パニック障害のあれから
いつぶりでしょうか。久々にnoteに綴りたいと思います。
私はあれから家族や友人のご協力もあって、なんとかひとりで買い物へ行ったり、電車に乗ったり、いわゆる「当たり前」をこなせるようになりました。今でも時々「当たり前」が羨ましかったあの頃を思い出して、そのたびにいかに当たり前が幸せかを感じています。
なぜ、今日久しぶりに投稿しようと思ったかと言うと、先日大学院試験の面接でいろいろ考えることがあったからです。
「勉強以外で頑張ってきたことはなんですか。」
「自分の強みはなんですか。」
皆さんはこの質問にどうこたえますか?
私には周りの人のように、部活動の実績もないし、なにか資格を取得したわけでもありません。だけど、なにも頑張っていなかったわけでもないのです。そんな中、「私は読書を頑張りました」そういう無難な答えしかできませんでした。
だけど、私が本当に一番必死に頑張ってきたことは、毎日を何とか生きていくことでした。普通のことを前みたいにまたできるようになるために、毎日毎日必死でした。だけど、私はそのことは話すことができませんでした。
「体調を壊しやすい要注意な人、メンタルが弱いのか、精神疾患を再発症するのではないか」そう思われるのが恐かったのかもしれません。あるいは、あの必死な日々は私にとってとても大切だからこそ、軽々しく話したくない、と思ったのかもしれません。それとも重たすぎる話だから、不利になるからこういった面接のような場ですべきではないと思ったのかもしれません。
だけど、なぜか話せなかったことを今後悔しています。あの日々を頑張ったと言えなかったことに、なぜか後悔しているのです。自分の過去を隠しているようで。
振り返ってみると、病気について打ち明けられなかったのは、今回ばかりではなくて今までもそうでした。病気のせいにしていると思われたくなくて、不憫に思われたくもなくて、理解されないなら話さずに自分だけのものとしておきたい。だけど、そう思ってしまうのは、病気になる前に私が精神疾患を持っている人にそう思ってしまっていたからかもしれません。本当にあの頃は今以上に未熟で冷たい人間でした。
だけど、私はどこまで打ち明ければいいのかわかりません。自分が打ち明けたことによって、自分の中にある ’おもり’ は軽くなったとしても、相手にそのおもりを背負わせることになるのではないか。そもそも打ち明けたところで、私を思って頑張ってくれることすら少ししんどいと思ってしまう。それなら自分の中で、自分だけでこの痛みを感じていたい。だけどどこかで、心から分かち合いたいと思っているから、こうしてノートを書いているのだと思います。
私は何かを恐れていて、殻に閉じこもっているようです。
何かを恐れていて、すぐに自分から手放してしまう。
その「恐れ」が何なのか、まだ自分と対峙することが怖くてできませんが、きちんと見つけていきたい、いまはそう思います。
最後に、闘病は頑張ってきたことです。誇るべきことです。あの辛かった日々、頑張った日々、流した涙も、他の人がどう思おうと、美化するわけでも憐れむわけでもなく、自分だけは認めてあげたい。
長文読んでいただきありがとうございました。