平成旅情列車⑩ 小さな温泉街の温もり
※写真は庄内の海岸
小さな温泉街の温もり
非日常の旅
冬の鉄道旅で難しい部分は、列車を降りたあとの行動だ。割と暖かい地域ならまだいいが、雪国ともなると駅前に雪が積もって歩くのが大変で、目的地があったとしても本来の所要時間の倍を要して一苦労させられる。
それでも冬は北に向かう機会が多い。雪が降る中を暮らす人たちの苦労を本質から理解するのは太平洋側で暮らす人間には難しいかもしれないが、旅とは非日常とのふれあいにあるので、日常とは違う景色が見たくなるものだ。東日本の地方に行くと、駅の旅行パンフレットの行先に東京が多いのも、そういうことだろうと思う。
非日常といえば、あまり人がやらないコースを実践してみるのも旅である。たとえば、夜行列車で出発して次の日の夜にその夜行列車の折り返し便で帰ってくるというコース。しかも、旅をそこで終わらせずに夜行列車から降りたあとも一日旅をして帰るというコースという、宿に泊まらない二泊二日旅である。
平成六年(1994)の十二月、青春18きっぷを握りながら私は山形県に来ていた。当時の私はJR全線に乗ろうと決意をした頃で、山形県のローカル線に乗るために、新宿発村上行きの夜行快速ムーンライトで出発し、村上の手前にある坂町から米坂(よねさか)線で米沢、米沢から山形に出て左沢(あてらざわ)線に乗ってから新庄、新庄から陸羽西(りくうさい)線というコースを通って山形県を横に縦にと移動した。
そして、夜は村上から新宿行き夜行快速ムーンライトに乗る。
松尾芭蕉が「奥の細道」で辿った最上(もがみ)川に沿って走るローカル線陸羽西線の列車を降りた私は、「ひまわりの町」という看板が掲げられた余目(あまるめ)駅前に降り立った。列車が着いた時刻は15時26分。陽は早くも傾き始め、日本海の方から吹きつける風が冷たい。ひっそりとした駅前通りには歩く人も少ない。もとより駅前通りと呼べるほど商店もなく、民家が建ち並ぶ駅前である。
寒さで早々に散策を切り上げてきた私は、新潟県に向かって羽越(うえつ)本線の鈍行列車で移動を始めた。
15時56分に余目を出た気動車は県境を目指して走っていく。薄暗くなってきた窓外は家の灯りも少ない。このあたりは庄内平野であり田んぼが多いからだろうか。
車内も空いている。僅かながらの高校生たちを乗せて列車はひた走る。その高校生たちは新潟県との県境にほど近い「あつみ温泉」という駅で皆降りた。
あつみ温泉
瓦屋根をのせた小さな平屋の駅舎に似つかわしく、小さな駅前ロータリーにやや小振りな車体のバスがやってきた。列車の到着時刻16時55分に合わせて17時03分発車という接続のいいバスは、駅名になっている温泉街を目指す。
バスには私の他に数名の女子高生が乗っていたが、暗闇を10分ほど走り温泉街に入ると次々と降りていった。私も温泉街で降りるつもりで財布の中身を覗いた。しかし、財布に硬貨がほとんど入っておらず、千円札もない。
ローカルバスは乗車距離に応じて運賃が決定する。支払いは下車の際に運転手に行う仕組みだ。バスに乗る前に小銭の確認を怠った私のミスである。
温泉街に入ってからバス停が短い間隔で次々と現れ、乗客は次々と降りていったから、全員が降りたタイミングで私は降車ボタンを押した。窓外は再び灯りがなく暗くなってきたが、降りた所から温泉街まで歩き、途中で良さげな浴場を見つけて入るつもりである。
17時14分、月見橋という風流な名前のバス停でバスは停まった。運賃は190円。私は恐縮しながら事情を説明し、一万円札を出した。運転手は驚き、困惑しながらも鞄の中を確認して千円札を十枚調達してくれた。
宅地のはずれのようなバス停から灯りに向かって歩き、ほどなく温泉街に入った。細い車道に旅館が点在している。いわゆる観光ホテルが悠然と構えているような温泉街ではなく、寒空の下を歩く人もほとんどいない。
だが、冬の夜道に合う奥ゆかしい旅情は感じる。木枯らしが似合う町並みと言っては失礼ではあるけれど、一言で言うならば、そのような静かな町なのである。
温泉街と言っても景色自体は住宅地みたいな所でもあるので、片側一車線の細い通りには旅館だけでなく生活感漂う商店も並ぶ。通りに立つ酒屋で共同浴場の所在を尋ねた。共同浴場はすぐそばの横道にあった。
木製の引戸を開けると番台はなく、代わりに料金箱が置いてあった。地元住民以外は「管理協力金」として二百円を入れる仕組みとなっている。
浴室は広くなく、十人も来たら窮屈になりそうな室内だが、ほどよく熱い湯が寒い風に晒されてきた身に染み渡る。基本的には地元の人向けの共同浴場で観光客は想定していないから内装はくたびれているが、そのくらいの鄙びた建物の方が小さな温泉街にふさわしく、そんな簡素な構えが好ましい。静かな町湯は、身だけではなく心まで温かくしてくれるようだ。
温泉から上がってから、先ほど共同浴場の場所を教えてくれた酒屋に挨拶に行った。店のおばさんの話では、以前は入浴料は一律無料だったが維持が大変なため、地元の人以外からはお金をとるようにしたという。地元の人向けな小柄な温泉なのだからそれで良い。私のような旅の者はまさに「お客さん」なのだから。
駅までのバスを待つ間、もう少し温泉街を眺めてみた。相変わらず歩いている人は少なく、道を照らす街灯もやや暗いが、不思議と寂しさは漂っていない。木枯らしよりも粉雪が似合いそうな町だと私は思い直していた。
18時05分にやってきた駅に向かうバスは路線バス型ではなく観光バス型で、ゆあったりとした座席でくつろいだが、バスは6分で駅に着いた。あつみ温泉駅からは18時33分の村上行きに乗って新潟県を目指す。列車の車内で飲むつもりで先ほどの酒屋で買ったワンカップサイズのワインを持って、夜の駅の小さな待合室で列車を待つ。村上までは鈍行だと55分の距離となる。
途中下車の小さな温泉旅となったが、小さな温泉街での温泉入浴はいいリフレッシュになった。これぞ非日常の旅だ。
ちなみに「あつみ温泉」の「あつみ」は「温海」と書く。観光客が読みやすいように駅名は平仮名にしたのだそうだ。