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灯台下暗し―ラモーンズ

    ラモーンズ。パンクを好む人間にとっては問答無用だろう。少なくともラモーンズを嫌いだと発言している自称パンク好きの人間にはお目にかかったことがない―いるのかもしれないが、私には想像ができない。簡潔にしてキャッチ―な楽曲、原初的衝動をそのままシンボライズしたかのような性急なビートにラウドな音像、市井のロクデナシどもを描いた歌詞、革ジャンにジーパンにスニーカーといったファッション。今日的なパンクのイメージの原基形態を作り上げたバンド。これがむさくるしいなりをしていたりとか、説教臭い歌詞を歌ったりとかしていたら、ここまで恒久的な存在にはならなかったはずだ。ラモーンズは一見薄汚れていそうで決して不潔ったらしい不快さを与えず、同時にどこか情けなくって、それが親しみを持たれた。音楽性にルックス、思想性、いずれもが絶妙に補完しあいつつ、夾雑物が一切ない。ロックの入り口としては格好な素材足りえた。加えてメンバーがリアルタイムで影響を受けてきた60年代ポップスのエッセンスを巧みに楽曲の中へ溶け込ませることで、古くからの音楽ファンにもとっつきやすくさせた。この説明でピンとこなければライヴ盤『イッツ・アライヴ』や『ロコ・ライヴ』を聴けばいい。間髪置かず速射砲のごとく連打されるロックンロール。大昔、どこかの本にラモーンズは「早い、うるさい、短い」と書いてあったが、この三原則プラス、あのキャッチ―な楽曲にあのファッションがあったればこそ、ラモーンズはロック界における免罪符を未来永劫にわたって獲得することになった―「ロックの殿堂入り」なんていういかにも権威主義なにおいをぷんぷんさせる称号という意味ではない(そういえばロックの殿堂入りの授賞式に出席したメンバーを見たことがあるが、特にジョニー・ラモーンはいかにも気乗りしていない様子であった)。
 それだけではない。レコード・デビューした1976年から1980年代を通じて、彼らは常にサイアー(Sire)というメジャーなレコード・レーベルに所属し続けていたこと、レーベル側がバンドの音楽性を過剰にいじくりまわそうとしなかったことを挙げたい―いやいじくられていたよとする人もいるが、非常に良心的な扱いではなかったか。これらはラモーンズの歩みを知るうえで非常に重要である。サイアーは彼らを首にすることなくサポートし続けた―契約内容については全く知らないが―。メジャー・レーベルであったことでラモーンズの作品は安定的な市場への供給が可能となり、創作活動の場が確保されたことで、バンドの活動は停滞化せずに済むことにもなった。長期にわたって同じレーベルに所属することで、レーベル側もバンドの性格を熟知でき、より細かいサポートが可能になった。おそらくレーベル側はラモーンズと長く付き合っていくうちに、バンドの音楽性を基本的には変えない方針を意識的に取ることにしたのではないか。だとしたら、レーベル側の慧眼であったといえるだろう。ひとつのバンドとレーベルが、ともに長きにわたり関係を保つことができたのは、双方にとって誠に幸福であったと思う。このことでバンドの寿命が20年余りに伸びたのは間違いないところだろうし、基本的な音楽性を変えることなく―まるっきり変わらなかったわけではない。これについては後に少々触れる―、常にメジャーな音楽シーンで活動できたことで、固定ファンが世界各地に根付いた。レーベルにとってもラモーンズを安定的にサポートしていくことで、いつしかラモーンズとくればサイアー、サイアーとくればラモーンズと、音楽(パンク)ファンに認知してもらえるようになり、サイアー自体が確固たるブランド化を成しえた。この、ラモーンズとサイアー・レーベルとの関係はもっと話題にされてもいいのではなかろうか。彼らに関する文献はほぼ読んだことはないし、伝記映画―『エンド・オブ・ザ・センチュリー』だけではなさそうだが―も観たことがない。それらの中で取り上げられているのかもしれない。であればクソの役にも立たぬ議論ということで、ここはさっさとスルーさせていただいたほうがわが身のためである。
 さて、かくのごとくメジャーなレーベルに所属し続けたのに、彼らはそのキャリアを通じて、大々的なヒットは飛ばさなかった。もちろんヒットチャートには何枚ものレコードが入っていたのだから成功した範疇に入るのだろうが、現在のネーム・バリューに比して、ちょっと寂しい実績だと思わざるを得ない。このあたりはバズコックスや999と共通するところがある。キャッチ―でありながら、同時に決してメインストリームになり切れない危うさや毒気をも内包した音楽性・存在感を併存させていたから、とするべきだろうか。
 毒気といえば、これは関口弘氏が述べておられたことだと記憶しているが、特に初期のラモーンズの歌詞は呆れるほどアホだというのである。私個人はアホではないと思っているが、あっけらかんにして無防備な乱暴さは、確かに散見される。シンナーきめすぎて頭ズッキズキとか、気にもしねえよ世の中のことなんてとか、見事な突き抜け方である。曲のタイトルからしておい、大丈夫かなあと心配になるものがある。ガキを殴れとか、KKKが俺の女を拉致したとか、3枚目のアルバムのタイトルなんてロシアに向けてロケットを、である。当時は米ソの内戦真っ盛りであったわけで、よくソ連から付け狙われなかったものである―ひょっとしたら付け狙われていたかもしれない。こんな物騒な歌詞やタイトルを公にしていて、悪逆非道な連中にまったくみえないのは、何度も言ってしまうがキャッチ―で簡潔な楽曲、加えてメンバー、なによりもヴォーカルのジョーイ・ラモーンのたたずまいとその声質によるところが大きい。頼りなげで愛すべきあんちゃんというラモーンズのパブリック・イメージを、ジョーイ・ラモーンを中心として無理なく体現して見せていたといえよう。これらを包括して、ラモーンズをひとつのパッケージとして売り出し続けたマネージメント体制は見事である。
 だが今はこうして讃えているラモーンズを、私は長い間、つい最近にいたるまで、熱心に聴くことはなかったし、積極的にアルバムをそろえようとはしなかった。もちろん嫌いではなかった。だが1980年代前半に、ピストルズや「ザ」付きの時代のスターリンからパンクに入った私にとって、ラモーンズは先に挙げた歌詞の内容がわからなかったというのもあって、表面的なイメージが中途半端に思えたのである。革ジャンにジーパンはオーケーだったが、おかっぱ頭のメンバー二人にヒッピーかと思しきロン毛が二人というのは、つんつん頭に錠前をぶら下げた奴にはかなわないと感じさせたし―おかっぱ頭とロン毛だったからこそ、楽曲の特性同様、旧世代のロック・ファンにも認知されたのだろうが―、80年代当時のラモーンズのレコードは、ベストの『ラモーンズマニア』を除いて国内では全部廃盤となっており、輸入盤は歌詞カードがないであろうという予想があり、―高校時代にヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードを買ったことで、その予想がついた―どんな内容の歌詞なのかほぼ全くわからないのは嫌だと思ったことで、ラモーンズのレコード購入をためらわせた。そのくせ(当時)歌詞のわからなかったバズコックスや999に夢中になっていたのは、この両バンドの突き抜けたダサさ(ゆえのカッコよさ)に満ちたビジュアルが、私をはるかに引き付けたからである。海外ではメジャーな扱いなのに日本ではマイノリティー扱いされたラモーンズ。私個人にとっても、日本の市場にとっても、ラモーンズは灯台下暗し的な存在だった。その国内での人気は、今とは比べようもないほど低かった。彼らのことを真剣に語ろうとする風潮がなかった。私のほうはほかにもっと聴きたいバンドやレコードがいくらでもあったから、『ラモーンズマニア』を入手しただけで、ついついラモーンズは後回しにしてしまった。高校2年の冬に遠藤ミチロウの対談集『バターになりたい』でラモーンズの名を知り、それから意識するようになっていたという記憶はあるが、実際にその音を最初に聴いたのは『ラモーンズマニア』においてが最初であった。つまりラモーンズを最初に聴いたのは『ラモーンズマニア』が世に出た1988年の、それも年末。20歳の時という、相当(?)遅い時期だったわけである。まあまあ良いなとは思って聴いてはいたが、たとえばそのころのめりこんでいたダムドやバズコックス、はたまたザ・フーやジョニー・サンダースほどではなかった。だからほかのアルバムまでは手が伸びなかった。やがて学校を出て就職し、パンクを聴くことへの情熱が失せていく中で、ラモーンズも聴くことはなくなり、したがってラモーンズの他のアルバムも買うことはなくなった。1996年にラモーンズが解散した時も、それを知ったのはもうずいぶん、それこそ何か月も経った後のことで、ああそうなんだなと思った程度であったし、21世紀に入って公開された伝記映画も、観ようとする気はまるで起こらなかった。

 あれは私が会社を辞める2日前のことだった。当日は土曜日で、会社の健康診断を受けたのである。(ああめんどくせえ。あさってには辞めるんだぜ。なんで健康診断なんだよ)と心の声を発しつつ、ひとりその町の健診センターへと出かけて行った。辞めることが決まってからの残務整理で無理がたたったか、一週間あまり寝込んでしまい―コロナではなかった―、その間に他の社員は全員健康診断を済ませてしまっていたのである。「私はもう辞めるんだから、受けなくてもいいでしょう」私が総務の人に言うと、「いや、もうあなたの名前は登録してしまいましたから、受けていただきませんと後で当局から突っ込まれては面倒です」と、無機質な対応であった。この数年ほど前に会社は、おそらくパワハラで辞めた元社員のタレコミがあったのであろう、労働基準監督署の手入れを受けており、福利厚生に関しては(表面上だけだったが)、えらく神経質であった。病み上がりのまま復帰して健康診断の前日まで、再び休み抜きで早朝から深夜まで働き、(今日は寝ていたかったのになあ、しかし家の中のごたごたから逃れる口実ができたな)と、アンビバレントな感情に浸りつつ、健診センターのロビーの中ボーっとしていると、目の前に二人連れの、おそらく40代半ばくらいのメタボなおっさんたちがべらべらしゃべくっているのが聞こえてきた。ちなみに、ここの健診センターは多くの企業が利用しており、いつもたくさんの見ず知らずの人でごったがえしていた。いや、この時はコロナ対策ということで入館制限があり、けっこう広い施設だったのに、ソーシャル・ディスタンスとかいう名目で隙間を開けて座らされ、それゆえ人数そのものはそれほど多くはなかった。私が土曜日に健康診断を受けることになったのも、コロナ前なら取れたであろう平日予約が全部埋まっていて、多くの企業が休みである土曜日にしか空きがなかったのである。休みの日にわざわざ会社の健康診断なんてふつうは受けたくはないわさ、というわけである。うむ、ということはこのおっさんたちも、いったん健康診断をキャンセルしての再登録組か?
「あーあー、帰ったらまた仕事だぜ?あの野郎、うぜえよなあ」
「んったくだ。人のツラ見たら、あの客んとこには行ったか?ABC分析したか?、B to CとB to Bは違うぞとかよお」
「あいつ、支社長からいびられてるから、そのストレスをこっちに向けるんだよな」
「ったくよお。コロナでどうにもなんねぇんだぜ。奴の言う営業ってのをしたくてもよ。今は在宅が基本よ?そんなんに外回りだなんて、ずれてんだよな。あら馬鹿だ」
「コロナっていったらよ。最近ライヴ全然やらなくなったよなあ?」
「そりゃそうだべ?けどよ、やってたってこんなにこき使われちゃあ行けねえべ?」
「ちげえねえ。最後行ったのいつだったかなあほれ、ラモーンズっていつ来たっけ?あんときゃ最後かな?」
「ありゃあ、えれえ前(めえ)じゃん?大体よ、ラモーンズ解散したのって、もう20・・・・」
「だよなあ。いや凄かったよなあ。もうノンストップでダアアアってさ。継ぎ目がねえのよ。理屈抜きの楽しさってのはあれだよ。あんときゃあ俺の人生絶頂だったあなあ」
「寂しいこと言うなって。お、出番だぜ」
 べらんめえなおっさんどもは、腹をたぼんたぼんさせつつ、受付に呼ばれていった。ここで注釈を加えておくが、おっさんたちの会話は、私の頭の中の(かなりあやふやな)記憶をもとに、脚色を加えて再構成したものである。実際の会話を忠実に書き起こしたわけではない。
(ラモーンズか)私は、我が家の中に残ったレコードやCDを思い出していた。
(ラモーンズは『ラモーンズマニア』しか持っていなかったな。けど一人暮らししているうちに処分されちまった。まったく!勝手なことをやってくれるわ。けどあのときはもうロックもパンクも聴くことはなくなっていたから、ぶちぎれはしたけど、そんなに困りはしなかった。最後に聴いたのはいつだったか。俺もずいぶん聴いてないな。ガバガバヘイって声かけるのなんて曲名だったか。『ラモーンズマニア』にあったよな。ほかには何のアルバムに入ってたろうか。『ラモーンズマニア』はアパートにも持っていくべきだったか。いや、持って行ったところで聴くことはなかったろう。そんな余裕はなかった。それどころじゃあなかった。だけどもうこれからは・・・・。ま、思う存分にはまだ聴けないが、おいおいと。ラモーンズか・・・・)こんな他愛のないことをぐだぐだ思考していると、もうほとんどの受検者はいなくなっていて、残りは私も含めて2~3人になっていた。この日は土曜日だから半ドンである。つまり私は受検者の最後の組に入れられていたのである。
(最後の最後まで、俺は落ちこぼれか)
 会社に入って30年余り、心身の健康を損ねながら、望みもしない社内政治に巻き込まれ、いつしかキャリア組からも退けられ、薄っぺらな肩書すら取り上げられて放り出された。たった一つ言えるのは廃人にならずに済んだことだろうか。せっかく拾った僥倖だ、楽な道を選んで生きるようにしよう、くそったれたことは放り出そう、それがこの時の私の心境であった。
(ラモーンズなあ・・・・)
 私の学生時代、地元のレコード店ではラモーンズのアルバムはほとんど置いてはいなかった―あったのは、国内盤店ではもちろん『ラモーンズマニア』のみ。それですら発売から数か月もしないうちに店には置かれなくなった。輸入盤店なら、ファーストとその他2~3枚のみ。80年代の近作は大概なかった。都心の輸入盤店に行けばもちろんひと通り手に入ったが、そんな気合は当時の私にはなかった。輸入盤とか国内盤とか選り好みせず、あるいはほかの手に入りにくいバンドはさておいて、せっせと都心にまで足を運べば簡単に聴けたバンドを、私は聴こうとしてこなかったのである。まさに灯台下暗し。ロック(パンク)といえばブリティッシュ、そんな固定観念に凝り固まっていたこともあったろう。アメリカン・ロックといえば汚らしい長髪にひげ面で、力任せにハード・ロックかダルなカントリー・ロックを演奏するイメージが、いつのまにか刷り込まれていた。そんなもんダサいの典型だと、勝手に思い込んでいた。メインストリームなアメリカン・ロック全般がそうなんだと決めつけていた。それこそ私のことを馬鹿にしていた紋切り型のロック・ファンやパンク・ファンと大差なかった。
(いい機会だ。健康診断が終わったら、久々に行ってみるか)
 会社から歩いて10分くらいのところに、ブ○○○フがあった。めったに行くことはなかった―正確には行く暇すらなかった―のだが、稀に仕事が早く終わると2~3回行ってみたことがある。すると行くたびに掘り出し物の古本が買えたりした。読みたくもない経営管理や経済の本、つまり仕事で必要な本なども手に入ったりした。退職の折に、そうした本は全部売ってしまったけれど。
 健康診断が終わったのは、もう昼過ぎであった。やれやれ、土曜日を半日無駄に使ってしまった。おまけに前日の夜から何も食べていない。どこかで腹ごしらえしてからブ○○○フに行くかと、健診センターからほど近いところにある居酒屋に入った。一度も入ったことのない店であったが、そこは昼にはランチを提供していて、土曜日だから、たいがいの大きなオフィスは休みであったと思うが、店は営業していた。空いている席に座ると、すぐ横に、さっきのおっさん二人組がいたのである。健康診断が終わってから仕事場に戻っていたと思しき二人は、飯を箸でつつきながら、ここでも愚痴を言い合っていた。
「あいつはなんだ。休みだってのに電話かけてきてよ。よっぽど暇なんだな」おや、おっさんたちは休日出勤だったようである。休日出勤手当はもらえたのだろうか。
「どうせ営業所の手柄は、全部てめえ一人のもんにしちまうんだろうぜ」
「だな。いつまでも、こんなところで働いてたって、ろくなことにならんぜ」
「転職か?」
「ああ。考えてんだよ。コロナだろ?うちも、先がないと思うぜ」二人は転職の話になると、声のトーンを絞った。「考えてんだよ」と言った男が、さらに続けた。
「まあ、そのうち、奴が何も言ってこなくなったら、レッド・カードかな」
「だろな。そんで依願退職の募集がってとこか」
「それまでに、あてを探しといたほうがいいと思うぞ」
「けどよ。俺らもうこの齢よ?まともなとこなんてねえぜ」
「わかんねえよ。今の世の中、今までの常識は通用しなくなってんだから。それによ。ここまでやってこれたんだから、なんだってできっぺ?」
「いいよなあ、おまえ。そういう思い切りの良さがあるってなあ」
「だってよ。むかつくことばっかじゃ、もたねえよ」
「けど、先立つもんは、カネだろ?」
「まあ、そうなんだけどよ」
 おやおや。こちらの方々も失業の憂き目にあいそうになっているのか。ご愁傷さまだ。彼らはこの近所のオフィスに勤めているのだろう。立地からして、さらには彼らの着ているスーツからして、なかなかの企業に思える。となると収入も暮らしも、それなりの水準ではないか。その割に会話はがさつだから、出世街道からは外れてしまっているのかもしれない。ならご同輩だ。乾杯!・・・・って、したくはないわな。それなりにお齢を召していらっしゃるようだから、転職するのは相当のストレスになりはしないか。今の給料と同じ水準の職は、そうそう見つからないだろう。給料なんて安くても、とはならないのが齢を食った奴の悲しいサガだ。いったんその生活に慣れてしまうと、そこから生活水準を下げるのは非常にしんどい、いやほとんど不可能である。どうしても辞めるのなら、依願退職の公募が出てからの方がよいだろう。そうなれば会社からの公式要請だから退職金は少なくとも満額、うまくいけば2割増しになるだろう。しかし俺はそうはいかなかったのだ。なにせ俺のいた営業所は業績ボロボロで・・・・、と私が心の声を発しているうちに、おっさんたちは話の内容を変えた。
「またライヴ行きてえなあ。ラモーンズはマジでよかったぜ。デイー・ディーいなかったけど」
「あんときゃあ、ええっと・・・・若い奴だったよな」
「そうだったな。名前は・・・・、ああ忘れちまった。でもよかったよ。」
「俺も観たかったなあ。でもまた来んじゃねえのって、気楽に思ってたんだよ。しくじったよなあ。そういやみんな死んじまってんだろ?」
「最初のメンツはな」
「これ以上後悔したくねえから、こうなったらあっちに観に行くか。仕事辞めたら」
「あっちって。どこよ」
「グリーン・デイは、まだやってっだろ?あっちだよ」
「いいね。ほかには誰がいたっけ?イギリスはどうよ?」
「ウィルコ見てぇんだよ。ああでもやってねえか」
「復活すんのかねえ」
「どっかなあ」
「チケットとりやすいバンド、調べてみっかなあ。そういやよ。ドクター・フィールグッドって、本体はまだやってっか?」
 おっさんたちは飯を済ませて、ワイワイやりながら出ていった。
 私は一人、これからのことを考えた。2日後には俺も無職になる。けど暇になったわけではない。家には惚けて半身不随になった父と、耳と目の悪い母がいる。この2人を置いて旅に行くわけにはいかない。いや何より俺のこの健康状態で長期の外出は無理だ。あのおっさん連中のように海外のライヴに軽いノリで、なんて言っていられる身分ではない。カネだって余裕はない。余裕があったらさっさと父なんざ老健施設に入れている。老いぼれどもの面倒を見てくれる親族なんていやしない。八方塞がりなのだ。家族が生きていく上でのミニマムな生活を、国の介護保険をフル活用しつつ、自らに強いなければならない。俺が仕事で廃人にならなかったのが唯一の救いだ。再就職か。それは父と母の2人が片付いてからだ。給料いくらがいいって?飢え死にしなけりゃいいさ。もはや俺には気にする体面もコネもない。食わせなきゃならない女も子供も、今はいない・・・・。
 そのうち、料理が運ばれてきた。私にとっては豪勢なメニューであった。こんなまともな昼飯を最後にとったのはいつだろう。加えて前の晩から何も食べてはいない。素直に旨いと思った。
 のろのろと食べ終わったときには、とうに1時を回っていた。我が家では今頃ヘルパーさんがいて、何やかやとやっているだろうから、私がいなくてもどうにかなる。今日はヘルパーさんはもう一組来る、その人たちが帰るのが今から約2時間半後。帰宅に時間を要する時間を差し引けば30分は余裕ができる。ここまで計算してから目的のブ○○○フまで出かけることにした。
 もう会社での残務は残ってはいなかったから会社に行く必要はないが、ブ○○○フに行くには必然的に会社の前を通らなければならない。面識のある奴と出くわすのは嫌だと思ったが、幸い誰とも顔を合わさなかった。
 店は土曜日ということもあって、けっこう混んでいた。昔からそうだったが、私は人混みが嫌いである。スーパーや本屋でも、買い物をするときに客でごった返していると、私はストレスを感じて嫌気がさす。ときとして眩暈や吐き気まで起こす。この日も店内を見て、さっそく私は帰ろうかと思った。だがせっかく来たのだ、せめてラモーンズだけでも見て帰ろうとCDのパンクと表示されているコーナーへ向かった。
 棚にはわざわざ「ラモーンズ」の欄が設けられていた。やはりメジャーなバンドだ。棚にはCDが10枚ほどあった。無作為に1枚抜いてみると、おどろおどろしい人間の姿が描かれたイラストが目に飛び込んできた。
(気持ち悪い画だなあ。タイトルも知らねえや)『ブレイン・ドレイン』とタイトルされたアルバムである。後になって知ったことだが、1989年に発表された作品である。まだ私が大学生であり、日本がバブル真っ盛りであった時代である。これはやめておこうとひっこめたところ、隣に小さく日本語で、こう書かれたタイトルがあった。
『ラモーンズ・リーヴ・ホーム』
 もう何年も聴いていなかったラモーンズではあったが、タイトルには覚えがあった。棚から取り出すと、バックのブルーの空、斜めに映った4人の姿があった。
(leave home・・・・、おうちをおさらば、か)
 私が長きにわたって希求してきたことを、端的に語っているタイトルだと思った。
 学校時代から、私は家を出たくてたまらなかった。家族の人間関係は冷え切っていた。父はしょっちゅう家に帰らず、たまに帰ってくると、私や母を蔑む発言を平然とした。いわく、私は病弱の知恵おくれ、母はなのをやるにも粗忽な女、云々。母は母で、父を金遣いの荒い、見栄っ張りなくせに小心者で世渡り下手な、出世街道からはじかれた―実際は勤め先では結構なポストまで行ったと思うのだけれど―男と罵った。そのうち、二人はまるで口を利かなくなって、父は、今だからこそわかるが、外で女を囲い、母は家のことはおざなりにして、一人で遊び惚けていた。私としては、2人には一瞬たりとも家にいてほしくはなかったから、独りで家に取り残されるのを、むしろうれしく思ったものだ。私が就職して5年ほどたった時だったか、引退が決まっていた父は、手を出していた株で大損をして、その埋め合わせに退職金をつぎ込んでも足らず、ついには私にまで泣きついた。背に腹は代えられず、足りない分は私の貯金を全額充ててどうにか収めたが、おかげで家の貯金はすっからかんになった。しばらく口をきいていなかった父と母は、父が勤めを引退して家にいる時間が長くなったのもあり、カネをめぐって、毎日のように言い争いをした。いよいよ本気で家を出ようと画策していた折、会社の命令で転勤が決まり、これ幸いとばかりに引っ越し、その後は6年後に再度転勤で実家住まいをさせられるまで、ほとんど実家には帰らなかった。一人暮らしのアパートは部屋が狭くって、最小限の荷物しか持って行けず、まあいい、レコードやCDはめったに聴かなくなっていたし、本を読む時間もない、服も置いといたって腐るもんでもなしと、そのほとんどを置いていった。それが失敗だった。もう私が帰ってくることはないだろうと勝手に考えた父は、家にあったレコードやCD、本や服の多くを捨ててしまった。いや厳密には、一部はカネになりそうだと売り払い、そのカネは自分の遊びに使ってしまった。母の方は、そんな父のやることに、まったく無干渉を貫いた。自分の息子がそれを知ったらどんなに激怒するのかなど、彼女にはどうでもよかったのである。彼女はひたすらに父とのコミュニケーションを嫌った。そして自分一人の世界に埋没していることを望んだのである。
(そんな親父も、いまや廃人だ。おふくろはまだましだが、かつてのような元気はもはやない・・・・)親子の情愛なんてものは、私たちにはとうの昔に枯れ果てていた。あるのは単に数十年間戸籍上は家族をうたっていたことからくる一種の惰性と、好き放題やってきた彼らに降りかかっている老いと病がもたらす苦痛―彼らの苦痛のとばっちりを、ひとつ屋根のもとにいるもうひとりのポンコツも受けるはめになった―なのであった。
 CD裏の曲目リストを見る。その7曲目には「Pinhead」と書かれている。
(・・・・ガバガバヘイ、か)脳裏には30数年前の記憶があふれ出る。決して熱心に聴いてはいなかった『ラモーンズマニア』だったが、「ピンヘッド」は印象に残った楽曲だった。ガバガバヘイのコーラスがあるためである。高校時代にすでに中古のギターを買って持っていた私は、気まぐれに「ピンヘッド」をコピーしてやろうとギターを手に取った。ところがコード進行は何とか分かったが、ジョニー・ラモーンの高速ダウン・ピッキングはコピーできないままだった。こんなピッキングを正確に、一糸乱れずにやり通すのは至難の業だなと大いに感服し、大学内の教室で隣の席に座った知り合いの男にそう言うと、「ラモーンズかよ。ワンパターンでソロもない。俺はパンクが嫌いだ」と、そいつはせせら笑った。せせら笑った対象はラモーンズでもあり、ラモーンズを聴いている私でもあった。普段からその男はブルース・スプリングスティーンとストーンズが最高だと盛んに吹聴していた。私は彼の厭味ったらしくも高圧的な態度に普段から嫌気がさしていて、このときも言葉を交わしたくなかったのだが、彼がどこそこのライヴに行こうと言ってきたので、どうせこう言えば私のことなど相手にしなくなるだろうとラモーンズの話をしたところ、上の答えが返ってきたのである。彼とはこれを潮に付き合いを絶った。
 私の周囲のロック愛好家連中は、パンクをハナッから脳みそ空っぽのノイズ垂れ流しと決めつけ、パンク好きの輩の方は、つんつん頭に革ジャンでなければ腰抜けであるとすら思いこんでいて、私のような一見ロックを聴いてなさそうな、パンクっぽくない人間なんぞをロックもパンクも聴いてはならぬ下等動物くらいに思っていた。私はいつしか、そんなロック好きパンク好きを自称する連中とはことごとく没交渉になった。
(音楽でも、俺はボッチだったんだよなあ)就職してからも、たまにロック好きの人間がいて、キッスとかクイーンとかの話で盛り上がっていたが、その連中が、「おまえは何を聴く?」と聞いてきた。私がリアクションを予期しつつ、「最近は聞かないな。前はダムドとかバズコックスにスターリンを」と答えると、みんな怪訝な顔をして「なにそれ?おまえはやっぱ変わってる」と言いつつ、奇印を見る目付きで私を見やるのであった。
 CDの中のラモーンズの4人は、そんな私の思いなどどこ吹く風とばかりにこっちを見ている。もう私の聴くバンドのことで、私のやることなすことで、ケチをつける奴は私の生活圏内にはいない。もしケチをつけたい奴がまだいるのなら、勝手にほざけばいい。そんな声が俺の耳に入ることはない。ああ家の中に2人いるか。けどあれはほぼ終わっている者どもだ、いい加減に相手しておくさ。ラモーンズ。身近な存在なのに真剣に聴くことのなかったバンド。もう30年近く聴いていないバンド。けどここでこうして再会したのも縁だ。聴いてこなかったのに「ガバガバヘイ」のコーラスはちゃんと覚えている、ということはそれだけのsomethingがあるんだろう。私はそのまま、CDをレジに持って行ったのである。
 

ボートラに76年のライヴが16曲。これがいいのだな。まさに「早い、うるさい、短い」ラモーンズ印満載 

 あれからもうすぐ4年。父はさんざん母や私に悪態をつきながら世を去った。母からは「無様だわね」と嘲りを受けていたが、呆けて耳もろくに聞こえなくなっていた父には、自分が蔑まれているなんて理解できていなかっただろう。母は、父には自分の声が届いていないようであることを腹立たしく思っていて、「もっとたくさん罵っておけばよかったわよ」と、私にいまでもこぼす。そして最後はいつも、「でも苦しがってたからざまあみろよ。今までのバチが当たったんだわ」のセリフでしめるのである。母のこのセリフを、もし父が聞いたら何と言うだろうと考えてみる。家族や身内にだけは尊大であった父であるから、ちょこざいなと罵り返し、年中行事の夫婦喧嘩へと発展したに違いない。醜いキャッチボールを、もう見なくていいのだとホッとするのである。母は自分が優性生物であるといううぬぼれは相変わらずだが、かつてのようにそれをしきりとひけらかすことはなくなった。外出をすることはめったになく、居間にあるテレビを大音量で眺めるか、ルーペを使って週刊誌を見、芸能人のゴシップ・ネタを楽しんでいる。そうでなければ口を開けて居眠りをしている。より穏やかな性質になったのは、長年いがみ合ってきた夫がいなくなり、ストレスから解放されたが故であるのだろう。本人は目も悪い耳も悪い、血圧だって高いのよ、ああもうおしまいねと垂れ流しているが。母のそんな姿を、私はひとつの感情をもって眺める。ひと言で表すなら哀れみとでもすべきか。ときにぼんやりとテレビと週刊誌を見、ときに眠りこけている今の母。かつての彼女には嫌悪感しか抱かなかったのに。「想定外だよ」私がそう言うと、母がポケっとして「何が」と答える。「今頃は、閻魔様にぶん殴られていると思っていたからさ」と言ってやると「は!あんたかい。まだ若いんだからなにを気弱なことを。あたしはもう駄目だけど、あんたはしっかりやんなさいよ」と定まらぬ焦点で返した。閻魔様が自分に寄り付くなどまるっきり考えたこともないのだろう。ここまでの強さ、いや鈍感さは私にはない。ある意味幸せなことだよなと苦笑していると、「あんた、あたしのことはいいからね、就活、ってもうその齢じゃ無理だよねえ。けどまあひとつの会社でずっとやってきたんだから、ちょっとしたアルバイトはできるだろ?あたしのお守(もり)は大丈夫だから」と、彼女らしからぬ殊勝な(?)、かつ見え透いた発言が飛び出した。私が家を空けないことは、彼女にはわかっているのだ。「まだまだ呆けたジジイにはなるんじゃないよ。あのろくでもない男がやっと消えたんだから。これからなんだからね」母は私を励ましているつもりなのだろうが、その実日常のめんどくさいことは全部私にやってもらいたいのである。これからもずっと、何年になるかわからぬが、あたしをお守してくれと言いたいのである。わかっているさ。もうこっちの腹積もりは定まっている。だいいち私自身がもう昔のようには頭も体も動かない。あんたを置いて出かけることはない・・・・。つまらぬ会話だが、こんな会話ですら、かつては考えられないことだった。これこそが想定外であるとするべきなのかもしれない。
 
 我が家でのテレビ以外の音は、あるとすれば私が聴く音楽と、FENくらいだろうか。ラモーンズのアルバムも、この4年弱で少しずつだが増えてきた。もちろんコンプリートと呼ぶには程遠い。とにかくラモーンズは多作なバンドであったから、全部集めてやろうという気はない。いや、ひょっとしたら集まってしまうかもしれないが。聴くときも心身が余裕のあるときのみである。ある日、『ロケット・トゥ・ロシア』のデラックス版を中古で見つけて買おうとしたが、そのヴォリュームにげんなりしてしまって、通常の1枚もののCDにした。なさけないって?これでいい。ロックンロールは苦役であってはならない。しかしである。あの日、会社を辞める2日前に受けた健康診断に居合わせた、てんでロックな体型ではなかった―これは私の主観的なイメージである―おっさんたちの会話を聞いていなければ、こうしてラモーンズと再び向かい合う機会は得られなかったであろうから、人の縁とはどこでどうちょん切れて、どこでどう繋がるかわからない。
 持っているアルバムを聴き返して思うのは、一般的には顧みられることの少ないと思しき4枚目以降の作品でも必ず聴きどころはあるということである―全部聴いたわけではないから強弁できないが。確かにオリジナル・メンバーでの3枚、プラス『イッツ・アライヴ』と比べると密度が下がってしまうのは、ラモーンズを知る人の多くが認めざるを得ないだろう。だがこうしたアルバムも一定の品格を備えていることは、わかる人にはわかるだろう。それはビートルズやビーチ・ボーイズ、シュープリームスといった60年代ポップスのエッセンスを存分に吸収した楽曲づくりの妙と、ジョーイ・ラモーンとジョニー・ラモーンのオリジナル・メンバーによる自己規律に裏打ちされたバンド運営が、解散時まで保たれたからである。例えば、フィル・スペクターがプロデュースした『エンド・オブ・ザ・センチュリー』(1980年)である。ファンからはあまり好意的な評価をされていないようだし、バンドのメンバーも、フィル・スペクターにはよい思い出がないという意味の発言を残している。だが今の私には60年代ポップス・メーカーの権化スペクターと、60年代ポップスのファナティックであったラモーンズとの音楽的親和性は高く、アルバムの出来栄えは悪くなかったと思う。オーバープロデュースな作品だと批判されるのも仕方ない部分はあるし、そういった取り組みに、バンド側の迷いが読み取れてつらくなる瞬間もある。だが冒頭の「ドュ・ユー・リメンバー・ザ・ロックンロール・レディオ?」での、ホーンが細かくフレーズを刻んでいくアレンジは、うまくラモーンズの個性と融合している。ラモーンズ本体の軸がきっちりストイックに定まっているから、たとえホーンで装飾されても彼ららしさは失われていないのである。初めて聴いた20歳の時にはちょっとやりすぎだなあと顔をしかめてしまったが、あれから30数年を経て、わが耳の許容度が増したのか、このアレンジは必然だったなと断言できる。ジョン・レノンの75年のアルバム『ロックンロール』のホーン・アレンジに通ずる味である―レノンの方にもスペクターは中途半端な形ではあるが絡んでいた。ついでに「レディオ」の歌詞にも少し触れておくが、これは巷言われるような手放しのロックンロール賛歌ではない。歌詞のなかにある「俺達には変化が必要だ、それも早急な~もう世紀末なんだよ」という一節が、どんな人の心も時とともに変化することを、移り気な世間のトレンドにあってはロックンロールが必ずしもいつの時代にも、どこにあっても有効なコミュニケーション手段になるとは限らないことを、そしてロックンロールをやっていれば大丈夫さと楽観的ではいられないことを、さりげなく示す。てめえうるせえ黙らねえと殴るぞと、無防備かつ頼りなげにすごんで見せた初期には見られなかった苦味。ラモーンズだって時代とともに変わっていったのである。基本的な音楽性は不変なことで今日高く評価されるラモーンズだが、決してどこを切っても金太郎飴なロックンロールではないことを、ここでは強調しておきたい。     


このバックの真っ赤っかは何の意味があるのか。そういえば翌年(1981年)に出たザ・ナックの『ラウンド・トリップ』のスリーヴも、バックが真っ赤っかであった。     


ラモーンズとナックが並んで語られることはまずないが、小細工抜きのロックンロールに下世話な内容の歌詞を得意とする点で、両者には共通点が多い      


このころのディー・ディー・ラモーンは短髪だったのだ。私が所有しているのは1990年に出た日本盤CDだが、最近再発された同じく日本盤の解説は新しくなっているのだろうか 

 私が今、好んで聴いているのが『ハーフウェイ・トゥ・ザ・サニティ』である。発表された1987年というのは、パンク登場10周年ということで、巷パンクの歴史的意義が、おそらくは世間一般で初めて検証され、ラモーンズもその流れで再評価されるようになっていた時代である。このことがバンドに刺激となったのか、アルバムの内容はそれまでブラスやシンセを導入し、ときにバブルガム・ポップ、ときにハードコア、ときにテクノ(?)と変化球を織り交ぜた音作りに、深刻な社会派的メッセージをも持ち込むことで見せていた迷いから、より直截・簡潔で重い―曲によっては後期ポイズン・アイデアを思わせる。だから私の好みというところもある―音作りと、アブナくも情けない隣のあんちゃん的な歌詞作りを再び重視する姿勢を打ち出し、ラモーンズが復調しつつあることを印象付けるものとなった。とはいえ、それが完全復調ではないのを示すのが一曲目の「アイ・ウォナ・リヴ」で、これからも俺はやっていくんだとジョーイが気合の入ったヴォーカルを聴かせ、楽曲自体は秀逸なのに―だからこそ、『ラモーンズマニア』にも収録されたといえよう―曲中に中途半端なシンセやギター・ソロを入れ、試行錯誤をしていた残照を感じさせたりもしてしまうことでケチをつけている。だが腐ってもなんとかで、ちゃんとラモーンズなロックンロールになっているから憎めない。本人たちもわかっていたのだろう。なんせタイトルが「正気になるまで道半ば」なのだから。ではその後の作品はとなると、次の『ブレイン・ドレイン』ではデイー・ディーがベースを弾かず、曲作りに外部の人間を参加させたりして、挙句にディー・ディー脱退。これではむしろ後退じゃないかよとなってしまう。もちろんその後もバンドはしぶとく活動を続けるのは周知のとおりだが。
 ほかによく聴きかえすのは、こちらは文句なしの名盤とされる『ラモーンズ』、1枚目である。まだ父が存命の折、病院での手続きのことでえらく面倒な思いをさせられたことがあるのだが、その行帰りにたまたま目に留まった古本屋でCDが投げ売りされていたのである。へたばりきって、俺の方が先にくたばりそうだわいと思っていたときに見た4人のポートレートに、こんなところで中古のCDが流通しているんだから、ラモーンズって需要があるんだなあと静かな感動を覚え、CDを買ったのである。全曲3分未満のちょっと頼りなげでいてカッコよくも小気味いいナンバー揃いだが、左右のスピーカーへ音が極端に振られたミックス。このアルバム全体が、初期ビートルズへのオマージュであることは仄聞していたが、こうして実際に全曲通して聴いてみると納得である。初期ビートルズのアルバムも、同じようなミックスだからである―ビートルズの場合は単純に2トラック録音であったからそういうミックスにならざるを得なかったのだが。それと最近これも知ったのだが、スリーヴ・アートワークは当初、『ミート・ザ・ビートルズ』を模したものになる予定であったという。そのアートワークにはアルバム全予算の三分の一がかかったというが、結局はボツになり、今のものになったわけだが、現在の写真に費やした費用は125ドルだったらしく、それを思うと、今のものに最初からしておけばよかったのに、と外野から好き勝手にほざく私なのであった。     


まさかアルバム・タイトルが『ミート・ザ・ラモーンズ』となるなんてことは・・・・。“ハーフ・シャドウ”に映ったラモーンズの写真はあるのだろうか。     



これは私が中学時代に買ったレコード。『ミート・ザ・ビートルズ』(アメリカ編集版)ではなくて『ウィズ・ザ・ビートルズ』、つまりイギリス仕様の日本盤。タイトルは違えどアートワークは基本同じ。『ミート』は所有していない 

「ここでも、つながってるんだな」
 私のロック詣ではビートルズから始まったが、ほかに夢中になって聴いてきたダムドやバズコックス、999、マーク・ボランにウィルコ・ジョンソンといった連中も、ビートルズにぞっこんだった―ダムドの方は、キャプテン・センシブルを除いてちょっとビミョーだが―。私のロックの聴き方には一本の太い線で貫かれているものがあったのだと再認識している。

 「なんか、わんやわんやいってるねえ」普段は私の部屋に入らない母が、顔を突っ込む。耳の悪い彼女には、輪郭のはっきりしない騒音に聞こえるらしい。「ラモーンズさ」「なにそれ。変な音」彼女の頭の中でのロックとは、はるか数百万キロかなたに存在する事象と同じである。いわば対岸の火事。18世紀イギリス人にとってのリスボン大地震。自分の指が切り落とされる事態ではない。「あんたも飽きずによく聞いてるわよ。ええと。ジョン・・・・なんとかだっけ?あれ死んで何年になるのさ」どうやら母は、ラモーンズとビートルズを混同しているようである。私はビートルズではないラモーンズという、別のバンドと説明はしなかった。彼女からの問いに、単純に答えた。「今年で45年になるよ」「はあ、もうそんなになるかねえ。今生きてたらいくつになるんかねえ」「・・・・84・・・・85か」「はあ。時間は経つもんだ。それなのにこうしていまだに聞いてる人がいるんだからねえ。ああ他に死んじゃった人いるだろ?」母は、やはりラモーンズとビートルズを混同している。「ジョージ・ハリスン」「はあ。あれは何で死んだんだっけ」死んだ人間のことで、これ以上ほじくり返したくはなかったから、「さあ、なんだったかな」とごまかした。「けどさあ。これうるさいねえ。こんなにうるさかったかねえ」「人によっては、これもうるさくはないんだよ」「ま、あたしには関係ないわさ」そう言って、彼女は部屋を出ていった。 
 これでいい。万人に受け入れられる事象はこの世に存在しない。大事なのは、それを受け取る自分次第である。たとえ受け入れることができなくても、その事象をこの世から抹殺せずにそこから離れ、そっとしておくことである。

  かつては大して注目しなかったバンド。灯台下暗し。ラモーンズは私にとってそんなバンドであったことが、今はよくわかる。だからいったんその灯台の存在を認識したら、安心してそこへ帰ればいい。ロックンロールのわくわく感とはったり感を失うことなく、どこか危なっかしく頼りなげ、それでいて品格を保ったままその生涯を全うしたラモーンズは、粋な存在なのだ。YouTubeからはラモーンズの動画が流れている。

『イッツ・アライヴ』に録られたのと同じ日の演奏である。ジョーイさん息切れしているが、このよれっぷれも含めて気に入って聴いていられるのだから、まだ私も大丈夫なんだろうなと思う。ガバガバヘイ、ガバガバヘイ・・・・。      

 「周りはパンクとかニュー・ウェーヴとか言ってるけど、俺たちがやってるのはロックロールなんだよ」―ジョーイ・ラモーン