら「なんて優しいお母さんなんだろう」と思うけれど、それはちょっと違うんじゃないかと思う。そう思っていたときに、自閉症児の療育で有名な先生がお母さんが励ましてあげることを、「イネイブリング」だとおっしゃった。寄り添うって言いながら我慢して、話を聞いて、ぐちゃぐちゃになった部屋を片付けてあげる、これが逆に子どもの暴力を助長していることだと。』
その問いかけに対して、子どもに発達検査を多数実施し、その検査自体の作成・改訂に注力されてきた岡本さんが『イネイブラーとは、元々はアルコール依存症の言葉で、献身的にサポートしているようでいて、その実、身近な人の問題行動を助長させてしまう人のこと。無意識に相手の自立を阻んでしまいやすい。心理学的に、母であることは「呪い」と言われるくらい、自分の産んだ子どもへどうしても囚われてしまうもの。親は構造的にイネイブラーになりやすいという視点に立って、いくら子どもであっても相手は他人、分かり合えない、というところからスタートするとよいのでは。そして、大勢検査をしてきたが、“普通の人”なんていない。検査をしても100人が100人、全く結果が違う。すべての項目が平均的な人なんていない。認知能力を数値化し、便宜的に区切って、少数派を“発達障害”としているけれど、みんな凸凹がある。』
と。とてもとても大切な、お話でした。
オンラインでも、聴いてくださってる方の温度感、かなり伝わってきました。ありがとうございました!
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