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2022 ベトナム・タイの旅⑩ ~福岡から成田~

帰国からの困惑 ~2022年8月10日 福岡から成田~

   福岡空港

 スワンナプーム空港を定刻より20分遅れて1時05分に出発したタイ・ベトジェットエアVZ810便は、25分遅れの8時35分に福岡空港に到着した。タイと日本には二時間の時差があるので五時間半のフライトだったが、一時間くらいしか寝ることはできなかった。座席夜行列車に何度も乗っている私だから座って一夜を過ごすのは多少慣れているが、LCC(格安航空会社)の座席の狭さに落ち着いて過ごせなかったのは事実である。
 やっと着いたという気持ちしか浮かんでこないまま、感傷に耽る余裕もなくボーディングブリッジに出た。八日ぶりの福岡空港国際線ターミナルは静まっていた。そして、バンコク以上に外が蒸し暑いのは通路に充満する湿気で予想できた。
 建物に入ると係員の誘導があり、帰国時の手続きの会場に向かうこととなる。私のスマホは昨夜のうちにタイのキャリアから日本のキャリアにSIMカードを挿し換えてあったが、電源を入れても電波は掴まなかった。タイのキャリアの設定が残っているのが原因か。その時点ではそこまで頭は回っていない。寝不足である。私の腕時計はまだタイ時間のままだから針は六時半を少し回った位置を指している。まだ早朝なのである。
 何やら書類を貰う。帰国時に何かを記入したりするとは聞いていないので戸惑ったが、この紙がこの後の長いコースの入口であるとはまだ気づかなかった。
 まず、帰国時に必要なアプリのチェックがあった。電波が繋がらないので、一昨日ステイタスを緑色にして帰国可能にしてあるアプリの画面が表示されない。係員が「右に行ってください」と私を誘導した。多くの人は左に行っている。対応してくれた係員は男女一人ずつの二人だった。男性スタッフがスマホの操作に強いようで、空港内の無料Wi-Fiに接続してくれ、無事に画面は表示された。その隣のブースにはパソコンが置かれてあり、スマホを持っていない人やアプリの登録を忘れた人はここで手続きをするようだ。画面が確認されると、女性スタッグが先ほど私が受け取った書類に何やらチェックを入れていく。
「タイから帰国ですね?」
「そうです」
「他の国にも行かれましたか?」
 男性がそう尋ねた。ベトナムのイミグレーションではスタンプが省略されていたのでパスポートのページだけでは履歴はわかりにくい。だが、嘘をつく訳にはいかないので正直に答えた。
「ベトナムに行きました」
 男性は少し困った顔を見せた。理由はわかっている。彼が説明に入る前に私は言葉を続けた。
「ベトナムは黄色国ですね」
「ご存知でしたか。そうなのです。なので…」
 話が早いと安堵した様子で男性は簡単に次の説明だけして、私も自分の立場を理解しているからお礼を言って場を後にした。
 今手続きをした部屋は少し広かった。なので、次の部屋で最後の各種手続きがあるのだろうと私は想像した。だが、そんな簡単な話ではないことをすぐに思い知る。
 廊下に出て次に向かった部屋でまた質問があり、また書類を貰った。今となっては何回チェックポイントがあったか忘れてしまったが、それくらい何カ所もお尋ねコーナーがあり、同じような話を手短にして次に回される。それを繰り返した。先ほどから見ているかぎり、担当スタッフは空港のスタッフではなく、この帰国時チェックのために用意された外注スタッフのようだった。最初のチェックポイントで私のスマホに一時的に電波を通してくれた男性とコンビを組んで書類チェックをしていた女性はこの仕事にまだ不慣れなようで、男性からダブルチェックを受けながら説明を聞いて記入していたくらいだ。
 何が言いたいのかというと、この大がかりな帰国時の手続きのために大勢の若い臨時スタッフが雇用されているということだ。十人やそこらではない。その何倍もスタッフがいる。福岡空港でこれだから、成田空港や関西空港など到着便の多い空港はもっと大勢の臨時スタッフを置いていることだろう。
 何カ所目かのチェックポイントで、大学生くらいの男性が私の書類を見て首を捻りながらこう尋ねた。
「ワクチンを打っていないんですか?」
 帰国アプリの登録情報を転記した書類を見ているらしい様子だった。アプリの登録時、ワクチン接種の有無を入力する欄は三回以上打ったかという質問で、回答欄には「はい」か「いいえ」しか選択肢がなかった。私は二回なので「いいえ」を選択することになる。それでアプリ情報ではそういう結果になっている。
「二回打っています」
 私は平坦な声でそう答えた。信じられないものを見たという彼の表情を不遜に感じた訳でもないが、「別に珍しいことでもないだろうに」という思いもあった。
 さて、黄色国とは何か? まだ説明をしていなかった。日本政府は海外渡航者に対して訪問先の国で対応を変える処置を行っている。青色に区分された国はワクチン接種の有無に関わらず、この空港での手続きが終われば自由の身である。だが、黄色や赤色に区分された国は条件付きの帰国となっていた。大抵の国は青色なのだが、なぜかベトナムは黄色に分類されている。黄色はワクチン接種三回なら青色国と同じ扱いだが、二回では自由な身となれない渡航先だったのだ。
 いつ終点があるのかと先の見えないまま廊下を歩いている。困惑から苦笑に気分は変化しているが、次の行程を考えると多少焦れてきている自分がいる。廊下の先に看護師の姿の女性スタッフがいた。この人は臨時という肩書にそぐわない雰囲気がある。本職の人で、どこかの医療機関から派遣されてきたのだろう。私は唾液採取の検査を受けることになり、眠気と空腹で出ない唾液に苦戦しながら、必死に梅干しを思い浮かべて規定量まで頑張った。
 どうやらここが終点なようだった。唾液採取の次に誘導されたのは少し大きいロビーで、そこに置かれた椅子に座ってしばらく待つようにと指示を受けた。飲料水の自販機はあるが、スワンナプーム空港で買った水がまだ残っているのでそちらを飲む。今の気分が欲しているのは水分ではなく食事だ。時計を見ると到着してから一時間が経過していた。
 スマホが電波を捉えているうちに、次に向かう場所への移動方法についてを調べる。私が向かうのは佐賀空港だ。乗るべき交通機関はわかっているが、ここを何時までに出れば佐賀空港に間に合うかを知りたかった。結果、博多駅を10時55分に出る特急がリミットで、地下鉄の福岡空港駅を10時40分に出なくてはいけないようだ。あと一時間ほどだ。ベンチのそばに立っている係員にどれくらい待てばいいのかを尋ねた。
「はっきりとはわかりませんが、40分から50分くらいです」
 国際線ターミナルから地下鉄駅まではバスに乗らなくてはならない。結果が出るまで50分かかるとなると10時20分過ぎとなる。まだ入国手続きもしていない。ここは制限エリア内だった。間に合うかは微妙だった。もし間に合わないようであれば、佐賀空港からのチケットは諦め、福岡空港から当日券で乗るしかない。高額な航空券しか残っていないようであれば新幹線で帰る手もある。いずれにしても二万円を下ることはないだろうから、出費を覚悟した。
 焦っても仕方がない。だからベトナムに行かずにタイだけにしておけば良かったのだとも思わない。何も間違っていないし、ここにいるスタッフも誰もおかしくはない。皆丁寧な対応だ。おかしいことがあるとすれば、帰国用アプリを用意しておきながら、人員も書類もたくさん用意して、作業をややこしくしている日本政府なのではないか。そう思えてきた。
 幸い、このロビーにはトイレがあった。だからこそ、ここを待合会場に選んだのだろう。顔を洗い、歯を磨き、今できることを済ませてひたすら待ち続けた。
 トイレから帰ってくると、私の前後で待っていた数名がいなくなっていた。私の姿に気づいた係員が、私に割り振られていた番号で確認をした。
「検査の結果、問題がなかったので終わりです」
 この先にあるのはもう通常業務のルートだけのようだった。時刻は10時を少し回ったところだ。予定より早く結果が出たという訳だ。

 私は税関のカードを書いていなかった。飛行機の中で配っている時に貰っておけば、検査結果を待っている間に記入できたのにと今更悔やむが、それはこういう事態が機内では予想できていなかったからだ。
 焦ってきているので一枚書き損じた。苦闘している私の姿に、ベテランの雰囲気を漂わせた係員が近づいてきて色々とアドバイスをしてくれた。福岡空港のスタッフは優しい人ばかりである。
 税関には私以外の客はいなかった。パスポートを見た検査官が当然すぎる疑問を口にした。
「神奈川県にお住まいなのに福岡で降りたのですか?」
「はい。このあと佐賀空港で乗り継ぎなのですが、時間が迫っていて」
 検査官は優しい笑みを返して、簡単な質疑応答だけで私を通してくれた。私の荷物が小型リュックサックと財布などが入ったネックケースだけだったからこそだろう。
 入国審査は機械によるチェックである。イミグレーションには案内係しかいないから、これは瞬時に完了した。
 私は小走りで出口を抜け、そのまま外に出た。大きなターミナルではないのが有り難い。バスの乗り場はすぐそこで、バスはすぐに発車した。

   佐賀空港

 国内線ターミナル行きの無料連絡バスは10時16分に発車し、7分で国内線ターミナルに着いた。ここからは迷うことなく佐賀空港まで行ける筈だ。佐賀空港は初めて訪れる空港だが、佐賀駅からバスが出ている。
 2分で地下鉄のホームに到達すると電車はすぐに発車し、10時30分に博多駅に着いた。もう大丈夫だろう。
 券売機で佐賀までの自由席特急券付きの乗車券を購入した。朝から何も食べていない。売店で水とパンを二つ買ってホームに向かう。やってきた長崎行き特急かもめ17号は混んでいた。指定席は満席だとアナウンスがあり、自由席も混んでいる。やっと空いている席を見つけ座ったが、そのような状態なので車内でパンを食べることはできなかった。
 特急かもめは37分で佐賀に着く。鳥栖(とす)で鹿児島本線から長崎本線に入り、ほどなくして高架駅の佐賀に到着した。時刻は11時32分。ここからは空港行きリムジンバスに乗る。
 佐賀は何度も訪れていて泊まったこともあるが、佐賀駅からバスに乗ったことはあっただろうか。記憶が曖昧なので、駅前で警備をやっている人にバスセンターの場所を尋ね、高架下にある佐賀バスセンターにやってきた。高架下にあるちょっとした商店区域の先にあり、空調の効いた待合室も備えていた。カウンターで空港行きの乗り場を確認して切符も購入した。運賃は六百円である。
 バスの発車時刻は12時15分なので、朝から慌ただしかった移動がやっと一段落し、私はバス乗り場の隅で遅い朝食を兼ねた昼食とした。佐賀はいい天気だ。空は青く、街が明るい。次に来た時はもう少しゆっくりと散策をしてみたいと思いながら、走り去る車を眺めつつパンをかじる。
 バスは空港リムジンバスだからハイデッカータイプの床下にトランクのある車で、二列ずつのシートが並ぶ車内はとても快適だった。バスは佐賀駅前から市街地に入り、佐賀城の脇を通っていくつかのバス停で乗客を乗せていき、やがて田園風景の中を走り始めた。佐賀空港は街はずれにあるようだ。
 12時46分、バスは佐賀空港のターミナル前に着いた。地方空港で発着便もさして多くないので建物は小さい。だが、新しい空港なので中はきれいだ。カウンターはANAと春秋航空日本(スプリングジャパン)の二社が入っている。私がこれから乗るのは春秋航空日本である。チェックイン機があり、そこに誘導されたので早速手続きを行ったが、私のスマホは電波がまだ通じていなかった。航空会社からの予約メールの詳細を表示できず、係員による持ち込み手荷物のサイズ計量だけを済ませてカウンターに出向き、出発前に準備した予約票のプリントでチェックインをした。
 二階に上がると保安検査場で、その先は出発ゲートとなっている。実にシンプルな構内だが、売店もお土産店もあるし特に不足はない。中国や台湾に向けた国際路線も発着している国際空港だが、一見しただけではそれを感じないくらいにコンパクトな空港だった。
 成田行きの乗客は百人くらいだろうか。カウンターで受け取った席も窓側だ。後方の席なので隣は誰も来ないだろう。13時40分、成田空港行き702便は定刻に佐賀空港を出発した。
 春秋航空は中国の会社で、日本にLCC路線で参入して新千歳や広島や佐賀に路線を持つ。白に緑の機体は爽やかな外観で、乗り込むとCAさんの制服も緑だった。機内は白を基調にまとめられている。LCCなので飲み物のサービスなどはないが、何かのキャンペーンでステッカーをいただいた。
 佐賀空港は有明海に面した位置にあり、離陸してすぐに窓からは海が見えた。明るい夏の太陽に照らされて海面が銀色に輝いている。いい眺めだなと思いながら見ているうちに深夜便での寝不足が睡魔を呼び、窓側に座っていながら私は寝落ちしていた。

 成田空港第三ターミナルに着いた。時刻は15時35分。機体から階段で地面に下り、通路で建物に向かうと全身に熱気が伝ってくる。成田はベトナムよりもタイよりも空気が暑かった。
 国内線での移動だから成田空港では手続きはない。朝の福岡空港で体験した煩わしさを感じるほどの検問の数々を思い出し、改めて官の作業の回りくどさに首を捻る。今私が歩いている場所からは見えないが、ここ成田空港でも同じことを福岡空港よりも人手をかけて実施しているのだろう。何のための検問なのか。国民の健康を守るための検問という本質と、その実態とのギャップに疑念が湧いているのだ。もっと人手をかけずに迅速に実施できるのではないか。
 成田空港第三ターミナルは他の旅客ターミナルから離れている。ターミナルを出てからも屋根付きの通路を10分ほど歩くのだが、うだるような暑さの成田の通路を歩きながら楽しかった日々を噛み締めている。改めて今回訪れた国の現在の状況を書いてまとめておきたい。
 ベトナムは、パスポートのチェックだけで入出国が可能。十五日以内の観光目的の滞在であればビザも不要。つまり2019年以前と同じ条件で訪問できる。
 タイは、パスポートの他にワクチン接種証明書が必要。ワクチンはタイの指定したメーカーのものを二回以上接種していることが条件。日本で出回っているメーカーは問題ない。ワクチン未接種の人は渡航前72時間以内のPCR検査の陰性証明書が必要。タイは6月までは「タイランドパス」というアプリの登録が入国の必須条件になっていたが、7月からは撤廃されている。
 ベトナムは、ほとんどの人がマスクをしていない。ハノイはバイクの交通量が多く排気ガスが沿道に充満しているため、運転手でマスクをしている人は以前から多かった。その理由でしているらしき人がちらほら見かけられる程度だった。
 タイは、マスクをしている人が多い。電車の車内ではほぼ全員マスクを着用していた。ショッピングモールなどのビルに入る際は入口でアルコール消毒と検温が実施されていて、地下鉄やスカイトレインの駅でも同様。地下鉄の駅は利用者の多い駅などではサーモグラフィーによる体温測定も行われていた。国鉄はフアランポーン駅の入口にアルコール消毒液はあったが強制ではなかった。
 ベトナムもタイも空港内はマスク着用。機内も同様。特にチェックは実施されていなかったが、ルールに則って空港の建物に入る際に誰もがマスクを着けるようにしていた印象。
 欧米人と思われる観光客はベトナムではマスクをしていない人が圧倒的多数で、タイではマスクをしている人を少数ながら見かけた。
 これが観光入国を解禁し始めたタイやベトナムの現況だ。あくまで見たままの感想だが、どちらの国も感染症に対する関心は日本より遥かに低く、すでに「過去のこと」という意識が存在しているように感じられた。
 日本の対応が正しいのか、東南アジアが正しいかの結論を出すにはまだ時期尚早かもしれないが、日本は本来の意味や方向から決め事が逸脱しているのではないかという思いは、帰国してから更に強くなった。
 健康に生活するために必要なのはマスクや消毒だけではないし、検査をすることだけでもない。人の暮らしというものはそんな一元的な行動だけで成立はしない筈だ。ひとつの方向に囚われ過ぎて心身が不健康になったり、何かを止めたことで従来の暮らしが送れなくなってしまうことも不健康な生活なのではないだろうか。そんなことを思いながら、私は東京都内に向かう電車に乗り、東京都内を電車で通過した。翌日からは五日間の待機という政府の定めた規則に沿って生活をする身である。
 待機期間に義務づけられているのは自宅に居ることを報告する短い作業である。これが一日に数回あるらしい。ワクチン二回接種で黄色国ベトナムに行った者に待っている結果であり、渡航前から知っていた事実だが、どこか腑に落ちない思いを抱きながら、常と変わらない都内の電車の車内風景を眺めた。
 
 十日間に亘る東南アジア紀行はここまでだが、私はすでに再訪の日を思い浮かべている。ハノイの古い建物が並んだ市街地。ダナンの美しい海岸。バンコクのまったりした都会風景と下町風景。また会える頃には、人々の暮らしも正常になっていると良いなと願う。ベトナムも、タイも、そして日本も。

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