【恩人の話】勇往邁進〜僕が頑張る理由〜
「中山さん、トレーナー探してるんやけど」
2016年2月頃、
そう話しかけてくるのは、「滋賀県ハンドボール協会前理事長」
今回は、もう直接感謝を伝えることのできない恩人の話。どこかに書き残したくて。こんな人が居たんだって知って欲しくて。
恩人と僕の出会い
理事長は高校で勤務されていたことから先生と呼んでいる。
少なくとも僕と話すときは、電話越しでもニコニコしているのが声色でわかる、そんな人だ。
先生とは、
僕が整骨院に勤務していた2012年からの患者さんと治療家という関係。
ややこしいけど、整骨院では私が先生で先生が患者さん。
「先生、体デカいし筋力もあるので治り早いっすよ」
みたいな話を笑いながらしていたのを覚えている。
先生の腰痛をしっかりと改善出来て以降、指名はなくとも、先生の治療担当は僕だった。
「本当はもっとスポーツチームに帯同するトレーナー業をしたい」という、どこにでも居る駆け出し若造の甘えを汲み取ってくれた先生は、自身が顧問をするハンドボール部への帯同の機会を与えてくれた。
練習試合帯同の仕事だった。試合間にはトレーニング指導も行なった。
社会人1年目の常識知らずの若造を信頼してくれて、大切な先生の部活動の生徒を預けてくれることに、大きな感謝と合わせて、僕は「やってやる」「やってやろう」と意気込んでいたのをはっきりと覚えている。
恩人から得た信頼と転機に来た電話
それ以降、先生はトレーナーに関して、あらん限りの信頼を僕に寄せてくれていたし、僕も先生の事を信頼していた。
トレーナーを探していると先生に言われれば「僕できますよ!」と伝えた。先生は僕が快諾するといつも嬉しそうにしていた。その姿がとっても大好きだ。その姿を何回も見たくて、大会救護や、教員を集めたセミナー、トレーニング指導に治療、、なんでも引き受けた。
整骨院を退職したあとは専門学校の教員をすることになった。その学校での勤務期間は2年間で副業は許されなかった。おのずと先生からの依頼を引き受けることは出来なかった。
けどね、
その2年間も先生は僕をずっと頼ってくれる。
「中山さんの紹介なら信頼できるからトレーナーを紹介してほしい」と。
今になって言うけど、
「先生ね。先生からの依頼を受け入れることができる人なんて僕しかいないし、僕も先生からの依頼を他の人に振りたくないんですよ」
その専門学校での勤務は長くは続かなかった。
他の専門学校で専任教員をしないかと声をかけていただいたのだ。
そこでは実習として外部へのつながりを持つことができた。
冒頭の2016年2月に戻る。2つ目の専門学校への入職を2か月後に控えているとき、電話が鳴った。先生だ。
先生「中山さん、トレーナー探してるんやけど」
「中山さんとか無理よね」
僕 「僕できますよ!」
先生「うそぉぉおお!?ほんまにぃ!?」
この先生の喜びがたまらないし、
自分が求めていることって誰かに求められることなのかなって思う。
先生の喜びが、僕のトレーナーとして生きる糧となっていた。
先生の依頼は
「2024年に滋賀県で国民スポーツ大会が開催される。それに向けて8年ある。強化のために滋賀代表成年男子選抜ハンドボールチームのトレーナーをしてくれないか。選抜の主軸チームとしてHC彦根がある。そこのトレーナーもして欲しい」だった。※滋賀国スポはコロナで1年延期となり2025年開催
心が躍った。本務校はあるもののできる範囲で「やってやろう」とここでも意気込んだ。
そこからアルバモス大阪に出会うまではまた別記事に記載する。
アルバモス大阪との出会いとそこで得た評価
アルバモス大阪との出会いは、
前身のチームの2021年8月のトライアウトの時。
ハンドボール界に身を置き数年の僕はその場に来る人の名前をざっくりと聞いたことがあった。
「銘苅 淳」
やばい人が来ることはわかっていた。
「失うものはない。ここで爪痕を残してやろう」
やることはいつもと同じ。
「やってやろう」とまたまた意気込んだ。
このトライアウトが終わって、
スポーツイベントハンドボール2021年10月号に記事が出ていた。
そしてそこに僕の記事も載っていた。
銘苅さんのインタビューには
「ここまでのトライアウトでドラフト1位指名したいのは中山トレーナー」
「だれよりも声を出して、コミュニケーションを取っているから」
記事を見て涙が溢れてきた。
『今までやってきたことが全て認められた気がした』
『世界や日本代表、トップリーグを知っているハンドボーラーに認めてもらえたことがシンプルに嬉しかった』
それに、
『恩人の先生が僕に目をつけてくれて、
関わることが出来た僕のハンドボール人生が間違っていなかったと思った』
なにより、
『僕を見つけてくれた先生の目も間違っていないと証明することが出来た』
自分は専門学校の教員だし、他のトレーナーにアルバモス大阪のチームトレーナーをしないかと話を振った。だれもチームにフィットしなかった。
自分がやるしかないと思った。
恩人との別れと思い
契約についての話をしていく中でもちろん恩人である先生にもこんな話があるんです。と話をかるーくしたと思う。ただしっかりと相談は出来ていない。
そんな中、2023年11月、
60代という若さで先生はこの世を旅立った。癌だった。
ただただ悔しい。癌であることは知っていた。
治療に遠方の病院へ行くことも、ハンドのこと以外も電話で相談に乗った。
「国スポの時はスタンドから一緒にハンドを応援しましょう!」
「先生しぶといんでそんなに簡単には死なないですよ。」
と自分なりに励ました。
先生が死に向かいあっていた事が新聞記事になっていることを知った。
勇往邁進「どんな困難でも勇気を出して乗り越えて初めて前に進める」
主治医から座右の名を聞かれた際にそう答えていたようだ。
先生へ
先生へ
先生、勇往邁進、大切な言葉として胸に刻み、トレーナー活動をさせてもらいますね。
先生から「トレーナー探してるんやけども」って相談は聞けないかもしれないけども、様々なところで中山さんを呼びたいと言う声が広がっています。
あの時、僕を見つけてくれて、度々電話をかけてくれて、本当にありがとうございます。
この度、
プロハンドボールチームアルバモス大阪で専属契約をする運びとなりました。アルバモス大阪の帯同の合間を縫って、滋賀県のスポーツにも関わる事が出来そうです。チームは僕くらい変なやつばかりです。先生が誘ってくれたハンドボールの世界、まだまだどっぷり浸かってそうです。初戦は必ず応援に来てください!ちゃんと試合前の僕主導のウォーミングアップから見てくださいね。1番良い席(ベンチの僕の横の席)からチームじゃなくて僕を応援してください。きっと緊張しているので。で、「あのトレーナー、僕が見つけたんや」と周りに言いふらして自慢してください。僕は先生に見つけてもらい、頼られ、トレーナースピリットを鍛え磨かれたのですから。
色々伝えたいことはありますが、それはお墓参りの時にでも。
恩人への恩返しは
「アルバモス大阪というトップチームでトレーナーをすること」
「元気で幸せに過ごすこと」
「滋賀県に呼ばれてしっかりと期待に応えて活動すること」
かな。
返しても返しきれない恩を持って、勇往邁進する。
これが僕の頑張る理由。
僕はいつでも僕らしく。
OK!ready!
uno! dos!! vamos!!!
アルバモス大阪専属チームトレーナー
中山 広基