
言葉は、最も身近にして強い
仕事で、小学生の子どもたちにひらがなの読み書きを教えることがある。
発達的な要因などによって、ひらがなの読み書きが苦手な子たちがいるのだ。(「苦手」であって、「できない」ではない)
なぜひらがなの読み書きが重要なのかといえば、
ひらがなは日本語を使ううえでの基礎の基礎であり、
国語のみならず、他の教科の勉強やその子の生活能力すべてに影響してくるからだ。
―という理念のもと、読み書きの支援をしているのだけど、
「言葉が持つ力の強大さや偉大さ」を思うと、それ以上に自分のしているこの支援は、人類にとってとてつもなくすごいことの一端を担っていると感じる。
そんな「言葉の持つ強さ」って何なのかを改めて考えたいなぁと思う。
言葉の持つ役割
言葉の役割はさまざまだ。
お互いの意思や気持ちを伝えるため
「~したい/してほしい」「~するな」「ありがとう」「ごめんね」物体や事象、目に見えないものに呼称を与えるため
「~という物質を『反物質』と呼ぶ」「あなたは今『うれしい』って思ったんだね」
などなど…(これ以上のことは言語学とか社会学の人に任せよう!)
特に、自分の要求とか感情を伝えるというのが、言葉の最たる使い方だと思う。
人は思いを伝え合うことで生活しているし、政治や社会は伝え訴えることで変化してきた(武力行使もあるけど)。
反対に、言葉を使えないと、「沈黙という名の肯定」だと解釈されたり、自分のなかに感情をため込んだりしてしまうことになる。
「言葉を奪う」はとてつもない攻撃
見方を変えると、「相手の言葉を奪う」というのはとてつもない攻撃だといえる。
社会やコミュニティのなかで生活する人の発言権が奪われ、一部の者だけがその権利を独占するとき、民主主義がぶっ壊れる。
一部の者に都合のいいコミュニティができあがってしまう。
それは独裁国家とかに限った話ではなくて、今の日本社会であっても、発言する機会を奪われたり抑圧されたりしている人たちは大勢いると思う。
言葉にするのが苦手な人もいる
ところで、言葉にするという行為が苦手な人もいる。理由は様々だと思う。
理由は何にせよ、私たちが留意すべきことは、
「言葉にしない=自分の意思がない」とは限らないということだ。
表面的には「沈黙という名の肯定」だったとしても、胸中は「否定」かもしれないし、もっと複雑なことになっているかもしれない。
じゃあ、どうしてその人は言葉にしないのか(あるいはできないのか)、をよく考える必要があるんじゃないだろうか。
たとえば、
自分の意思を伝えたら相手から強く否定・拒絶された経験があるのかもしれない。
言葉を発すること自体を誰かから抑圧されているのかもしれない。
発達の特性上、言葉を使うのが苦手なのかもしれない。
「話したところで何も変わりはしない」と無力感があるのかもしれない。
既存の言葉やカテゴリで説明できない(したくない)のかもしれない。
聞き手は、こうした様々な背景をできるだけ汲み取ってコミュニケーションをすることが大事だと思う。
一方で話す側も、きっと理由はあるにせよ、「察してくれ」ではなく、伝える努力はどうしても必要だ。
伝えることでしか変えられないものもある。
けど必ずしも発話したり書いたりしなくたっていいと思う。
意思は、行動と態度でも示すことができるからだ。時として言葉よりも明確に。
だから、どうにか伝える努力は捨てずにいたい。
言葉は、最も身近にして強い
私たちは、自覚しているべきだと思う。
言葉にするという能力を持っていることがどれだけ恵まれていることか。
その能力を使えるのに使わないことがどれだけもったいないことか。
生まれながらにして秘めているその力は、周りの人や社会を動かすことだってできる。信条・国籍・性別・年齢・貧富を問わず、そんな偉大な能力を潜在的に持っている。
それって、実はとても誇らしいことなんじゃないかと思う。
―ってことを踏まえて、初めの「ひらがなの支援」の話に戻ると、
自分のしている仕事は、実はものすごいことなんじゃないの⁈って思う。
子どもたちが送る言語生活のほんの少しにすぎないけど、とても大きな「少し」だ。
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