ものづくりの先にあるもの
本や映画、人の言葉に感動することはよくあるが、モノに対して心を大きく動かされることはあまりないような気がする。モノを丁重に扱っていないのかもしれず、気づかないうちに私も大量消費社会の病にかかっているのかもしれない。そんな私が先日、「道具」に大変感動したので聴いてもらいたい。
私はもともと物持ちが良く、社会人になって初めて一人暮らしをした時に購入した100均のキッチン用品は、まだまだ現役のものも多い。先日お玉の柄が金属疲労でポキっと折れて、感謝を込めてさよならをした時に数えてみたらもう25年も使っていたことに気づいた。呆れるを通り越して自分自身に感心したものだ。いまも使っている木ベラには付喪神が宿っているのではないか。
しかし、まだまだ若輩者と思ってはいても実際は大人の階段を1段1段上っており(肌年齢なんかは2段飛ばしくらいで上っているんじゃないか)、ここ数年、私にも心境の変化があった。状況にもよるが、100均やファストファッション、安い低品質の食材からはそろそろ卒業し、もう少しだけ生活水準を上げてもいいのではないかと思っていた。なにも高いものを買いたいわけではない。自分を丁寧に扱いたい、私の心が豊かになるモノを選びたい、それだけだ。
先日のこと、何かの記事で貝印株式会社のピーラーについて書かれた記事を読んだ。記事によれば「このピーラーでにんじんを剥いた後、面が鉱石/宝石のように輝いている」とあった。宝石なんて、いやいや、大袈裟なー(ポチッ)。
私は貝印さんの社員でもなければアンバサダーでもない。我が家には、それこそ100均出身のピーラーが現役で働いており、さしあたって必要なわけではなかったが、現役の10倍とは言え1,000円ちょっとのお値段設定で、野菜が宝石になると聞いたら、試してみたいのが人の性(さが)と言うものだろう。
かくしてボタン一つで我が家にやってきたこちらの銀色のニクい奴。現役の100均ピーラーに何か悪いな…という罪悪感で、届いてもすぐに交代させることができなかった。「老兵は死なず、ただ去り行くのみ」という言葉が頭をよぎり、さらには会社においても優秀な若者が入ってきたら積極的に登用しないといけないな…などと余計なことまで考えた。
そう、優秀な若手を使いこなせてこその管理職(キッチンの)。新入りピーラーの初仕事はポテサラ用のじゃがいもを丸裸にしてもらうことだった。刮目せよ、彼の初仕事を。
感動した…。これが伝説の「野菜が宝石」。ゴツゴツの表面でもツカえることなく、するりと滑る。私は切れ味のよい刃を心と舌先に忍ばせているが、彼の刃もなかなかのもの…。(このじゃがいもはその後、茹でて潰される運命だったのでキラキラの無駄遣い)
この体験は、野菜の皮むきという料理のプロセスの中では個人的にそれほど楽しくない作業に一種のエンターテイメント性ももたらし、私の人生をちょっとだけ豊かにしてくれた。この商品を作り世に送り出した方は、商品の提供のその先に、誰がどんな体験をすることになるのかまでを見据えているのだろうと感じた。日頃の消費社会では、モノがモノで終わってしまい私の心まで届かない。でも私は常に心が動くことを渇望していて、そんな私のような人間がいることをきっと知っていてくれているのだ。私も自分の仕事においても、人にかける言葉も、こうして書く文章も、その先の人の顔まで想像しながら向き合っていきたいなと、とても前向きな気持ちになった。そして貝印さんのファンになったので、次はスライサーがほしい。