歌詞・対訳カード雑感―『ビートルズ・フォー・セール』を聴きつつ
去年は久々に何枚かレコードやらCDやらを買った。新譜は1枚ぽっきり。その総数も5枚か6枚か、というところだろう。それでもここ10年程の内ではたくさんの買い物と言わねばならない。それほどまでに、今の私は音楽作品を新たに聴いたり買ったりしないのである。サブスクとか配信サービスがはびこるようになってからは特にそうである。単純に聴く暇がなかったというのもあるが、実体を伴わないアーティスト作品に対しては抵抗を感じてしまうのである。まあ、我が家の音響環境が余りに劣悪で、いまさらサブスクのようなハイテクをとり入れても我が身にそぐわないなという思いも手伝っている。
利用しないから口幅ったいことは言えないけれども、サブスクはさぞかし楽なのであろう。なんといってもレコード・CDを保管する煩が省ける。1曲ずつ楽曲を買うことができる。曲が飽きたら契約(?)解除すればそれだけで全部オーケー。メーカー側にとってもコストはかからない。リスクを負いたくない今のトレンドを上手く反映させたシステムというわけか。
しかし、これで満足できるのは聴くだけではないのか。他の感覚はおざなりにされているのではないか。音楽について私はまるで無知だしセンスもないが、ずっとそう思ってきた。聴くだけでは満足できないのである。
パソコンを開くと音は流れてくる。ジャケットも現れる。しかしそれは小さく、遠くに見える。手を伸ばしても触れることはできない。かつてレコードからCDに移行した時にも、ジャケットがこじんまりして嫌だと思ったものだが、まだ触ることはできた。そこにジャケットがあるのだと実感できた。今の配信サービスは見ることと触ることに配慮がされていない。触れることも、聴くことへの重要な行為なのである。何だかすべてがヴァーチャルになってしまって、お手軽なのは良い面もあるが、アーティスト作品が粗末な扱いをされることになってはいないであろうか。
そしてもう一つ。これは特に洋楽を聴くときに痛感するのだけれども、歌詞カードがない。歌詞が判らないのである。そんなもの今は歌詞のネットを見ればとなるのだろうが、歌詞と音がばらばらになってしまってはきちんと作品は聴き手に伝わらない。できれば訳詞もあった方が良い。洋楽ファンの全てが語学に堪能なわけではない。今回取り上げたいのはこの歌詞・訳詞にまつわることである。
最近の洋楽事情はとんとわからないが、メーカーのトラスト・合併が相次いで、今は日本で洋楽アーティストの作品を独自に編集などして販売できないようである。歌詞カードとか解説なども然りのようである。アーティスト情報もネットで簡単に調べられるだろうが、私としては指で紙をめくって何度も書いてあることを読み返し、英単語と日本語訳をとっかえひっかえ、訳がないときはノロノロと辞書を引きつつ読んでいった時の方が作品に傾ける熱量が断然高かったと思う。配信サービスではどうにも気合が入らない。古い時代に生きた人間はそう簡単には新しいエートスに染まれないのである。
前振りはこれくらいにしておこう。今回メインで述べたいのはビートルズのレコードの歌詞カード、いやもっと厳密にいうと訳詞の事である。
画面に掲げたのは私が持っている『ビートルズ・フォー・セール』のレコードである。14歳の時からもう40年あまり聴き続け、レコード盤はノイズまみれ、早晩使用不能になるであろう。それでも私はいまだにレコードで『フォー・セール』を聴いている。サブスクでは聴いたことがない。CDも2009年版を持ってはいるが買ったときに1回聴いただけである。87年版は買おうと思ったが、やめた。やはりタテヨコ30㎝のジャケットで、歌詞カードをペラペラさせながらでないと聴いた気にならない。アルバムの内容についてはあえてここでは触れない。やれ演奏に熱気がないとか、オリジナル曲が弱いとか、そんなことはどうでもよい。私は『フォー・セール』が好きである。これで充分である。
日本盤の『フォー・セール』、いやビートルズの全レコードがそうだが、これらレコードの価値を高めているのは添付された歌詞カード、そして訳詞である。先にも記したが、日本人が英語の歌を聴き取るのは極めてハードルが高いであろう。専門の教育を受けていない限り現状聴き取り行為はほぼ不可能である。現代の海外アーティストでも歌詞カードを付ける人はいるが(今となっては実質「いた」か?)、それは一部であろう。しばしば聴き取り間違いは犯すが、それでも歌詞カードの存在はリスナーとしてはうれしい処置である。さらに、訳詞の存在は曲の世界観をより身近にさせてくれる(わざわざ自分で辞書を引かずに済むという横着さも発揮できる!)。かつてのビートルズ日本盤―私が持っているのは76年に発売されたヴァージョンーには全て歌詞対訳が付いていた(今もか)。さすが大メジャーなビートルズというわけだが、それだけレコード会社も気合が入っていたというわけであろう。訳者は複数おられたが、平田良子氏のものが素晴らしかった。原詩の内容をくみ取りつつも、みずみずしい日本語に満ちていて、しかもその時々のビートルズのメンバーの心情のようなものまで感じ取れる気がしたものだ。とりわけ『フォー・セール』の1曲目「ノー・リプライ」。64年当時のジョン・レノンの、スターダムに上り詰めた故の疲労感・閉塞感が滲み出てくるような「日本語」。末尾に添えられた「英詩と若干異なる箇所があります。御了承下さい」の文言にみられる誠実な姿勢を含め、40数年を経た今も鮮度は全く失われていない。ここで平田氏の訳詞を載せたいところだが、著作なんとやらが怖いのでやめておく。しかし思うのだが、この歌詞カードに掲載された平田氏の訳業は現在どんな扱いをされているのであろうか。忘れ去られているのであろうか。だとすると、残念である。
今聴いているレコードが、もしダメになったらどうしようかと考える。捨てるつもりはない。あのジャケットと、あの歌詞・対訳があるからである。音の方はCDやサブスクは利用せず中古レコード屋を巡ることになるのであろう。