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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』(7)

オーガズム・アディクト

Orgasm Addict

 

シングル発売のみ

B面:「ホワットエヴァー・ハプンド・トゥ?」

レコーディング:1977年9月、TWスタジオ、フルハム、ロンドン

ミックス:アドヴィジョン・スタジオ、フィッツロヴィア、ロンドン

発売日:1977年10月8日

ソングライターズ:ハワード・デヴォートとピート・シェリー

スリーヴ・デザイナー:マルコム・ギャレット

コラージュ担当:リンダー

 

この曲はフルハムにあるTWスタジオでのレコーディングでしたか?

 

そう。ここから始まったんだ。マーティン・ラシェントとの最初のレコーディング・セッションだった。その時点ですでにストラングラーズもUA[1]と契約を交わし、マーティンとTWで実績をあげていた。TWは地下にある楽器店の、さらに下の階にあった。ラシェントはずっとここを使ってきたからこう思ったんだろう。「またパンク・バンドか。なら同じ場所でやれば上手くいくさ」とね。というわけで僕らはそこで作業をしたけど、じつにみすぼらしい地下室だったな。レコ―ディングしたのは二曲、「オーガズム・アディクト」と「ホワットエヴァー・ハプンド・トゥ?」だった。ベーシックな部分を録ってからヴォーカルの仮録りをしたけど、ジメジメした所で嫌でね。僕らは思ったよ。「レコード会社と契約したんだから、まっとうな所でやらせろよ」って。

 契約を交わしたのは8月16日。エルヴィスが死んだ日だったけど、それから数日してピカデリー・ラジオPiccadilly Radio[2]で「オーガズム・アディクト」と「ホワットエヴァ―・ハプンド・トゥ?」を演奏した。果たして「オーガズム・アディクト」を聴いてた人はいたのかね!その後ロンドンに行ったのは9月16日で、マーク・ボランが亡くなった日さ。何かわけがあって駅からチャーターされたロールスロイスに乗せられて、オリンピック・スタジオOlympic Studiosのあるバーンズに向っていた。道すがら運転手が言ったんだ。「ご存じですか?マーク・ボランが亡くなりました」偶然にもその日その時間に、スタジオ近くにある木に、マークの乗ったクルマが激突したんだ。[3]ボランの大ファンだったから大変なショックだったよ。マンチェスターのフリー・トレード・ホールでやったT・レックス。あれが僕の最初に行ったコンサートだった。最前列の席でね。1973年(訳注:1972年の誤りであろう)5月16日に決めたのさ。音楽を仕事にしようとね。彼の死は大変なショックだった。ケヴィン・クミンズが撮った写真をみせてくれたばかりだったからなおさらだった。『スパイラル・スクラッチ』のレコードを持って笑うボランが写っていたんだ。

 その日にヴォーカルとバッキング・ヴォーカルを録った。スタジオ2だったと思う。小さいスタジオだったね。『シングルズ・ゴーイング・ステディ』のカバー写真は大きい方の、スタジオ1で撮ったんだ。レコーディングは上々の出来で、一時シノギの場所じゃ、こういう結果は出せやしないってことだよ。ストラングラーズはTWで上手くやってたんだろうけど、僕らはそうはいかなかったということさ。

 スタジオ2でちょっとトラブったんだ。A&Rのアンドリュー・ラウダ―って男が、テンネッツのキツいラガーが詰まった箱を差し入れに持ってきた。レコーディングの終わり頃にガースが酔っ払っちゃってラウダ―とケンカになったんだ。ガースは自分の新調したサンダーバード・ベース[4]を階段の上から放り投げてね。ケースに入ったままだったからよかったけど!

 

エンジニアがアラン・ウィンスタンレイ・・・・。

 

ストラングラーズの『RATTUS NORVEGICUS』でマーティン・ラシェントと組んだUAお抱えのエンジニアだった。ストラングラーズの全作品を手がけて、もちろんクライヴ・レンジャーともマッドネスでね。

 

「オーガズム・アディクト」は放送規定に引っかかるだろうということで、UAは大変なリスクを負うことになったでしょうね。

 

UAがとった行動は勇気のあるものだった。新人バンドのファースト・シングルがラジオから相手にされる内容じゃないって判ってたんだから。でも悪評でもそれが宣伝になるって思っていたよ。この曲をファースト・シングルにしたのは『スパイラル・スクラッチ』をレコーディングするときにどの曲にするかメンバーで投票してトップの四曲を選んだことに絡んでるんだ。五曲目が「オーガズム・アディクト」だった。だから次に出すシングルはこれでと決めてたんだ。UAと契約したときにもね。元々シングルは『スパイラル・スクラッチ』の収益で賄うつもりだったんだけど、クラッシュとの「ホワイト・ライオット」ツアーの費用に消えちゃったんだ。 ツアーとEPはレコード会社とのコネを作ることには役立ったけど、ツアーに関してはEPの売上には大した効果にならなかったよ。パンクを世間に認知させることには役立ったけどね。

 

ラジオで取り上げられず、たぶん店にも並ばなかった。これはスリーヴ・デザインにも原因があったんじゃないですか?

 

だろうね。僕らはさらに大胆になった。レコードの内容ばかりかリンダーのあのデザインも採用したんだものね。あれで販売できたのは、優れた営業戦略をとったからなんだ。もちろん曲の出来映えも良かったわけだけど。UAは営業と広報に優れていた。ジョン・ピールがラジオでかけ続けてくれたし。ピールの番組は夜の時間帯だったんだ。

 

BBCの検閲に引っかからなかったのは、タイトルを知らずにスリーヴも見ることなく、歌詞の内容も理解できなかった、タイトルやスリーヴの方は何も記載されていない、スリーヴもない白ラベルのレコードをBBCに渡したということですが?

 

よくわからないけど、まあそれも、宣伝や営業の一環だったかもしれないよ!何にせよ、レコードを売るのはレコード会社であって、バンドではないからね。ただねえ、BBCは僕のソロ・シングル「ホモサピエンHomosapien」を放送禁止にしたんだ。「同じすぐれたものHomo superior/私の内なるものin my interior」という歌詞が引っかかったのさ。何でかね。理解に苦しむよ!

 

アンドリュー・ラウダ―はその「向こう見ずな」契約を指摘されていましたものね。

 

アンドリュー・ラウダ―はカンやノイ!、ホークウィンドと契約していたしね。

 

当時他のレーベルからオファーはあったんですか?

 

いくつかあったけど、アンドリュー・ラウダ―を選んだのは、自分たちのことは全部自分たちでやりたかったからなんだ。スリーヴ・デザインも含めて―いや、特にスリーヴ・デザインをね!アンドリューは「かまわんよ」って。

 8月16日。契約を交わしたその日、リチャードとハワードが共同で暮らす家の電話が鳴って、僕が受話器を取ったんだ。二人はボールトン産業技術インスティテュート哲学科が借り上げた家に住んでいて、そこの地下室をバンドの練習場に使ってた。家には電話が引いてあって、僕はというと、家の前の道を下っていって、公衆電話がある、そのすぐそばに暮らしていたんだ。リチャードたちの家は、だからバズコックスの事務所代わりだったわけさ!まあそれはともかく、電話をかけてきたのはCBSの専務取締役のマウリス・オバーステインだった。彼が言うにはUAとの契約は止めにしてウチと契約しろだと。僕は言ってやったよ。UAと契約できて満足している、僕らの要求を全て認めてくれたから、つまり表現の自由を認めてくれたからだ、とね。

 

当時のお住まいは?

 

たぶん1976年7月の初ライヴをやる少し前には実家を出ていたよ。ロウワ―・ブロウトン・エリアのハイヤー・ブロウトン、サルフォードを転々として、バズコックスを始めた頃には窓なしの地下室に居を定めていた。4月には家賃滞納でそこを追い出されて、実家に戻る破目になったけどね。レンチの街を仲間と夜通しほっつき歩いてフラットに帰ってきたらドアのカギが開けられていて、家具が全部消えていた。家主が全部実家に送っちまったのさ。で、仕方なくね。

 1977年5月は「ホワイト・ライオット」ツアーに参加していたから、そりゃ忙しくってね。その直前に〔失業保険〕登録をした。職安の奴らはカット野菜の袋詰めみたいな仕事を振ってきたけど、ありがたくお断りしたよ。

 職安に届け出をしたのはフラットを追い出されて実家に戻ったときだから、〔1977年〕4月の初めだったと思う。トニー・ウィルソンの誘いで『グラナダ・リポーツ』に出演した。トニーは当時音楽番組の『ソー・イット・ゴーズ』とかお昼の地方向けニュース番組を担当するテレビ司会者だった。「ホワイト・ライオット」ツアーが終わって、また職安に行ったら、あいつらはこう言った。「あなたは定収入所得者です」ってね。僕は言ったさ。「こっちは文無しだ!」とね。僕がテレビに出て、レインボーに出て、さぞかし稼いでいるんだろう、「社会に顔が知られてる」んだからって、奴らは思い込んでいたのさ。僕の失業手当はストップさ!奴らは別の仕事をあてがってきたけど、それも7月の終わりか8月の頭までの話だった。UAと契約するまでの話さ。言ってやったよ。「来週レコード会社と契約します」と。奴らは僕を追い出したかったのさ。仕事をムリ強いさせてね!

 

その頃にはもう仕事はしてなかったんですか?

 

バズコックスを始める直前にイギリス石炭庁を正式に退職していた。それからは職にありついたことはないよ!

 

その後は、いろんなことが起こって!

 

そうだね。たくさんのことがあった。いいことも悪いことも含めて。

 

大いに出世して稼げたとは?

 

例えば物価が上がったとして、じゃあ今日の損得はいくらかなんて、全然判らないよ。最新のアルバムを作り上げていくのが僕の本分だね。実際のところ生活費は週に30ポンドさ。慎ましやかにやってるよ。皆が大好きな高性能(ファスト)なクルマ(カーズ)なんてどうでもいいさ!皆、無駄使いしすぎだよ。ポップ・スターは質素な暮らしを忘れてしまうんだね。かつてはそうやっていたろうにさ。

 

ジョン・マーとの出会いは?

 

ММ誌に女の子がミュージシャン志望の広告を出してたんだけど、その娘自身がドラマーとも何とも書いてなかった。ドラマーなら連絡してみようとハワードに持ちかけたんだ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは女性ドラマーだったからね。クールじゃないかって。それはともかく、マーは六週間ドラムの練習をしてからその娘に会いに行った。結果彼女の方は相手の男が気に入らなかったんだな。一方の我々はというと、ピストルズと同じ編成でライヴをやってきて、まともなドラマーが欲しいなと思っていたところだったわけ。で、彼と会ってみたらドンピシャリだったんだ。まだ六週間前にドラム・セットを手にしたばかりだったけど、見事なものだったね。

 

マーティン・ラシェントはUAのA&Rの職に就いていたんでしょうか?

 

そうだね。彼は最初エンジニアだったんだ。で、アンドリュー・ラウダ―と出会った。当時の専務取締役はマーティン・デイヴィスで、シャーリー・バッシ―の担当だった。これでマーティン・ラシェントと仕事ができると思ったね。ストラングラーズがUAと契約したとき、マーティンは「こいつらをプロデュースするつもりはない!」って言っていた。バズコックスに対しても同じ扱いだった。彼は馬の騎手のような、落ちついた頼もしい人だった。

 

「オーガズム・アディクト」はいつ、どこで創作をしたか記憶にありますか?

 

作曲と最初の歌詞は僕が書いて、残りの歌詞はハワードが書いた。ご存じの通り、「オーガズム中毒」はウィリアム・バロウズの一節から取った。オーガズム中毒っていう概念は、バロウズの作品に度々登場するね。ハワードはデヴィッド・ボウイを通じてウィリアム・バロウズを知った。ボウイは作詞に「カット・アップ」の手法を用いた。バロウズが普及させた手法さ。言葉を書いた紙を切り刻んで空中に放り投げ、地面に落ちたヤツを拾ってつなげ合わせるんだ。元々は詩の断片が書かれた紙切れを帽子の中から拾い出してみるっていう手法で、ダダイストがコンピュータ登場前に編み出したものなんだけど、カート・コバーンにジェネシス・オー・オリッジ、レデイオヘッドのトム・ヨークに引き継がれていくんだ。[5]

 僕はボウイの大ファンだったという理由でウィリアム・バロウズを読みだしたけど、ハワードの家にもバロウズの本が山のようにあった。最初は彼から借りて読んでいたけど、そのうちに自分で本を買うようになった。バロウズはフレーズの宝庫だね。「ヘビー・メタル」「スティーリー・ダン」なんて言葉は、彼の言葉から来てるんだ。

 憶えているのは、閉店間際のディスコの情景だよ。頭のイカレた奴らがいてね。そいつらが女と一発コマしてやりたいとギンギンになってるんだよ。「オーガズム・アディクト」はそれがネタになっているんだ。セックス依存というのは古い医学的概念なんだよ。ごく簡単に言えばセックスにとりつかれる、つまりやめられなくなることなんだ。ハワードは殆んどの言葉を辞書から引っぱり出して並べていた。ずっと後になって彼は歌詞を一ヶ所まちがえたと言ってきた。レコードでは「おまえはカサノバの子の一人/おまえも又、ヨセフじゃない」となっているけど、ハワードは「ヨセフじゃない」という箇所を見まちがえたんだ。正しくは「ヨセフはイエス・キリストの義理の父親と同じく、純潔ではない」という意味になるんだけど、ハワードは「おまえもヨセフではない者の一人だ」という解釈をしてしまったんだ。たぶん20年くらいたってから「ヨセフではない」とわかったんだね。それからはずっとそう歌うようにしているよ。けど元々は「おまえも又、ヨセフじゃない」だったんだ。

 

「セックス整備士所有の、乱暴なお相手」という所の、「セックス整備士」とは何でしょう?

 

最初は「セックス整備士」イコール、歯止めを効かなくさせる何者か、と解釈していた。今は「乱暴な、セックス力学」という意味にとっているよ。セックスをさせる、乱暴な相手という意味じゃないんだ。セックスの乱暴な仕方、ということだね。

 

「セックス整備士」は後にマンチェスターのエレクトロニクス・ダンス・ユニット、808ステイトの曲名になりました。メンバーのグラハム・マッシィがかつて在籍し、『スパイラル・スクラッチ』をリリースするためにたち上げたレーベル、ニュー・ホルモンズと契約していたバイティング・トングスもそのフレーズを使っています。

 

グラハムとは2009年と2010年にブラジルでのイベントに出席した。音楽のルーツについて議論することをテーマにしたものだった。パネルが何枚か掲げられて、僕らは自分たちの音楽的な原点は何かってことで話をした。スリッツのヴィヴ・アルバティーンも出席した。一週間くらい滞在したけど、僕は九十年代初めのマンチェスター・エレクトロニック・ダンス・ミュージック・シーンには関わっていなかった。ロンドンに暮らしてたからね。

 

神の子供たちthe Children of Godとは誰のことだったんですか?

 

そう・・・・。カレッジには学生と称して宗教活動をしてる奴らが大勢いた。ハワードも勧誘を受けていたかもしれない。「楽しい釣り[6]」とかいう神の子供たちと思しき奴らの儀式のことさ。性的快楽をエサに若い男を教団に引っぱり込む教団の若い女たちがいたんだ。

 

ジョイ・ストリングスThe Joy Stringsとは?

 

救世軍の隊員が作ったビート・グループで、よく日曜午後の、ビートルズやデイヴ・クラーク・ファイヴが出る時間帯のテレビに顔を出してたね。女がボンネットをかぶって、神は如何に汝のことを愛でるや、なんていう内容をポップ・ソングにして歌ってた。EМIと契約して「It‘s an Open Secret」とか「A Starry Night」をチャートインさせていた。一人の男が全員を仕切っているバンドだった。

 「インターナショナルな女には体毛がない」っていう歌詞があって、僕はあれを「毛が全くない」って聴いてた。わけがわかんなかったよ。そのうち「体毛がない」って歌ってるんだってわかった。今じゃなんてことはないんだけど、当時は未知のものに感じたんだよね!

 

UAはマルコムにスリーヴ・デザインを任せていたんですか?

 

させなかったね。だからクレームをつけたんだ。僕らはアンドリュー・ラウダ―の許可を得ているんだ、UAはそれを認めるべきだとね。最終的にUAは納得したわけだから、良い会社だったね。僕らは時間をかけてアイデアを練った。他人任せにするより、その点学ぶものは多かったね。パッケージにまつわるあらゆることをやったよ。スリーヴに写真を使うこともやった。当時は非常識なことだった。コストがかかるからね。僕らは自主製作(『スパイラル・スクラッチ』)でそういうゼイタクなことはしていたし。契約するときには表現の完全な自由を要求し、会社側もそれを飲んだ。儲からないよね!

 

バック・カバーの写真はどこで撮ったんですか?

 

写真はケヴィン・クミンズ。バンド御用達の写真家さ。カメラを持ってるって前から知ってたしね。本職は目録用の工業機械の写真を撮ることだった。ポール・マーレーの助手を務めていた。マンチェスターの中心から外れた―郊外、ストレトフォード・ロード[7]みたいな、妙な所だったよ。歩き回っていたらバスの格納庫があって、四つの窓があった。四人のメンツが別々に窓のところに立って撮影した。直線で区切るスリーヴ・デザインにぴったりくる写真が欲しいとマルコムから言われてたんだ。

 UAとエレクトリック・サーカスで契約を交わしたときの写真も撮っているね。その夜はジャムが演奏した。エルヴィス・プレスリーが死んだ日でもあったわけだけど、オチが付いたというか、運命的なものを感じたね。

 翌日にはММ用にキャロライン・クーンのインタヴューを受けた。ここからが本番だなって思ったよ。

 

ガースとはどこで知り合ったんですか?[8]

 

ガースとは旧いつき合いで、僕が1973年に音楽活動を始めて以来の仲だった。最後に会ったのはファクトリーでのイギー・ポップのライヴ。1978年だったと思う。良いベース・プレイヤーだった。メロディックに弾けたんだ。今は地元タイルデズリーのパブ・バンドにいる。あのバンドは北部じゃホント有名だよ。「Matchstalk Men and Matchstalk Cats and Dogs[9]」(訳注:「マッチのようなナリをした男と女。ただの犬」)のバンドだよ。

 

スティーヴ・ディグルの話では、ガースは「凶暴(punk)なロクデナシ(monster)」で、『RAZOR CUTS』というリーズ・ポリ(訳注:Reeds Poly リーズ大学ビジネス・スクール)で録音されたブートを聴くと、観客を「ヨークシャーのクズ(Bastards)野郎」と罵っているのが聞こえます。

 

その日の夜に着た服がそもそもの発端になったんだ。当時実家に暮らしてて、弟と部屋を共有してたんだ。で、引き出しを開けるとなかなかな服があった。白エリに赤い地のヤツだった。それがマンチェスター・ユナイテッドのユニフォームと同じ色だって気付いたときは遅かった。当日の観客の中にはたぶんリーズ・ユナイテッドのファンもいたんだろう。そいつらがモノを投げつけて騒ぎ立てた。そうしたらガースが客を挑発したんだ。「おまえら皆クソったれの白バラ(White Rose cunts)[10]か?かかってきな。ブチのめしてクソったれたリーズの地に転がしてやらあ!」観客はあっという間にヒートアップさ。ステージを丸く収めなきゃっていうことで、スティーヴが「Red Sails in the Sunset」〔ビング・クロスビーやルイ・アームストロング、ナット・キング・コールがレコーディングしている〕と「Angelo」〔ブラザーフッド・オブ・マンの曲である〕を歌ってるのがブートで聴けるね。

 リーズ・ポリを出ようとしたときガースは後部座席の窓際に座っていた。誰かがクルマの窓をノックした。「窓を開けるな!」そう言ったのにガースは開けちゃって、窓から顔に一撃さ。世界一ラッキーな男、じゃあなかったね。

 

それで、彼はいつ辞めたんです?

 

10月6日。「オーガズム・アディクト」がリリースされる直前だった。コヴェントリーにある、ミスター・ジョージズとかいう名前のライヴ・ハウスで演奏することになっていた。〔タイルデズリーの〕アストリー・ストリートにあるガースの家に寄って彼を拾い、途中パブ(訳注:マイナーズ・アームズ)に彼が入って、残りの僕らは外で雑談してたんだ。それからガースをマイナーズ・アームズに戻って彼を拾ったんだけど、もうベロベロでね。高速に入ったとき、僕と彼は後ろの席でケンカになっちゃったんだ(プジョーのワン・ボックス・カーで、後ろの座席を倒せば今の護送車みたいになる代物だった)。ケンカになったのはサービス・エリアにカセット・レコーダー用の電池を買いに立ち寄った後だった。運転手のピート・モンクスがクルマを路肩に寄せたとき、ガースはクルマの中で窓を蹴って手が付けられなかった。

 ガースが少し落ち着いたのを見計らってコヴェントリーに向った。現地でサウンド・チェックのときに、彼は又パブに入ってベロベロになってしまって。ステージ本番は立ってることすらおぼつかなくなっていた。とうとう持っていたサンダーバードを放り投げると、残りのメンツを置いてステージから消えてしまった。僕はスティーヴに言った。「ベースを君のアンプにつないでくれ」残りのステージをどうにかこなしたよ。その日は土曜日で、月曜日にようやく落ち着きを取り戻したとき、ジョンが口を開いた。「ガースが居続けるんなら、俺は辞めるよ」とね。もう答えは出ていたよ。[11]

 僕らには代わりのベース・プレイヤーが必要になった。スコットランドから始まる「オーガズム・アディクト」ツアーの何日かはバリー・アダムソンに参加してもらった。バリーとはスコットランド全部と、ストークで一回演奏した。その頃にはもうスティーヴ・ガーヴェイとは面識があった。ガーヴェイはストークのライヴを観に来て、それから正式に加入となった。[12]

 

スティーヴ・ガーヴェイに出会ったいきさつは?

 

ガースが辞めた後、僕らには「オーガズム・アディクト」リリース記念のツアーが組まれていて、ベース・プレイヤーが急遽必要になったんだ。ディズベリーの教会でオーディションをした。マンチェスターのヴァージン・レコーズ、ММ誌、それとたぶんニュー・マンチェスター・レヴューに広告を打った。たくさんの人間が来たけど[13]、ある奴らは「俺の知ってる曲も出来ねえのかよ」なんて言って、結局そいつらは何もできやしなかった。一人はやって来るやベースをまるでマーク・キングみたいに構えてね。今度は僕らが「こいつはモノにならん」他の奴らはもうどうしようもなくてさ、僕ら三人はトイレにこっそり入ってカギをかけて、奴らがいなくなるまで籠っていたよ。最終的に二人残ったね。一人はスティーヴ・ガーヴェイ。もう一人は何ていう名だったかな?モグ?当時スマークスにいたイアン・モリスだった。スマークスはマンチェスター出身のコメディ・ニュー・ウェーヴ・バンドで、カルト的な人気があった。モグは「Jilted John」のデモに参加してるよ。

 スティーヴ・ガーヴェイの話じゃ、休憩のとき、ジョン・マーにマーズ・バーMars Barを買ってあげたらしいよ(火星にちなんだ名前とは、いいネーミングのチョコレート・バーだよ!)。当時の彼はブラス楽器の修理工場に務めてた。ブラスは演奏してなかったけどね。フォールのカール・バーンズと知り合いで、ゆくゆくは一緒にティアドロップスで一緒に活動することになるんだ。演奏、ルックス、文句なしだった。全員気に入って加入、となったわけだね。

 

バリー・アダムソンとはどういった経緯で?

 

彼とはレンチで出会ってうまが合ってね。ハワードがマガジンをたち上げるときどんな男だって聞いてきたから、いい奴だって教えてあげたんだ。そんなに経験豊富じゃなかったけど、すごく優秀なプレイヤーだった。こちらの望み通りに弾いてくれたよ。

 

ファクトリー・レコーズは1978年1月でしたか、設立されましたけど、トニー・ウィルソンはバズコックスが、どことも契約してなければファクトリーに迎え入れようしてたんじゃないでしょうか?

 

彼とはそんな話はしたこともないよ!ロンドンのレコード会社と契約したことを報告したら、むしろ励ましてくれた。ファクトリーの話とかはこれっぽっちもなかったよ。

 

ファクトリーは「自前」のデザイナーとプロデューサーを起用し、商品それぞれにカタログ・ナンバーを付けることで有名でしたが、バズコックスはすでにUA時代にマルコムと実践してましたね。

 

そう、確かにね。まさに嚆矢というやつだよ。一部の人間がやり遂げたことに追従する輩はいつだって存在するってことさ。



[1] ユナイテッド・アーティスツ(the) United Artistsは1919年、俳優のチャーリー・チャップリン、メアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクスと映画監督のⅮWグリフィスにより映画会社として設立された。設立時のポリシーは役者たちの収入・利益をスタジオにコントロールされることなくその自主独立を支援することであった。レコード部門の創立は1957年。当初は映画のサウンドトラック盤を発売していた。UAの社風はバズコックスが要求した創作の自由を容認したところにも現れている。

[2] マンチェスター最古の民間ラジオ局が放送を開始したのはピカデリー・プラザにあるスタジオにおいて、1974年のことである。1967年改定となった海洋法制定後、ラジオ・ロンドンRadio London在職のフィリップ・バーチが発起人となった。


[3] ボランは愛人であり息子ローランの母であったグロリア・ジョーンズに運転するミニに同乗していた。ジョーンズの最もよく知られている業績は典型的なデトロイト・サウンドでまとめられた「Trained Love」での熱唱であり、これによって彼女は「ノーザン・ソウルの女王」と称されることになった。1981年閉鎖となったウィガン・カジノWigan Casinoはノーザン・ソウルの中心地であったが、ピートの実家があるレーからちょうど六マイルの距離にあった。

[4] スティーヴ・ガーヴェイの回想:「ヒーローの一人がウィッシュボーン・アッシュのベース兼ヴォーカル、マーティン・ターナーでね。ギブソンのサンダーバードを使っていた。ガースのと同じヤツさ。俺が加入したときはまだそのベースはあったよ。ガース個人の所有じゃなかったんだな。後払いのバンド名義で買ったものだったんだ。俺には使いこなせなかったけどね」

[5] バロウズは魔術的な思考やその存在に親近感を持ち、「偶然の一致などというものは存在しない」「偶然などというものは起こりえない」ことを主張した。魔的なものは、あらゆる障害を乗り越えるための手段たりうる彼は信じていたからであったが、同時に魔術的なものが「芸術を目的」に用いられることをきびしく批判していた。

[6] 楽しい釣りFlirty Fishing 入信した男性の特典。教団の資金稼ぎのため女性に性行為をさせるという堕落的な側面もあった。教団は出産制限を認めず、多くの「イエス・キリストの子ら」がその結果生まれることになったのだった。

[7] ストレトフォード・ロードStretford Roadは大学校舎付近を起点とし、ハルㇺHulmeとオールド・トラッフォードOld Traffordを通過、市の南東へ通じる。

[8] ピートの甥ハワードの発言:「あいつは今も地元にいるよ。相当な変わりモンだね。息子がラグビーを教わったことがあるよ(組合のチーム。プロの方じゃない方さ)!地元のパブ・バンドで、ズート・スーツを着てダブル・ベースを抱えてね。映画の『The Mask』に出てくるようなナリさ」

[9] 陰気で新手なフォーク・ソングで1978年にイギリスで№1に輝き、サルフォードのミュージシャン、L.S.ロウリーの名声を高めた。

[10] 薔薇戦争the Wars of the Rosesを指す。白薔薇the white roseは元来ヨーク家の象徴であり、赤薔薇the red roseはランカスター家のそれである。

[11] バンド関係者の発言:「ガースは自ら辞めたんだ。酷い苛めにあっていた。あいつらはユーモアのつもりだったんだろうが、ガースはそうとらなかった。血気盛んな奴らの中にいれば、ちょっと弱みを見せたらつけ上がるものだよ」

[12] スティーヴ・ガーヴェイの回想:「ガース時代のバズコックスは三回観たと思う。友人の何人かがフォールのメンバーで、フォールがバズコックスの前座をしたときについでに観たんだけど、「俺の方がずっと上手いぜ」って言っちゃったよ。ガースが辞めて、俺はオーディションを受けることにした。メンバーとはゴキゲンにやれた。ピートはすごいカリスマだった。合格して天にも昇る気分だったさ。バリー・アダムソンが臨時でやってたときにアンコールで出させてもらった。皆、俺がまるで曲を知らないと思ってたから・・・・」

[13] スティーヴ・ガーヴェイ「オーディションにはずいぶんと人が来てたよ。スティーヴ(ディグル)はそんなに多くはなかったと言ってるけどさ!」オーディションでガーヴェイは普通にフレットのあるベースではなくより奇抜なロング・ホーンという名のフレットレス・ベースを使用した。彼自身の技量と共に、このベースがおそらくは合格の決め手となったのであろう。