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猛暑の中の、高笑いーセックス・ピストルズ

 うーむ‥‥。まさに溶鉱炉の如しである。これじゃあまともに頭なんぞ働くわけがない。来年高校とか大学の入試を控えている人は大変だよなあ、とのんきに汗を垂らしながら思ってしまった。そういえば私も中学3年、高校3年、それぞれの夏休み中は受験勉強のマネゴトをさせられたけれど、嫌だった。何故この糞暑いのに、こんな糞勉強をやらなけりゃならんのだと隠れてブーブー言っていた。隠れてほざいていたのは何故か。学校当局に知れたら即、停学もしくは退学処分になったからである。まるでどこぞの国のようであるが、80年代私の通っていた学校はこんな案配であったのだ。
 しかし、当時だって暑かったが、今ほどではなかった。今は暑い、というより、焦げる、と言った方がしっくりくる。当時と比べて最高気温は平均して3℃は高いだろう。空気が肌にキツイ。痛みすら感じる。冷房なしではとてもいられない。もはや人が住める域を超えているという危機感すら持つ。
 夏は嫌いである。と、この間も書いて、又繰り返しかよ、と言われそうだが、この嫌いな夏になると、ここ数年、決まって思い出す。
「あの蛍光色を買ったの、こんな時期だったよなあ」
 嫌いな夏に出会った。ある意味、皮肉だ。



この頃は、発売元がビクターだったのだね。まもなく東芝EMIになる、その直前だったはずである



襷に載っていた『ザ・グレイト・ロックンロール・スィンドル』を、手に入れたいと思ったときにはすでに廃盤だと言われたのは、高校卒業の年だったであろうか。結局輸入盤で手に入れた

 高校2年の、良く晴れた夏休みの最中である。毎年恒例の、学校での忌々しい補講・特講のない日だった。たぶん8月の初めだったろうと思う。当時の私はドアーズにのめっていたのがようやく沈静化し、じゃあ次は、とレコードを物色し始めていたところであった。まだパンクは全く知らなかった。いや、パンクという音楽があることは知っていた。セックス・ピストルズというバンドも、名前だけなら知っていた。この名を、私はどこで知ったのであろうか。怪しい記憶をたどっていくと、高校に入学したばかりの頃に読んだ雑誌の中にあったのではなかったか。ザ・スターリンの『虫』をレヴューしたのと同じ雑誌だった。だったのだが、雑誌名は全く思い出せない。ただその記事に「セックス・ピストルズの解散と共にパンクは終わったと言われる」という文言があったことは、何故か脳内に刻まれている。1つの音楽を終わらせたほどにインパクトのあるバンドなのかと、何もわからない私は興味をかき立てられつつ、そのまま1年余りをピストルズのレコードを手に入れることなく過ごした。理由は簡単である。他のレコードに目移りしていたこと、買いたくてもフトコロがあまりに寂しかったことである。同じことを何度も、と言うなかれ。高校生はカネがないのは相場が決まっている。
 そんな高校2年の夏休み。母が突然、私に小遣いをくれたのである。レコード1枚分買っておつりがくる額であった。既にこの月の小遣いはもらっている。何があったんだ?母は呆けたのか?
「なんだいこれ?」
「いいのよ。たまにはいいじゃないの」
 母はやけに機嫌が良い。気味が悪くって、私はそれ以上何も言わず、黙って受け取った。下手なことを言って機嫌を損ねられたら前言撤回とばかりにせっかく手に入れたカネを撤収される恐れがあったからである。母は私のことを気分屋だと言ってしょっちゅう難じていたが、ご本尊だって負けてはいなかったのだ。ただ悲しや、その自覚がなかった。病人は往々にして病識がないのと同じようなものである。
 今ならわかる。あの時、父は勤め先で肩書が上がったのだ。給料も上がった、というわけで、母の機嫌が良くなったのである。昇給の対価がたかだかレコード1枚分程度かと、今では苦笑が漏れる。
 ともかくも、もらったカネをもって、吉祥寺のレコード店に出向いた。今のアトレ、当時はロンロンと名乗っていた複合施設に中にあったレコード店である。今、その店があったという痕跡すらない。だからこの話をしても信憑性に欠けるのであろうが、そこにはレコード店が厳然とあったのである。ビートルズ、ドアーズ、ザ・スターリンの『虫』に「GO GO スターリン」の12インチシングル、そして本稿のレコード。ずいぶんと買っているのだけれど、もうあれから39年たっているから悪口(?)も許されるであろうが、あの店の品揃えは私には不満たらたらであった。ビートルズもドアーズも、カタログが全部そろっていたためしはなかった。インディーものは全くなく、そのくせ当時売れていた、たとえばアイドルもの(ドラマの『あまちゃん』に出てくる、80年代のレコード。あれである)やポリスとかカルチャー・クラブ(私は好きだったけれど)などは何枚も同じやつを置いていた。ドアーズの『アブソルートリー・ライヴ』が置いていなくて、予約をしようとしたら、「うちではお取り寄せできません」などと言われた。理由を聞いても答えようとしない。たぶん、私のような頭のいかれたガキなど相手にしたくなかったのであろう。あるいはこの時、仕入れ作業が終わったばかりで店の在庫が過剰になり、発注を控えていたのかもしれない。どこの店、というかどこの業界もそうであろうが、発注するときには一定のロットという制約がある。このメーカーの商品は1回の発注をするのに何枚以上、何万円以上発注しないと持ってきてくれないというわけである。1枚だけ発注しても運賃かかるわいってな具合でもってきてくれないのである。あるいは何万円以上発注しないと契約した通りの金額で売ってくれないなんてこともある。「○○さん、この数量じゃお約束の特約店価格でお譲りできませんねえ」って言われるわけだ。しかしそんな気まぐれな、あるいはオトナ(?)の事情など、全く知らない私は大いに立腹し、『アブソルートリー・ライヴ』の一件以来、この店を利用することはほとんどなくなった。ただ、侮れないと思ったこともある。ちょうど世間がレコードからCDに切り替わろうとしていた時期であったが、この店にザ・スターリンのシングル「アレルギー」があったのである。当時すでに廃盤であったはずだし、すでに私は1枚持っていたのだが、こいつは貴重だ持っといてやれと買っておいた。もしかしたら自分の倉庫にデッド・ストックとして放置されていたのを引っぱり出してきたのかもしれない。あるいは仕入れ先から在庫処分をするからと、無理やり押しつけられたのかもしれない。このシングル盤は後々役に立つことになるが、これについてはザ・スターリンをテーマにした拙稿で記した。
 脱線し過ぎた。そのくだんの店で、私はあの蛍光色と出会ったのである。別の店で買おうかとも思ったが、めんどくさくなったのでこの店で勘定を済ませた。そういえば、ピストルズ関係は他に1枚もなかった。PILもなかった。アイドル関係ほど売れなくて置かなかったのであろう。
(これがパンクのレコードか)
 蛍光色は他のレコードとは明らかにその意匠が異なっていた。何故この色なのか。そして脅迫状のような、文字を切り貼りしたようなレタリング。それでいて、どこか笑ってしまえるセンス。この笑いは素朴なそれではない。せせら笑いだ。もちろんこの時はそんなことは全く意識していなかったが、少なくともただものではないことは、脳みその回転の遅い私でもわかった。
 家に帰ってレコードに針を落とすと、靴音が「ザッザッザッ」と聞こえてきた。次にバスドラの「ドンドンドンドン」、ギターの音。そしてあの声だ。忘れようたって忘れることなんかできない、あの声。
「・・・・これ、うた?」
 間の抜けた表現だが、歌には聞こえなかった。メロディーらしきものがない。やたら語尾をひねり上げる。ただただ怒涛の如く押し寄せる声。音。「アナーキー・イン・ザ・U・K」なんて高笑いまでしている。最後の曲のエンディングには「ぶちゅっ」なんて鼻をかんだのかゲップしたのかわからないノイズまで入っている。人をおちょくっているとしか思えない。これがパンク・ロックってヤツなのか。衝撃だった。何といってもその声、歌いかた。その横溢するおちょくり感覚。その声と並走するラウドな音塊。ビートルズやドアーズとは異質の世界。
 私はその日以来、ピストルズの、パンクの虜になった。
 ピストルズは、パンクのモデルケースであったと思う。少なくとも私にとっての。より具体的に言い直すと、反骨と笑いとロックンロールの原初的な高揚感、これらを絶妙にブレンドしたところが、最大の魅力だと思う。ここで重要視したいのが、笑いだ。私が今まで聴いてきたバンドなりミュージシャンで、とりわけ魅力を感じた対象には笑いがあるものが多かった。クラッシュやストラングラーズの作品の多くを愛好しなくなったのは、笑いがなかったからである。いや感じ取れなかったからである。
「このアルバムは笑える」
 ジョン・ライドンがDVD『クラシック・アルバムズ』シリーズの中の『勝手にしやがれ』の盤で、自ら評した言葉である。もちろん貶しているのではない。笑いがピストルズの大切な要素であることを、自ら説いているのだ。
 ピストルズが評価される際、その過激な歌詞や発言、ラウドでシンプルなロックンロールサウンドはよく取り上げられてきたが、こと笑いのセンスに関してはまともに言及されてこなかった。それもあるのだろう、私自身ピストルズのどこに魅力を感じ取れたのか、自分なりにわかるようになるのに、ずいぶんと時間がかかった。
 80年代の、私の周囲のロック愛好家の状況もあったろう。ロックというと、こてこての、肩ひじをはりまくり、特にパンクのファンは普段からツンツンヘアーにスタッズの付いた革ジャンを着て目一杯いきがっていたけれど、何だかあまりに窮屈そうに見えて仕方がなかった。ロック~パンク・ファン(と自認する連中)は自分の価値観を一元論的に私に押しつけてきた。私のような革ジャンを着ない、髪も逆立てない、風采の上がらない人間は、ハナからロック~パンクとは無縁な奴だ話にならぬと思われていた。私がピストルズ好きだ、とかピストルズ以外にも、たとえばポイズン・アイデアやハスカー・デュも好きだと言うと、皆一様にびっくりした顔をした。エクスプロイテッドの「トゥループス・オブ・トゥモロー」はヴァイヴレーターズの曲なんですねと言うと、相手は異様な者でも見る目つきをし、私にこう返した。
「そんなの聴いてるの?見えないなあ」
 彼は(あるいは彼女は)いわゆるキインとして私を見たのである。私のいでたちが、紋切り型のロック(あるいはパンク)的なイデオムを、全く感じさせなかったからなのだろう。
「差別反対」「人類は皆平等」
 周囲の、ロックやパンクを殊勝げに語る輩はこんなことも好んで口にしたが、一方で人の見てくれだけで平気で「こいつはこういうヤツなんだ」と先入見で決めつけ、自分とは異質な者(あるいは、物、も)は黴菌のように扱い、蔑んだのである。それこそ、彼らが否定していたレイシストなどと変わるところはなかった。そのくせ、本人たちに、自分の思考が矛盾しているという気付きは全くなかった。まさにアンコンシャス・ヒポクリットなのであった。
 そんな彼らには共通している性向が1つあった。「笑い」がなかったのである。「笑い」を理解しようとすらしなかった。笑いのある表現は、彼らにしてみれば、ことごとく不真面目で、情けなくだらしのない、卑屈なものであると決めつけられた。トイ・ドールズを、他のパンクより格下に見、それどころかあれはパンクじゃないと言った奴がいたが、こういった思考が彼に強く根付いていたからではなかったか。
 それではピストルズが、彼ら紋切り型のロック・ファンの間でも一定の評価を得ていたのは何故か。それは80年代当時のメディアや彼らに代表されるリスナーが、ピストルズの音楽にある「笑い」の要素をきちんととらえ、検証しようとせず、表面的な過激さや派手な部分にばかり目を向けていたからだ。言語形態が全く違う日本では、なかなかに難しい検証ではあったのだろうが。『クラシック・アルバムズ』には、そういったピストルズの「笑い」をくみ取ろうとする姿勢が明確にある。だから、あの映像作品は制作から20年余りたっても全く鮮度が落ちていないし、『勝手にしやがれ』が単に表層的な過激さだけではない重層的な魅力を湛えた作品であることを今なお生々しく示してくれるのである。
 自然に、私と彼らとの交流は絶えた。先だって私は自分の事をガラパゴス・マン、略してガラ・マンと称したが、80年代から既に私はガラ・マンであったといえよう。
 今、ロックやパンクを聴いている人たちの類型がどんなものなのか、全くわからない。そういう類いの人たちとはもうン十年と関わっていないからである。ただ、ちらほらと雑誌やメディアを仄聞し、90年代以降の、例えばダムドやバズコックスの人気上昇を見る限り、少しは好ましい状況(私にとっては)になった。ただ、ピストルズの音楽にある「笑い」は、未だ満足に論及されていない,、と思う。ここら辺がもっと深堀りされれば、パンクはもっともっと豊かな世界を現出させてくれるのではなかろうか。
 もう一言。笑いとユーモアとは、密接な関連がある。それこそ合わせ鏡のようなものだろう。先に記した紋切り型のロック・ファンと称する輩は、ことごとくユーモアのセンスを有さなかった。彼らはユーモアをも、ふざけた行為とみなし、その表現を排斥していた。私は息が詰まると思った。つき合っていられないと思った。
 笑いやユーモアは、人の心を柔らかなものにする。それらのないところでは、人はカサカサに干上がり、デクノ坊になってしまうだろう。そして笑いやユーモアの何たるかを知るには頭を使う努力が必要となる。北杜夫も、他者の著作を引用する形で、こう述べている。
「馬鹿にはユーモアがない」[1]
 今日は脱線してばかりいる。この暑さでただでさえおかしくなっている私の頭が、いよいよオカシクなってきたようである。これ以上続けると、私は精神病院に入れられるかもしれないので、今日はこの辺でやめておこう。




[1] 北杜夫『人間とマンボウ』、中公文庫、1975年、136ページ。