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短編小説「夢の残滓」

振り返れば、夢という言葉は遠い幻のよう。
かつて胸を焦がした情熱は、今や微かな残り火となり、灰色の日々の中に埋もれていた。

高橋遼は、端的に言って、どこにでもいる三十代のサラリーマンだった。大学を卒業し、大手不効産会社に就職して、結婚して、新居を構えてーーー。

世間から見れば「安定」と評されるものだが、本人にとってはどこか味気ない日々に感じられていた。

朝起きて、電車に揺られ、会社のオフィスでエクセルやらパワポやらの資料を作り、同僚と形式的な挨拶を交わし、帰宅する。夕食を済ませた後、テレビをぼんやりと眺めていると、いつしか眠りに落ちる。

そんな毎日を繰り返すうちに、いつからか心の奥底に小さな虚しさが生まれているのを感じた。それは、かつて大学時代に夢中になっていた「脚本家」への想いから来ている。

自分には無理だと封印してしまった「夢の残滓」だ。

妻の咲希とは結婚して三年になる。彼女はフリーランスのデザイナーとして自宅で仕事をしている。明るく、いつも前向きで、遼が仕事の愚痴をこぼしても笑顔で受け決めてくれる。

つらい時には、「いつも遅くまで、よくやってると思うよ」 という言葉に救われることも多かった。

ある夜のことだ。

残業帰りに少し遠回りをしてみた。人通りの少ない路地を歩いていると、不意に視界の隅に古びた看板が映った。

「夢を売る店」

看板はひび割れた木枠に囲まれて、文字も擦れていた。くすんだネオンが薄暗闇にかすかな光を投げかけていた。その光は均一ではなく、時折ちらつく。

遼は立ち止まって、その不思議な雰囲気に吸い寄せられるようにして看板を見つめた。

なぜか気になって、彼は扉を押してみる。

重い音を立てて開いたその先には、柔らかなランプの光に包まれた空間が広がっていた。部屋全体にはかすかな木の香りが漂い、棚には古書や奇妙なオブジェが所狭しと並んでいる。どれも趣があって、その場に深い時間が積み重なっているかのよう。

部屋の奥には、銀髪の老紳士が座っていた。
年齢は六十代ほどだろうか。シワの刻まれた顔には深い静けさと威厳があり、目の奥にはどこか遠くを見つめるような光が宿っていた。

「いらっしゃい」
老紳士の落ち着いた声が店内に響いた。遼がしどろもどろにあいさつを返すと、彼は静かに微笑む。

「そうか、君は脚本家になりたかったんだね?」
遼は息を呑む。そんなこと、誰にも話していないはずなのに。ましてや初対面の老人がなぜ。

彼は、遼の心を見透かすように、柔らかい視線を向けてくる。
「ここはね、失われた夢を売る店なんだ。昔諦めてしまった夢を、もう一度追うための手助けをしている」そう言って老紳士は一呼吸置くと、「ただし、代償が必要になるがね」と告げる。

「代償……ですか」 穏やかではない言葉に対して遼が聞き返すと、老紳士はさらりと答えた。

「そう。『鉄は熱いうちに打て』とはよく言ったもので、夢を追うには一時の『情熱』が必要だ。君がその胸にかつて抱いていた、その火は既に消えかかっている」
遼はちくりと胸が痛むのを感じた。自覚はしていても、改めて突きつけられるのは痛みが伴う。

「だが、私の店では『情熱』を君に再度与えることができる。あのとき君が持っていた熱量を再び手に入れることができるんだ。もう一度夢を本気で追えるだけの熱意を」
淡々と告げる老紳士の言葉に、遼は少し興奮を覚えた。
もしも、今からでも夢を目指すことが出来るならーーー。

「ただし」と老紳士は続ける。「その代わりに何かを差し出さなければならない。君の場合、そうだな…、安定した生活の一部…たとえば仕事の評価や、日常の時間、あるいは家族との円満な関係の一部かもしれない。もちろん、すべてを失うとは限らないが、多少なりとも何かを手放すことになる」

遼はその言葉を聞いた瞬間、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。だが、同時に心の奥で、どこか懐かしい炎が小さく灯った。それは大学時代、初めて脚本を書いたときの高揚に、よく似ていた。


翌日から、遼は仕事中にもその店のことを考えてしまっていた。大学時代にかつて持っていた熱量で、書きかけのまま放り出した脚本を、再び書き直してみたい。

けれど、もう三十代だし今から夢を追うのは遅い。家族や、仕事、現実を捨てるわけにもいかない。それでも僅かでも、ほんの1%でも可能性があるのならば、すがりたい気持ちもあった。そんな逡巡を抱えつつ一週間を過ごし、結局、彼は再び路地裏を訪れた。

「やはり来たのだね」
老紳士は契約書のような紙を取り出しながら、言った。

「もし夢を追いたいなら、当時の熱意を取り戻したいなら、この書類にサインするといい」
代償という言葉が言葉が頭をよぎりながら、遼は迷いを振り切るように契約書に名前を書き込んでいた。


その夜、自宅の机の奥から、大学時代のノートを取り出す。そこには殴り書きで書かれた未熟なプロットが残っていた。

少し懐かしい思いと同時に、久しぶりの執筆への意欲を感じた。それは正しく大学当時の遼が持っていた、迸るような、向こう見ずな「熱」だった。

思わずボールペンを握った。プロットを読みながら、新しいアイデアを練り始める。あっという間に時間が過ぎていく。気付けば、いつもの就寝時間はとうに過ぎていた。

そうして完成させた新たな構想は「大学時代の友情」をテーマにしたものだった。サークルで一緒に脚本を書いた仲間との思い出がベースにある。それは懐かしい過去を掘り返す作業でもあった。

しかし、脚本への熱は胸の内から沸いて来る自然なものではなく、無理やり外から調整し、捻る蛇口を変えたに過ぎない。熱量の総和が同じだとするならば、失われる熱があるのも道理だった。


現実との軋轢はすぐに訪れた。
仕事中、脚本のことばかり考えてしまい、重要顧客から来たメールを見落として上司に叱られる。何とか取り戻そうと残業を重ねるが、集中力は散漫で、さらにミスを重ねてしまう。同僚からも心配そうに「高橋、大丈夫か? なんか最近、らしくないぞ」と声を掛けられる。

遼は曖昧な笑顔でごまかしたが、胸の奥では板挟みに苦しんでいた。
家に帰ってからも寝る間も惜しんで脚本づくりに没頭し、咲希の就寝時間はとっくに過ぎていることが増えた。妻の表情からは少しずつ不安そうな影が差している。
代償という言葉が、脳裏をチラつく。

ある晩のこと。ついに咲希が静かな口調で言った。

「ねえ、最近遅くまでずっと何をしてるの? 私に言えないこと?」
遼は躊躇した。が、やがて観念したように口を開く。

「ごめん……実は、大学のときに書いてた脚本を、また書きたくなって。夢だったんだ。今さらなのかもしれないけど、諦められなくて」
咲希は一瞬驚いた顔をしたが、それから少し寂しげに笑った。

「どうして隠してたの? 私は、あなたが本気でやりたいって思うなら応援するよ」
遼は、その言葉に少しだけ救われる。

それでも状況は好転するわけでもなく、「代償」を肌で感じる状況が続いていた。
仕事での評価は下がりつつあり、課長からは暗に「このままだと昇進は厳しい」と言われる。咲希との会話は前のように増えたようで、彼女の本音までは掴みきれない。そんな不安定な日々が続いていた。

夢の方も、熱意だけでは上手くいかない現実が待っていた。
やっとの思いで書き上げた脚本を、コンテストに応募してみたが、結果は不採用だった。審査員からのコメントには「ストーリーに深みが足りない」という辛辣な評価が書かれていた。
それは、かつて大学時代に突きつけられた批評と同じであった。これだけ頑張って、いろいろな犠牲を伴っても、結局は何も変われていないのではないか――その思いに押し潰しそうになる。

「夢は過去に置いたまま、美化しておいた方が良かったのかな」
結果を見つめながら、遼はやるせなさを感じていた。

夜遅く、一人でコンビニ帰りに路地裏を歩くと、またあの店の看板が目に入った。暗闇の中で明滅する「夢を売る店」の文字が、どこか悲しげにも見える。店のドアを開けると、老紳士が相変わらずカウンターの奥に座っていた。

「どうだい、夢を追う気分は」

「苦しいですよ……仕事も、家庭も、何もうまくいかなくて。このままだと夢もかなわない」遼は想いを吐き出す。「まだ何も手に入れてないのに、ただただ失ってばかりのような気がする」
老紳士は静かに頷き、言葉を選ぶように口を開く。

「君は、『過去の夢の続き』をなぞっているだけなのかもしれないね。昔に戻りたいために、脚本を書いているんじゃないか?」
その言葉が遼の胸を刺した。確かに、学生の頃の自分に戻ろうとしていたのかもしれない。あの頃は純粋に脚本を書き、観客の反応に喜んでいた。
けれど今は、仕事も、家庭も、自分の人生の一部なのだ。それを犠牲にするのではなく、両立したときに“今の自分”が描ける物語があるのではないか――そう思うと、曇っていた視界に少しだけ光が差し込むような気がした。

「君が持っている『今現在の夢』が何なのか。何のために夢を追うのか考えてみるんだ」
老紳士は少しだけ柔らかい笑顔で、そう付け加えた。

遼は帰宅すると、咲希と向き合った。彼女は真剣な眼差しで聞いてくれる。

「……前のコンテストは駄目だったけど、もう少しだけ頑張ってみたいんだ。社会経験を積んだ今だからこそ書ける脚本がきっとあると思う」
咲希は微笑み、彼の手を握りしめた。

「うん。私も、あなたが本当に書きたい物語なら読みたい。協力するから、無理だけはしないでね」

そこからの日々も、決して楽ではなかった。会社では依然として厳しい視線が向けられていた。そんな中で、残業を減らして脚本に費やす時間を作るのは難しかった。
けれど、咲希に相談して家事を分担し、休日には彼女に意見をもらいながら脚本を書き進める。一歩一歩、遅いペースでも、遼は自分なりに「夢を追う」生活を形作っていった。

数カ月後、彼の脚本が小さな新人賞の最終候補に残った。
それは世間的には大きなものではなかったが、彼にとっては確かな前進だった。「妻との距離を描いた家族の物語」というテーマが、審査員からは「等身大のリアリティがあり、深みがある」と評された。自分の置かれた現実を見据えることが、新しい物語に繋がったのだ。

喜びを胸に、遼はあの「夢を売る店」にお礼を言いに行こうと考えた。路地裏を探し回るが、看板はどこにも見当たらない。雑居ビルが建ち並ぶ暗い通りには、あの古い扉も老紳士の姿もなかった。まるで初めから存在しなかったかのように、夜の闇だけが静かに広がっている。

もしかしたら、本当に最初から幻に過ぎなかったのかもしれない。でも、遼の中ではあの老紳士の言葉は色濃く生きている。
「脚本家になる夢」はまだ叶っていない。だが、ライフワークとして「脚本を書き続ける夢」は叶いつつあった。
それは今の遼の夢。
かつての夢の残滓の、先にある夢だ。



あとがき︰
最後まで読んで頂きありがとうございます!最後、上手いことまとめるのって難しいなと感じています。

あと今回はアイキャッチのAIイラストがあまり小説と関係なかったので、あとがきとして入れておきます。
柔らかいテイストとノスタルジックさに拘って作ってみました。


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Alpaka
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