舞台『メディスン』感じたままの言葉たち〜ジョン寄りの感想〜
舞台メディスン。
私は関西初日と楽日の2回観劇する事が出来た。
頑なにネタバレを避けるという意志があったわけでもないが、とにかくバタバタした日々の中でインタビュー記事や様々な人が書く感想、パンフレットさえも全く見ずに挑んだ今回の観劇。
前情報として知っていたのは舞台が施設という事とジョンがパジャマを着ている事ぐらい。
考察する能力も深読みする才能もない私なので、考えるな感じろの最前線にいるような薄っぺらい感想になりそうだがこうなったら色んな情報を入れる前に思いのままにつらつらと記していきたい。
舞台メディスン感想
1回目を観終わった後は、まるでカラフルな風船が頭の中をフワフワと飛んでいるようなそんな感覚だった。
掴めそうで掴めない。
だけれども、とても満足していた。
舞台上で繰り広げられる異空間な情景の意味を考える事さえ忘れ、息も瞬きも忘れていたのではないかと思うほどのめりこんだ。
後半に連れ気づいたら何度も涙が頬を伝っていた。
感情が大きく揺さぶられたような胸から込み上げるような涙では無くただひたすらに頬をツーッと涙が流れ落ちて行く。
頭よりも心が何かを感じているような。
自分の中の忘れていた記憶がそうさせているような、そんな不思議な感覚だった。
自分のなかのジョンが泣いてるみたいな…
ちょっとなに言ってるのか分からないけれど、こんな感覚は初めてだった。
幕が開き、舞台上に現れたジョンはとてもナーバスだった。
繊細で臆病で純粋で、言葉を選び丁寧に話し、
人からどう見られるかを過剰に気にしているジョン。
言いたいことを遮られてもぐっと飲み込み愛想笑いを浮かべる姿を見て胸が締め付けられる思いだった。
もっと我儘に自分の感情を伝えられたらどんなに楽だろう。
彼はどうしてここにいて、どうしてこうなったのか。
ジョンの言葉で語られていく彼の人生は重く悲しくて、落ち着かない心をなんとか抑えるように動く彼の指先や丸まった背中、時折脚本をギュッと抱きしめる姿が愛おしくてたまらなかった。
両親に抱かれることも語りかけられることもなく沈黙に慣れたというジョンだけれど、当たり前に抱きしめられたかったし愛されたかったんだろう。
彼の抱えている後悔の思い出、ついてしまった嘘の記憶。
仲良くなりたい、笑わせたい、そんな思いでついてしまった小さな嘘の後悔は誰の心にもあるのではないか。
真っ赤なワンピースを着て項垂れる大きな身体があまりにも苦しくて直視できなかった。
重く苦しいシーンを打ち消すような音楽やコミカルな台詞達に運ばれるように進むこの物語。
現実と非現実が交互に繰り返される演出は私を救ってくれた。
メアリーズ2人の存在や目の前で起こっている事が現実なのか夢なのか空想なのか、よく分からなかったけれど懐かしい曲に身体が自然に反応してしまうような演出はとても楽しくておしゃれで、エンターテイメントとして大いに楽しんだ。
全てはジョンの見ている夢だったらいいのにと思ったが、ラストの錯乱したジョンの語りでどんどん現実に戻っていく。
時系列を綺麗になぞるのではなく、進んだり戻ったりしながら彼の重く苦しい人生を繰り返していく。
まるで悪魔の言葉が頭の中でずっと鳴り響いているような感覚はとても恐ろしかった。
ジョンは何度も何度もこの辛く悲しい人生を頭の中で反芻する事でトラウマのような過去の記憶に脳内を蝕まれていくような人生を送って来たのではないか。
「人とは違うから」 「ここにいるのは正しい」
「僕の頭は僕のじゃなかった。一度も自分のだって感じなかった」
全ては他者が刷り込んできた言葉達が産んだ幻想で人格支配なのかもしれない。
彼に手を差し伸べる人が現れる度に邪魔するのは何故なんだろう。
強く逞しい名前を持った彼の人生がどうしてこうなってしまったのか、やりきれない思いになる。
最後にジョンが読んだ詩の意味は2回目の観劇で理解したつもりなのにもう今は覚えていない。
美しくて希望に満ちた詩だったような気がしている(全然違っていたらきっと私の願望から生まれた幻想だ)
苦しい過去に取り憑かれ暗い森の中のような彼の頭や心のなかに、ほんのりと明るい色を帯びたこの綺麗な詩が残っていた事。
その詩をメアリーが認めてくれ、ジョンの言葉を聞いてくれている人がいる。それが救いだった。
メアリーの拍手のあと、胸に手を当てて一礼するジョンの姿が強く脳裏に焼きついている。
いれるだけ一緒にいてくれると言ったメアリーの手を包んだジョンの手。
そこから二人の表情が少しだけ緩んだように感じた。
暗転して行く舞台の上でどんどん薄らいでいく2人の姿は暗闇のなかなのにハッキリ見える瞬間があるように見えて、ここからジョンの人生が始まればいいのに。
あの老人のような声こそが幻ならいいのに。
そう願ってやまなかった。
ここからはファン目線の感想を
備忘録的に感じたことを綴っていくため、不適切な発言がある可能性もあるかもしれないことをご了承いただけた方だけお進みください。
不適切なことさえ書かないくだらない感想になる可能性もあるかもしれませんのであしからず。
田中圭さんの舞台を見るのはこれで二回目だ。
『夏の砂の上』以来の鑑賞となった。
『夏の砂の上』感想noteはコチラ
子どもたちに田中圭を見に行くと豪語してでかけたが、そこに田中圭はいなかった。
そうだ、舞台とはそういうものだ。
前回の舞台でも同じことを感じたのだった。
そこにいるのは田中圭のカケラなど全く無く儚くて今にも消えてしまいそうなジョン・ケインだった。
終演後のカーテンコールの最後、扉の外から手を振ってくれるまでずっと田中圭は現れなかった。
1回目は前から2列目、しかもジョンの立ち位置の前という神席で見ることが出来た。
目の前に現れた圭さんはとても大きくてとても逞しい身体をしていた。
落ち着きがなく動く表情はジョン・ケインそのもので、決して格好いいとは思わないのだけれど、時折見せる表情があまりにも美しくてため息が出た。
前方でみていると視野は狭く、メアリーズを見るとジョンが見えず、ジョンを見るとメアリーズが見えないため、全体を感じることは難しかった。
舞台上で飲んでいる謎の飲み物が哺乳瓶みたいな形状で、前方だからか飲んだあとの音がよく聞こえた(2階席からも一度聞こえたので全員に聞こえているのかもしれないが)
メアリーズのシーンを見ていると、ジョンの方から「チュパッ」という可愛い音が聞こえてついジョンを見てしまうという自分が数回現れたことを懺悔しておく。
2回目の観劇は2階席だったので全体が見渡せた。
この舞台は遠くから見る方が楽しめるかもしれない。
まったく違った角度からこの舞台を見れたことはとても有り難かった。
関西の楽日、圭さんの声は本調子ではなかったようだ。
第一声から枯れていて、腹から出す声は出るが普通の声が出しにくいような様子だった。
私自身が抱えるトラウマのような出来事を思い出した。
大切な仕事を声が出ないことで飛ばしてしまった日のこと。
謝りに行くあの時のドキドキ、朝起きた瞬間の喉の違和感と声がでない現実は恐ろしくて忘れられない。
その後少しずつ改善したものの腹から出す声はちゃんと出るが普通の声が裏返ってしまって感情的な抑揚を出すのが難しかった期間があった。
ついついそんな事を思い出して最後まで圭さんの声が持つのかとても心配になったけれど、枯れた声が壊れそうな彼の心を表しているようでより哀愁を増していた。
この日は舞台上で食べるゼリー(プリン?)のスプーンが落ちてしまったのだけれど、圭さんは拾ったあとでパジャマの裾のあたりでそれを丁寧に拭いていた。
その仕草もまさしくジョンならそうするだろうなというような行動だった。
まだまだ少ししか見ていない私には気づかない沢山の出来事があったのだろう。
どんな出来事も舞台上では役として生きながら消化していく。
舞台は生物なのだ。
何度も見たいと思った。
舞台終わりに手を合わせこちらに一礼をしていった圭さん。
終演のアナウンスが聞こえても鳴り止まない拍手がみんなの気持ちを表しているようだった。
拍手の後に出てきてくれた圭さんは、まるでスタッフさんかのように扉を開きキャストを先に出るように促している姿が紳士で格好よくて優しくて大好きな人だな…と思った。
見ているこちら側も消耗するようなパワーあふれる舞台を1日2公演、全54回も…
想像を絶する世界だけれども、見た人の心のなかにそれぞれのストーリーが生まれ、それぞれのジョンやメアリーの物語があるようなこの作品。
素敵な感想が沢山あがっているのだろうな。
他の人の考察を読んで考えるのもよし、自分の感じた物語で満足するのもよし(私は後者かもしれない)
でも出来ることならもう一度舞台をみたいし何度でもみたいし、何ならあわよくば行くための交通費とか計算している自分もいるので…(チケットはないけど)どうか配信かディスク化をお願いします。
素敵な作品に出会わせてくれたすべての方に感謝を込めて。
千穐楽まで無事駆け抜けられますように。
公式記事まとめ
次は本物の田中圭に会える現実が控えている幸せ。
ファンミーティングも楽しみにしています。
雨音