僕の人生には事件が起きない / 岩井勇気
こんにちは。
青井あるこです。
2019年9月に新潮社から出版されている岩井勇気さんの「僕の人生には事件が起きない」を読みました。
お笑いコンビ・ハライチとして活動されている岩井さんの初エッセイ。
ハライチのネタは面白くてテレビでやっているとついつい見てしまうのだが、一方でバラエティ番組などでは澤部さんが一人で出ている光景をよく目にする。
そのせいか岩井さんに対しては無口で大人しいという印象があった。
だからときどきSNS上で岩井さんの毒舌が流れてくると、少しどきっとするというか、意外と鋭くて毒が強い人なんだな…とちょっと怖く思うと同時にどこか面白さと共感のようなものを覚え、いつの間にかハライチなら澤部さんより岩井さん派になっていた。なんとなくだけれど。
と言っても私は彼らの熱心なファンでは無かったので、このエッセイもたまたまツイッターで見かけて知ったのだけれど、この
「僕の人生には事件が起きない」
というタイトルに猛烈に興味を持った。
それは正にそのときに私が、というか今も感じていることそのままだった。
芸人になっている時点で十分事件起きてるじゃん…という率直な気持ちもあったけれど、彼が何を以って「事件が起きない」と言っているのか気になったので読んでみることにした。そこには何か私の「事件の起こらなさ」に繋がるものがあるのではないかと期待してもいた。
エッセイには日常の些細な出来事がピックアップされていた。
例えば忘れっぽくて何度も歯医者の予約をすっぽかしてしまった話、珪藻土と自然薯がマイブームになった話、同窓会で同級生にイラっとした話…など。
なかには芸人という職業だからこそのエピソードもあったけれど、割と一般人の私の身にも起こりそうな身近な生活のなかの一場面が切り取られていた。
そんな特別でもない日常なのに、語り方の面白いこと。
「あっはっは、なんだこれウケる」と手をバンバン叩いて大声を上げて笑い転げるようなタイプの面白さではなく、読んでいると最初はまともなのにいつのまにか凄く行き過ぎるというか極端な展開になってきて、待って待ってと思いながらも思わずクスッと笑ってしまう。
通勤電車のなかで読むことが多かったのだが、今が風邪のシーズンで良かった。マスクをしているからニヤニヤしていることはバレなかっただろう。
特にお気に入りなのが「あんかけラーメンの汁を持ち歩くと」「珪藻土と自然薯にハマった」「空虚な誕生日パーティに”魚雷”を落とす」というエピソード。
芸人の仕事は声が大事なのに風邪をひいてしまって声が出ない。困ったから喉に良さそうなレモンと蜂蜜のドリンクを作って水筒に入れて持ち歩こう。
というところまでは分かる。理解できる。一般人でもやると思う。
だけど、それが同時期にハマッていたあんかけラーメンのスープを水筒に入れて外出先で飲むというのは分からない。
分からない…よね? もしかして私だけが共感できなくて、世の中の人は意外とラーメンスープを水筒に入れて持ち歩いているものなのか? 駅のホームで水筒から飲み物を飲むスーツのサラリーマン。彼はお茶や水ではなく、ラーメンのスープを飲んでいたりするのか…?
しかもその外で、恐らく周りの誰にもまさかラーメンのスープを飲んでいるとは思われていない状況下でスープを飲むことには謎の背徳感があって、楽しかったらしい。
日常生活に、いつもやらないことを少し加えるだけで全然違う風景に見える。あんかけラーメンの汁はそれを教えてくれた気がした。
いやいや、何を良い感じに語っとんねーん!(エセ)と。思わず突っ込んでしまう。
私は一時期(というか今もだけれど)、自分の人生に飽きてしまっていて、ネットでひたすら「人生」「飽きた」みたいなことをググっていたときがあった。
そのときにアドバイスとして、いつもとは違うことをしてみましょう、というのがあったけれど(そしてそんなことは知っとんねんと思ったけれど)、まさか「いつもやらないこと」のなかでもまさか「あんかけラーメンの汁」を外で飲むことを「日常生活に」「少し加え」ようとは思わない。
私もラーメンのスープを水筒に入れて持ち歩いたら生活が面白くなるだろうか。その前に同居する家族に心配されそうだけれど。
珪藻土と自然薯のエピソードでも、珪藻土にどハマりして、バスマットやコースターなど家じゅうのあらゆる箇所で珪藻土グッズを使っていたら、そのあまりの吸水性に自分の体内の水分まで吸われてミイラにされてしまうんじゃないかと心配になったらしい。
いやいや、なんでそんな考え方になるのよ、と。私も会社で珪藻土のコースターを使っているけれど、コンビニで買ってきたアイスコーヒーのカップに付いた水滴をグングン吸ってくれるから気持ちいいな、デスクが水浸しにならないからありがたいなとしか思わない。
その極端なところへ考えが行き着くというのが面白かった。読んでいる途中で「待って待って話が全速力で間違った方向へ進んでいっているよ!?」と言いたくなってしまう。
もう一つ、仲が良いわけでもない女の子からその子の誕生日パーティに誘われて、自分で描いた絵をプレゼントとしていったというエピソード。
自分の誕生日パーティに他人を誘うという精神の理解できなさ、厚かましさ、押しつけがましさ…その他諸々に苛立ち、半ば挑戦を受けて立つという気持ちで招待を受ける。そこにはいかにもパーティが苦手そうに見える俺を適当な気持ちで誘ったことを後悔させてやる、というような気概も感じる。
親しい関係でもなければプロの画家でもない人物から自筆の絵を貰っても嬉しくないどころか、むしろ気味の悪ささえあるだろう。だけど主催者は自ら招待した相手に貰うプレゼントなのだから、喜んでいるように見せざるを得ないだろう。
とそこまで考えて用意したプレゼントの魚の絵ーまたの名を”魚雷”。
私もどうして? と思うような集まりや完全に人数合わせのためだろうなと思うような誘いを受けたことがある。そんなものは面倒くさいし、相手の思惑が透けて見えるから良いように使われたくないし、時間がもったいないし、で断って終わりなのだけれど、
岩井さんは真っ向から挑戦を受けた。波風を立たせないどこにでもあるようなプレゼントではなく、魚雷を投下した。しかも仕事で忙しいだろうに、わざわざ面倒くさいことのために時間を使って絵を描いている。
私のイメージのなかの岩井さんだとこういった類の誘いの連絡は無視するか、行かずに終わらせていた。だけど意外と好戦的というか。
わざわざそこまでやらなくても……と苦笑してしまいそうになるが、主役の女の子には申し訳ないが、思惑通り気まずい沈黙に包まれたパーティ会場を颯爽と出ていく岩井さんとは、周りから見えないように低い位置でハイタッチを交わしたくなる。
岩井さんがどう感じたかはわからないけれど、私の言葉で言えば「人のことをアクセサリーとして使わないでよね」っていうところだ。
そんなこんなでどれも日常に起こり得る些細なできごとだ。(魚雷の話はまあまあ大きな事件のような気もするけれど)少なくとも友だちや家族など内輪のひとに「こんなことがあってさー」と話すような出来事であって、テレビ用ではないかもしれない。
だけどそのどれもが面白かった。思わずクスッと笑ってしまったり心の中で突っ込みを入れてしまったり。
それは出来事自体が面白かったというより、出来事に対する岩井さんの反応や行動、それから着眼点や語り方が面白かった。
どんな日常でも楽しめる角度が確実にあるんじゃないかと思っている。
似たようなことをよく聞くけれど、このエッセイを読むとその本当の意味がなんとなく分かってくる気がする。
私はテレビやネットから流れてくる大きな事件(ハプニング)に晒されて慣れてしまったせいで、「面白い」出来事のハードルが知らず知らずのうちにかなり高く設定されてしまっているのかもしれない。
私の人生には事件が起こらない。
だけど事件にならない些細な出来事を面白く捉えられるような角度が見つけられたらいい。
絶対に読者を笑わせてやる! というような狙いを感じさせない淡々とした文面。肩の力を抜いて読むことができて、だけど思わず笑ってしまう。
疲れた日に読んでほしい。
何故か不思議と、読むとその日自分の身に起こったネガティブな出来事が少しだけ気にならなくなると思う。