自己責任化する身体〜「宿命」は我々に何をもたらすか〜
前回の記事では自分の人生は定まったものであり、変えることができないと考える「宿命感」が蔓延している現代の状況を描写していきました。
今回はその宿命感を抱いた個人がどのようなプロセスを経て宿命感を完全に内面化していくのか、詳しく分析していきたいと思います。
1、「宿命」的世界観の内面化
前回の記事で述べた「宿命感」は
・未来は現在と地続きの世界である
・それ故未来への希望を“諦める”のではなくそもそも“期待しない”
・私の人生は後天的に掴み取るものではなく生来的な能力で決まっている
・それ故私の人生がうまくいかないのは私の努力するという“能力”が足らないからである
などが主な現れとしてあげられる。家庭環境や教育環境、世論の動きなどの外部の影響を受けることによってこれらの価値観が内面化されていくことから始まっていく。
2、自己効力感の消失
続いて発生するのは自己効力感の消失である。なぜなら、社会は私が何をしようとも“変わらない”が故に、私が社会に対して関わりようがないからである。結果として、
社会は変わらない→私は社会に関わることはできない→私は何かを為すことができない
というプロセスで私の認識が変わっていくことになる。
3、批判的思考の消失
その結果発生するのが批判的思考の消失である。例え、何かを疑ったとしてもそれが解消されないとするならばただひたすらその疑問を自分の中で抱えるだけとなる。疑問を抱え続けるのは非常に苦しい営みである。そのため、ただその苦しい状況に陥るくらいならば、考えないようにする方が楽であるのだから疑うという行為は失われていく。
4、社会を私と結びつけられない
続いて起こるのは私が何か思ったこと、感じたことを個人の問題と認識し、その問題に社会が関係するとは思えなくなる状態である。私ではない何かに対して問題との関係性を向けること、それは自ずと疑うという行為に帰結する。外の世界が変わらないとするならば自分の問題として抱えた方が楽である現状において、社会に目を向けることは徒労となるだろう。
5、個人的なことを個人的なこととしてしか抱え込まざるをえない
その結果、私の抱える問題は個人的な問題に収斂する状況となる。個人的なことだと考えている問題を他者に打ち明ける、語るという行為は非常にエネルギーが必要になる。個人的なことである以上、他人にとっては他人事の問題である。関係無いと一蹴されるかもしれない、私がそれを抱えているという状況そのものを否定されるかもしれない。そんな状態の中で他者に打ち明けるということは到底できないだろう。
6、違和感を意識することの意義の消失
結果、そもそも違和感がそこにあったとしても違和感を問題であると考えなくなるだろう。考えたとしてもただ自分がそれを重荷として抱えるのであれば問題である状況を考えない方が都合が良いからである。
7、違和感を身体が感じることを隔絶する
最終的にたどり着くのは、感覚としても違和感を遮断する状態である。どれだけ客観的に理不尽な状況に置かれているとしても、そこに対して自分が違和感を感じていることを遮断し続けるならば、結果として違和感そのものを感じなくなる状況へと帰結していくのである。
このようなプロセスを経て「宿命感」は形成されていく。身体化まだ辿った場合、「宿命感」を抱いているということそのものを忘却する状況になるだろう。ゆえに、自分でこの感覚を脱することは非常に至難の技となる。ではこの状況をどうすれば良いのだろうか。変えるべきなのか、変えないべきなのか。「宿命感」は間違いなのだろうか、それとも別の捉えようがあるのだろうか。次の投稿ではその部分を探っていきたい。
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