棚橋弘至 the movie 恩讐の彼方に ~アントニオ猪木をさがして の感想~
先日「アントニオ猪木をさがして」を見て来ました。
そういう映画をやる。という事だけ知っていて、特に何の予習というか、今の新日本プロレスの情報とか、どういう映画になるのかとか、関連するプロモーションとか一切見ず、ただ映画だけを見に行きました。
こんな感想を見る前に、まずは見に行こう!!!(挨拶)
興味のある映画に対する態度って全部そうだと思います。
何も見ないで、劇場にいこう。話はそれからだ!(ストロングスタイル)
じゃあ、これからネタバレとかもしていくから。
読むなよ。読むなよ?なぁ。ほぉんとだぞ?ほぉんとだぞ…(長州スタイル)
僕と新日本との関わり
今回の映画の感想を語る上で、その人の属性、特に新日本プロレス、アントニオ猪木、猪木的な何かとの関わり方というのは、表明しておいた方がフェアかなと個人的に思うので、書いておきます。
物心ついてから1994年まではテレビ放送見てて、猪木は好きというか、だいぶおじちゃんになってたけど、長州に後ろからラリアットされてフォールされた時は長州は汚いと思ってた程度には肩入れしてましたが、まぁ直撃では正直なく、UWFが好きで、闘魂三銃士で言えば武藤が好きみたいな感じでした。そこにそこまでのイズムもまぁないというか、ブリザードスープレックスの飯塚が好きやったんや……(2010年代にまた見るようになったら「ああなってた」ので驚きましたねw)
そんで95年以降は毎週のように情報を追うのをやめて(進学を機に生活から外れていった)、ゼロ年代は随分と悲惨な状況をネット掲示板なんかで見て「はー、今誰がおるんやろ?」みたいになり、10年代は何となく見てみたらオカダカズチカの凱旋帰国で、それから2~3年?は見てたけども、また疎遠になって。という程度でした。
そうした中で、どうも新しい新日ってそんなにやってる事を好きになれない。というような感じで、棚橋弘至選手(この先敬称略したりしなかったりしますが、記述のブレであり他意はないです)についても「猪木的な呪縛から会社を立ち直らせたのはマジで本当に凄い」と思いつつも、なんかこう、すごいけど、俺はいいや……みたいな感じの気持ちで、それ以降の選手も、リング上でやっとる事はどうみても大変なんだけど、自分がそういうのにノレないのもあって、まぁ、はい……みたいな風に見てた、そんな程度のアレです。
映画の感想(私個人が映画を観てそう思った以上の事ではないです)
(内容の詳細な話はしませんがネタバレと言われるものにはなると思います。僕は「現在進行形の何かに対して新鮮な感想を得られる」という事が現代を生きている人間の証だと思っており、この映画をスクリーンで見るつもりで、でもまだ見てない人は私の感想を読むのは避けた方がいいかも知れません。見方を固定しちゃうかも知れないので……)
「棚橋弘至にとってのアントニオ猪木~新日本プロレス~そして現在と未来 を描く映画」だったなと思い至りました。
とても、良かった。僕にとっては。
2週目3週目のどっちか忘れたけど、新日本プロレス旗揚げ興行のポスター(当然だけど猪木が写ってる)をオマージュした、棚橋弘至の周年興行ポスターのポストカードが特典で貰えるんですよね。それ、欲しくなったもの。(前述の通り、僕は棚橋弘至選手、それ以降の新日本というものにそこまでロック出来てない感じがあります)
映画を観終わった後、その、エンディングロールで炎のファイターと、猪木の色んな素晴らしい写真、映像が流れ、そんで最後はダーが流れて、となり、アントニオ猪木だなぁと終わるのですが、劇場を出て一緒に観てた嫁様と話した事はほぼ全部棚橋弘至についてでした。
「あれ、アントニオ猪木を描きたいというよりは、棚橋弘至を描きたかった映画なんじゃないか」
「人の心に何か引っ付いて、刻まれて離れない事やモノ、人への思いを "愛" とするなら、アレは完全に愛を描いた映画だった」
「新日本プロレス50周年企画という建付けを考えると、新日本の歴史の中で、勿論アントニオ猪木と、しかしその後明確に猪木…猪木的なものを否定して、その呪いを新日本から取り除いた大功労者棚橋弘至を、間違いなく新日本の歴史の中に刻み込む、その為の映画だったのでは……」
とか、そういうような事を話してました。(主に俺が)
そう思った要因というか、そうした視点からの映画の構造
アントニオ猪木をさがして、というタイトルから、何となく「猪木の足跡や功績を並べて見せて、多様な人にインタビューをして、でてきた言葉、昔はこういう事もあったとかそういうミニドラマ、名言、そういうもんを通じて、人それぞれにアントニオ猪木があり、それは、あなたの中にもあるのです」みたいな「あ、はい(そらそうよ)」というような映画にしてくんやろなぁと途中まで思っていたんですけども、多分、そういう風に思ってもよく作っていながら、ちょっと「仕掛け」というか、「こっちが本丸ですよ」という誘いがあるように見えました。
アントニオ猪木を巡るインタビューの対象
藤波辰爾さん、藤原喜明さん:猪木って当然あの頃苦労してたし、いろんなものと戦ってた的な話。
講談師さん:理解がなかなか難しい功績部分を語る。一般ファンから見た猪木像。
原悦生さん、安田顕さん:猪木のリングを離れた実像、リング外の圧倒的功績の紹介を語る。人間猪木寛治の凄さを語る。
オカダカズチカさん:アントニオ猪木のプロレスラーとしての功績、デカさ、その凄さへの遥かな憧れ。(2020年、唐突にマイクで「アントニオ猪木!」と叫んだりもしている)
これらはまぁ想像できるというか、想像を超えない話に終始するんですね。そうだよなぁ。凄かったよなぁ。みたいな。
「あ、色んな人に猪木の像があり、俺の中にも、見てるみんなにもそれぞれあるだろう。みたいなのを、前述の通り表現したいんかな」みたいな。
猪木問答~棚橋海野問答
で、棚橋弘至さん:アントニオ猪木との直接のやり取り、著名な接点(猪木問答)での棚橋視点。付随して海野翔太さんは棚橋弘至への憧れ、他(これが大事)
ここが凄かった。
凄くざっくり言うと、棚橋弘至さんは猪木問答で猪木から何に怒っている?と問われて、質問には答えず、「俺はこの新日本のリングでプロレスをやりたい!」と答える。(当時の状況:猪木は新日本以外の総合格闘技興行のプロデュースにちょいちょいパワーを出しており、新日もその煽りを受けて結構悲惨な目に遭ってて、肝心のプロレスはって言うと世間的に関心も薄れて厳しい雰囲気だった)
※その後、所謂闘魂注入が開始され、順番に棚橋もビンタされるが一切たじろがず、ただ猪木を見続ける。
棚橋さんはその後悲惨極まる新日本プロレスの中でエースとして興行を盛り上げ、全方位的な愛を振りまいて新日本を維持……復活に至るまで道筋を作り、見事に再興させた。その後の新日本はというとご存じの通りだ。凄い。
そんな棚橋選手に憧れた、一切猪木を通ってない若い世代が海野翔太選手で、作中、棚橋選手と恐らくは札幌であろう馴染みの料理店で大将と話す。
棚橋「海野、お前は何に怒っている?」(※少し声真似しつつ)
この後の海野選手の、それはそうだろうという回答を聴いて、棚橋選手はフッと表情を閉じる。(環境音も一切消える)
猪木に呪われていた棚橋、怒り抗った棚橋、呪われていた自分を認め、そうした自分を赦す棚橋
その後、棚橋選手が有田哲平さんと話すシークエンスの後半があり、自らが過去取り外させた「新日道場のアントニオ猪木パネル」を、もう一度道場のリングを見下ろす場所に……いう場面があり、そこで、戻すというところも「よし!戻しましょう!」「アッハッハ」みたいにスッといくわけでなく、だいぶ棚橋さんサイドに慮った見方にはなるけど、こう、ギリギリ、決して「感動」みたいなもんに流されず、彼自身が「許容」をした。ように見えた。
自らが、「猪木の呪縛に囚われた新日本」をどうにかしようと身を粉にして、その呪いから新日本を救い、会社が軌道に乗り、そして今、漸く(猪木に、猪木の何かに囚われていた自分に)向き合う…… という。
その一連の流れの分量が、他のインタビューやミニドラマ、そんなの知ってるよ(とどうしても見えてしまう)エピソードトーク(いや、十二分に勝ちの在る話なんですよ!)の数々を、完全に圧倒しているし、何ならこれを際立たせるために他のパートの配分があったんじゃないかと、そう感じた。
プロレスの試合のような映画の作り
それらの流れがひとまとまり終わり、話は現役引退後の政治家アントニオ猪木の行動(例のイラク渡航や、カストロとの会談だ)、これは本当に凄い話で、写真なんかも素晴らしい顔をされている。
人間猪木の魅力を圧倒的に伝えて、エンディング。
炎のファイター、ダー
小さい技(足跡探し)から入り
玄人好みのやり取り(藤原藤波パート)、
誰にでもわかるやり取り(講談、ドラマパート)
レスラーの強さを見せる(原安田パート)
大技のやり取り、凄み(棚橋オカダ海野有田パート)
フィニッシュ(原安田猪木政治家パート)
炎のファイター、ダー
本当に見せたかったものは何か?
それは受け取る人が受け取っていいと思うし、そこを強要はしない作りになっているようにも感じた(ドラマパートが好きな人も居れば、これらの試合≒映画そのものを嫌う人もいるだろう。もっと玄人好みの、もっと深く猪木を掘り下げて……だけを見たかったとか)。
自分は棚橋オカダ海野有田パートの流れが一番見せたかったものじゃないかなと感じ、そして全体としてプロレスの試合のような、見たいものだけ見せますというものではない、圧倒的大多数の、本当に雑多な人に向けた、映画だったなと感じた。
自分からするとこの映画は、アントニオ猪木というレンズを通じて棚橋弘至という人間の今を、アントニオ猪木を媒介として抉り出し、そして救われる……自分で自分を赦す様を映した、救済の映画だとすら思ったし、まぁそうじゃない人もいっぱいいると思う。
でも、多分それこそ、「アントニオ猪木が受け取り手の数だけある」ように、この映画も受け取り手の数だけあるんだと思う(そのように見ていいように作ってるんじゃないかな……?)
ただ、やっぱりその人が、その人自身の立ち位置というか認識で、どういう風に見るか。それを俺は知りたいというか、平たく言うと、新鮮な悲鳴を聞きたいみたいな気持ちがある。趣味悪いね。時間かかんねぇ(唐突の長州)
だから、ここまで書いておいてなんだけど、やっぱり劇場に行って欲しい。
そんで、その感想を、誰の参考書も見ない状態の感想を、どっかに書き残して欲しい。
そんな風に毎回映画の感想書くたび行ってますけど、今回もそうでした。
散文的、文学的な味わいがある。そのように感じました。
僕の新鮮な時の感想は以下のツリーに記載しております。
もしよかったらこちらも読んでください。
※観た当日のツリー
翌日のツリー
決して万民に薦めるものでは多分ないと思うのですが、僕にとってはエモかったです。それは、僕が認知行動療法とかやった事があり、自分を赦す的な話に本当に弱いっていうのはあると思います。
ではまた!!