私の幸せと家族の幸せ―不肖の娘でも / 井川直子―
こんにちは。
青井あるこです。
井川直子さんの「不肖の娘でも」というエッセイを読みました。
これまで母と娘という関係性の本は極力避けてきたはずだった。けれど自分の本棚を見ると、どこかに母と娘というモチーフがあしらわれた小説が多くならんでいて驚く。
私はやはりどこかで、母との関係に思うところがあるのだ。普段は目を反らしているけれど。
このエッセイは、認知症を発症した地方で暮らす母親と東京で家庭を持ちながら仕事をする娘とのさまざまなエピソードが綴られている。
書店でこの真っ白な表紙に銀色の箔押しで「不肖の娘でも」というタイトルが書かれているのを見つけた瞬間、恐る恐る、だけど手を伸ばさずにはいられなかった。
自分の母が認知症になるなんて、真剣に想像をしたことさえ無い。
私は母のことを大切に思っているし、母だって私のことを愛してくれている。そんなことはわかっている。辛いことがあったときに、会いたいとか慰めてほしいとか思うこともある。けれどその一方で、一緒にいることがどうしてか苦手だ。
私は幼いころから思春期も含めて、親に口答えしたことや反抗的な態度を取ったという記憶がほとんど無い。
代わりに自分の気持ちや考えを話してこなかった。いつもどこかでわかってもらえないという諦めがあった。
お互いに深い話をしないということは、お互いのことをよく知らないということでもある。私は家族のことをよく知らない。お互いの間に薄い壁があるようにさえ感じる。生まれてからずっと一緒に暮らしているのにも関わらず、だ。
私も大人になり親や祖母は年を取り、親しい人を亡くしたこともあって、死に現実的な質量を感じるようになって、このままもしも家族を喪ったらきっと一生後悔するだろうという予感がしている。
だけど相手が家族であるからこそ、一歩踏み込むことが怖くて堪らないのだ。
このエッセイにおける娘である著者の井川さんは、秋田県出身で東京でライターの仕事をされている。病気を発症した母にできる限り寄り添いたい、何かしてあげたいという気持ちと、自分の生活を諦めたくないという葛藤されている。
私は一人っ子だ。将来もしも、家族が認知症を発症したらどうするだろうか。今は実家で暮らしていて、職場も家から一時間ほどのところにあるけれど、それすら続けることが難しくなるかもしれない。それに将来的には家を出ていきたいと思っているし、海外で生活をしたいなんてことも思っている。
私は病気の家族の為に、自分の人生を諦めるだろうか?
そしてそんなことを家族は私に望むだろうか?
数年前、私がうつ病を発症したときに、当時勤めていた会社の上司から言われたことで、今も心に残っていることばがある。
「私が幸せになることが、結局親にとっての幸せだって気づいたんだよね」
彼女は四十代の女性で一人っ子で、そして仕事一筋で独身だった。以前はご両親に対して、結婚をしていないことや孫の顔を見せられないことを申し訳無く思っていたそうだが、やりがいを持って仕事をしている姿を見せているうちに、「あなたが幸せならそれでいい」というようなことを言われたそうだ。
それまで一度もそんな風に考えたことは無かった。両親を喜ばせたい一心で勉強をして志望大学に入ったり、両親を安心させたい一心で安定した仕事に就いたり。そうして両親が喜ぶ顔を見たら、私も嬉しかった。
だけど。ときどき人生に空しさを覚えていたのも確かだ。
そして「自分が本当にやりたいことはなんだろう?」と考えたときには、何も思いつかなかった。もちろん、なんとなくやりたいことはある。けれどそれは安定した仕事を捨てることや結婚を先延ばしにすることの上にあるような気がして、怖くて足を踏み出すことができなかった。
こんなことをしたら、きっとまた家族に心配を掛けるだろうな、と思ってしまうのだ。
そんなときにはその元上司のことばを思い出し、自分に言い聞かせるようにしている。
著者の井川さんは東京で仕事を続けながらもたびたびお母さんの元を訪ねて行っているようだったが、それでも緊急時にすぐに駆け付けられないことに罪悪感や自責の念を覚えている様子が綴られている。
病気の相手、とくに家族に対してはどこまで尽くしてもキリが無いというか、もっとこうしてあげれたらいいのにという思いは尽きない。
だが「ごめんね」という気持ちで心を湿らせながらも、認知症になったお母さんと接することで初めて気づいたことも書かれている。
そのなかで一番印象に残っているのは、お子さんがいない著者夫婦に対してお母さんが「赤ちゃんは、まだ?」と尋ねるエピソードだ。
悲しませないためにはどう答えるべきかと悩む著者に、お母さんは上機嫌で続ける。
「子どもは、いいものだよー」
「子育ては、面白かったなぁ」
その発言を聞いて井川さんは、「母の人生が、与えるだけのものでなくてよかった」と感じるのだ。
遊んでいる子どもを眺めているだけでも、子どもが小難しくててこずるような娘でも、お母さんは楽しかったのだと気づく。
この数ページを読んだとき、思わず泣いてしまった。
私の母も、私を育てたことや一緒に暮らしていることを「楽しい」と思ってくれているのだろうか。
私もなかなかてこずるような娘だと思う。メンタルの調子を崩して病院に通ったり、誰かと一緒にいることが苦手で恋人も友だちもいなかったりと、つくづく母を心配させてばかりだと思う。
それでももしも母が、私が娘であることを「楽しい」と思ってくれるのなら、私は自分を許せるような気がする。
そして世の中には、私のほかにもたくさん、親に「申し訳なさ」を感じて生きている人がたくさんいると思う。その申し訳なさや、それ故に発生する距離を解消する方法は人それぞれだと思うけれど、もしも直接向き合うことが難しいと思うなら、ぜひこのエッセイを読んでみてほしい。
エッセイの主旨とは異なっているかもしれないけれど、私は母にとって、私が思うほど悪い人間じゃないのかもしれないな、と思えた。
家族に「ごめんね」じゃなくて「ありがとう」と言えるように、私は私の人生を生きていきたい。
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