Pop rubbishではない―999の80年代①
パンクの良心的な再発レーベルとして知られるキャプテン・オイ!Captain Oi ! は数々のパンク・バンドの旧譜をボックス・セットにして発売している。封入のブックレットの内容も力が入っているし、そのラインナップはなかなかに壮観で、ヴァイブレーターズにドローンズ、アディクツにビジネス・・・・と、手当たり次第に買ってしまいたくなるものばかリである。こうなると当方の財政は破綻を示すので、十分気を付けなければならない。本稿の主人公、999もボックスが出ている。それも2種類である。キャプテン・オイ!から複数のボックスが出ているバンドは、私の知る限り、他にはヴァイブレーターズだけであろう。それだけ作品への需要と評価が確立している証拠であり、多くの作品も発表し、かつキャリアを積んでいるわけで、999とヴァイブレーターズの胆力を思い知らされる。
さて、この999のボックスのライナップを見て、首をかしげるところがある。それは彼らの80年代の諸作が抜け落ちていることである。具体的には81年の『コンクリートCONCRETE』、83年の『13TH・フロア・マッドネス13TH FLOOR MADNESS』―以下、13THと略―、85年の『フェイス・トゥ・フェイスFACE TO FACE』の3作品である。単体としては全てCD化されたことがあるが、いずれも現在は廃盤となっていて、配信の形では、YouTubeでの個人ユーザーからのものなら、どうにか全曲の聴取が出来る状態である。
何故、キャプテン・オイ!のボックス対象外となったのか。権利関係で発売できないのか、あるいは999のメンバーが発売を許可していないのか。理由は不明である。入手・聴取の問題だけではない。『コンクリート』の、キャプテン・オイ!から出ていた再発CDには、当時の999の動向を記したライナーノーツが掲載されていて、史料面でも貴重且つ価値あるものなのだというが、私は現時点で未入手のため、内容は確認できていない。CDが廃盤になった今、こうした文献[i]の入手も困難なのであって、音楽・文献の両面において80年代の999を味わい検証することが、正規の形では不可能な状態にある。
80年代の999は、日本のメディアで今なお流布している―といえるほど浸透していないのであろうが―“明るい、馬鹿の一つ覚えのポップスに徹するバンド”とは、大きくかけ離れた試行錯誤的往反を繰り返していた。音楽的にも商業的にも成功したとはいいがたかったが、この80年代を乗り切ったからこそ、999には90年代以降の、今日まで続く安定した活動がもたらされたのである。また、80年代の上記3作品は、一般的には注目されてこなかった彼らの多面的な音楽性を、生々しく伝えるものでもある。『コンクリート』は79~80年にわたって精力的に展開してきたアメリカでのツアー生活が強く反映された、アメリカ音楽の普遍的バックボーンといえるカントリー&ウェスタンを999流に咀嚼することがコンセプトになっている。[ii]『13TH』は彼らの身上であったギター主体のロックンロール色を排し、シンセサイザーにホーン・セクション、女性コーラスを、さらにはファンクにレゲエのリズムをも大胆に導入した、999史上おそらくもっとも“攻めた”アルバムである。『フェイス・トゥ・フェイス』は前2作の芳しくない(音楽的・商業的)成果への反動か、ギター主体のサウンド・スタイルへ回帰しつつもダウナーな空気の濃厚な作品に・・・・といった具合に、その振幅ぶりは激しい。80年代初頭、とくにイギリスのロック・シーンはパンクから派生したネオ・スカ、エレ・ポップ、シンセサイザー礼賛を禁忌したかのようなネオ・アコーステッィクなど、百花繚乱と言えば聞こえはいいがその実、混沌とした音にあふれかえっていた。999の80年代のアルバム群は、あの時代の混沌振りを、ある意味見事に象徴した形で見せてくれる。そして999が、ロック・シーンの趨勢に対し敏感に反応し、音楽的商業的成果はともかくとして、生き残ってきたバンドであることをも証明している。90年代以降も999は、時のグランジやメロコア・ブームに拮抗していこうとする意欲を前面に出したアルバムを出すことで、パンク・シーンでリスペクトされることになったわけだが、自らが相対しているシーンの趨勢に対応しようとする彼らの姿勢は注目されてこなかったように思われる。80年代の作品群は、彼らのこの姿勢を、より露骨な形で表面化したものであるがゆえに、把握しやすい。ゆえに、80年代の999は等閑に付すべきではないのである。
それでも、999は同時代の連中と比べて音源は整備されている方であろうし、その入手も、フィジカル~配信を問わなければ、80年代の上記3作を除けば主要な作品は、(今のところ)正規の形で入手できる。単純な聴取ならば、オリジナル・アルバム収録の楽曲は全て、曲がりなりにも可能である。今後はどうなっていくかはわからないが、さすがはパンク史上もっともメジャーなカルト・バンドである。送り手側のお歴々には、現在供給されている音源の枯渇はご勘弁願いたいと思う。これは999に限ったことではないけれども。
現在、999の80年代について、ネットでのマスメディア情報を検索してみると、満足に引っ掛からない。メディア側が当時の彼らを再検証しようとする姿勢がそもそも、全く見られないのである。メンバー自身も当時の事を積極的に語ろうとする動きを見せていない。80年代が999不遇の時代であったことは、そのレコードのリリース状況をみれば、ある程度察せられるであろうが、情報把握の精確さに欠けることは免れない。999punkband.co.uk.が管理しているFEELIN’ ALRIGHT WITH THE CREW: UNOFFICIAL 999 SITEに掲載されているニック・キャッシュのインタビューでも、80年代に関しては、80年のアメリカ・ツアーのエピソードに紙幅が費やされ、その他の活動、レコーディングに曲作りについてはほとんど触れていない。バンド史上おそらくは最大級の事件であったジョン・ワトスンの脱退のことも、その理由は全く語られず、ごくあっさりした扱いである。前述した再発CDに添付されていた史料の入手困難さに加え、80年代の情報がかように少ないことも手伝い、当時の彼らの作品の扱いもまた、軽んじられることになってしまったのではないか。各作品の生まれた歴史的背景を知ることは作品をよりよく知るために重要なのだが、現時点でその作業は、はなはだ困難な状況になっているのである。
私は今、とうの昔に廃盤になってしまっている日本盤『ライヴ・アンド・ラウド』シリーズの、999版を取り出している。[1]ケースの後ろを見ると、91・4・21とあるから、発売日は91年4月21日なのだろう。当時、ひところよりロックを熱心に聴かなくなっていた私であっても、『ライヴ・アンド・ラウド』には999以外にもシャム69にラーカーズ、アンチ・ノーウェア・リーグなどなかなかにオツなセレクトが揃えられ、ろくに聴かないにもかかわらず買い求めていた。それが家の奥入れにしまいっぱなしになり、やがて数々のCDは消えていた。自分で売り払ったものもあった。家人に捨てられたものもあった。しかし999の『ライヴ・アンド・ラウド』だけは失われることなく、常に私の手元にあった。一時、全然パンクもロックも聴かなくなっていた時期でさえ、999のCDは散逸を免れた。本稿を記すにあたってそれはまことに幸運だった。なんとなれば、このCDの解説を執筆されている小野島大氏の文章が、999の(少なくとも日本での)扱われ方を―解説執筆は91年だから、90年代以降の作品は当然視野の外に置いたうえで議論しなければならないが―象徴しているということを、確認できるからである。
小野島氏は、999についての歴史をコンパクトにまとめておられる。バンドについての知識が皆無であった当時の私には裨益し得ることの多かった内容であったわけだが、80年代以降の活動についてはその初頭に積極的にアメリカをツアーしたこと以外、ほぼ記されていなかった。作品についても、『コンクリート』は「持ち味が失われた凡作」と切り捨てられ、『13TH』と『フェイス・トュ・フェイス』については一括してただ一言、「初期の切れ味は失われがちで」と、されているのみである。対してファーストの『999』には「エネルギッシュで力強い金属的なギター・サウンドと独特のユーモア感覚が新鮮で、当時ポスト・パンクとして喧伝されていたパワー・ポップの代表格として一躍脚光を浴びた。今聴いても、シンプルでありながらカラフルなポップ感覚とパンキッシュなエネルギーが渦巻いていて、実に痛快な傑作である」と、けっこうな字数が費やされている。セカンドの『セパレーツ』も、ぐっと字数は減ったにせよ、マーティン・ラシェントのプロデュースの元「佳作」となったと評されている。サードの『ザ・ビガスト・プライズ・イン・スポート』も、オリンピックをコンセプトにしたアルバムだと、内容にちゃんと触れられている。[2][3]この、各アルバムに対する氏の熱量の差異が、999がどのようにメディアから評価されているかを如述に示している。つまり、999のアルバムで評価に値するのは初期作品(の3枚のアルバム、特に『999』)だけであって、80年代に出た残り3枚のスタジオ・アルバムはものの数ではないとする扱いである。[4]氏の論調はその後の999の日本での評価を決定し、90年代以降の作品への評価にも影を投げかけ、今日なお抜きがたいものとして、80年代以降の999は注目に値しないという論に落ち着いてしまったように思える。93年に999はアルバム「ユー・アス・イット!」を出し、日本盤まで出たのに[5]、上の論調が支配的であったためか、アルバムは話題になった記憶が、私にはない―当時、パンクにはほとんど関心を無くしていたのだから記憶に引っ掛からなくて当然ではないかと誹りを受けるであろうが、94年にバンドが来日した時に、アルバムの日本での扱いについて『ドール』誌上で全く触れていないのが、その関心のなさをよく表しているのではなかろうか。[6]こうした傾きが、80年代以降の999の活動~作品への注目を削ぐことにつながったと思われてならないのである。[7]それでもまるっきり注目されていなかったわけではないのは来日を果たしていることで明らかではあるのだが。
80年代の作品がメディアで省みられないのは日本だけではなく、海外でも同様のようであるのは、上に記したとおりである。レコード会社も同じ動きを見せていて近年、彼らのアルバムが限定アナログ盤として復刻されたが、対象になったのは、やはり初期のアルバムのみであった。[8]
それでは、一般リスナーはどう思っているのであろうか。X(旧ツイッター)を眺めてみると、そもそも999について発信する人が、世界でも極めて少ない。単純に「999」と入力すると、「銀河○○999」とか、何かのゲームソフトの情報が飛び込んでくる始末である。ようやく目当ての999を見つけると、殆んどファースト・アルバムや初期シングルのスリーヴに楽曲ばかりが紹介してあって、80年代の作品は皆無である。[9]
だが一方で、999の80年代に言及がされているのを、参照できる場がある。アマゾンの商品コーナーにおける利用者のコメント欄である。999の80年代のアルバムはことごとく廃盤で入手不可能とされ、アマゾンの配信でも一部を除いて対象外となっていると思しき今でも[10]、利用者のコメント欄は削除されることなく、閲覧が自由にできるのである。その分量は少ないけれども、それでも一般リスナーからまるっきり忘れ去られているわけではないことがわかる。ただ、3作品それぞれへの言及量や内容を見ると、より初期の作品になるほど増え、かつ肯定的で熱を帯びた論調になってくる。ちなみに、『フェイス・トゥ・フェイス』はコメントを見つけられなかった。
999の80年代の作品『コンクリート』『13TH』『フェイス・トゥ・フェイス』を、このままおざなりにするのは惜しい。70年代から現在までしぶとく活動を続ける999は、パンクの生き残りというだけではない。ある時代からの、英国ロックの豊かな世界を垣間見せてくせてくれる存在であり、他の同時代のパンク・ロッカーであるバズコックス、クラッシュとの関りという点においても、さらにはイアン・デューリーなどのパブ・ロックとパンクとの接続という見地においても、興味深い対象なのである。その80年代の上記3作は、999の歴史の一部を形作り、次の90年代への橋渡しを果たしたがゆえに欠かすことができないのである。
さて、これはあくまでも私の主観的な、偏向した論である。特に、その歌詞面での検証が、まともにできていない状態での論である。現在ネットで流通している歌詞サイトでは、80年代999の作品の歌詞は、『コンクリート』の一部を除いて全く掲載されているところがない。幸いなことに過日、『フェイス・トュ・フェイス』の、廃盤となって久しい日本盤のⅭⅮを入手し、こちらには歌詞が掲載されていたが、『コンクリート』と『13TH』の歌詞は満足に入手できでおらず、この方面での検証は今後の課題として残されていることを強調しておきたい。
私の行論に反発を感じる人がいても、ちっとも不思議ではない。私の目的は80年代の999に光が当てられることであって、これらの作品への新たな知見がこれをきっかけに得られるならば、私は仕合せと思うであろう。(続く)
[1] これが、日本で最初にⅭⅮ発売された999作品である。最初のⅭⅮがこのような中級者以上向けの作品であるのが、999の扱われかたをよく示していると思ってしまうのは、私だけだろうか。
[2] 『ザ・ビガスト・プライズ・イン・スポート』のプロデューサーは、『コンクリート』のプロデュースも担当したヴィック・メイルであったが、『コンクリート』のプロデューサーとしてメイルの名は言及されているのに、『ザ・ビガスト・プライズ・イン・スポート』のプロデューサーについては一切触れられていない。
[3] 999『ライヴ・アンド・ラウド』解説、テイチク、1991年、6-7ページ、参照。
[4] 87年には、『ラスト・パワー・アンド・マネー』というライヴ盤がリリースされているが、小野島氏は内容には一切触れておられない。80年頃までの弾けっぷりは減退しているが気合の入った演奏を聴かせ、選曲も当時のベストといってよく、なかなかの佳作であるのだが、本稿のテーマから外れるので、これ以上は触れないでおく。
[5] 日本盤の発売は98年。
[6]森脇美喜夫編『DOLL』№85、1994年、27-29ページ、参照。
[7] 興味深いのは、『コンクリート』がリアルタイムで日本でも発売されていた事実である。レコード会社はビクターで、どういう経緯でイギリスの原盤を保有していたアルビオンと配給契約を交わしたのか、わからない。ビクターは当時ヴァージンと配給契約を交わしており、ピストルズ人気にあやかったのだろうか。結局、『コンクリート』が発売された後も、999の日本での人気が盛り上がった形跡は見られない。
[8] 2021年に『999』が、2023年に『ザ・ビガスト・プライズ』が、それぞれ発売された。
[9] 90年代以降の作品もあまりお目にかかれないのだが―全くないわけではない―、今回はテーマから外れるので問わないことにする。
[10] 注2、参照。
[i] この疑問を持っているのは私だけではなく、海外でも同じ所感を表明している方がおられる。アマゾンでの『ジ・アルバムズ・1977-80』内にある、後述の一般リスナーによる投書欄に書き込みがある。
[ii] 『フェイス・トュ・フェイス』はアマゾンの配信サービスが利用可能のようだが、詳しくはわからない。少なくとも正規にレコード会社から配信されているものではなさそうである。