ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』全訳(5)
序章
真実は一遍の夢:ザ・バズコックス・ストーリー
イギリス、1955年の第三週。第二次世界大戦終了から、厳密にはまだ十年はたっていなかった。肉類の配給は前年の1954年に終わったばかりだった。チーズは供給不足にあった。ガソリンは翌年のスェズ危機のあおりで配給制となった。こんな窮乏生活にも関わらずレコード業界は活況を呈しており1952年のイギリス・シングル・チャートがレコード売上の指針とすべく考案され、チャートの動きで新作レコードの人気の高低が判断されることになった。イギリス本国では未だに古き十進法以前の通貨制度が用いられて、一シリングにつき12ペンスという計算だった。十という単位より十二という単位で物事が考えられていたのだ。その証拠にNMEではおそらくほぼロンドンを拠点とした20くらいのレコード店からの電話連絡で集められた情報を基にトップ12と称され編纂されていたのである。こうした「チャート」は価値あるマーケティング・ツールとみなされるようになり、やがてMM、レコード・ミラー(訳注:以下RMと略)が参入し出版業界の競争が始まった。
当時五十年代のアメリカ人アーティストがイギリス・チャートの半分以上を占めていて、1955年4月15日付の、その週の№1ヒットはアメリカのTVやラジオに引っぱりだこな、Ⅽ&Wやゴスペルのファンから高い人気を誇っていたテネシー・アーニー・フォードの歌う「Give Me Your Word」であったのは驚くにはあたらない。
同じ週の、イギリス・チャートで最も息の長い曲はビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの「Mambo Rock」であり、前年には「Rock Around the Clock」をヒットさせていた。まもなくロックンロールのとって代わられることになるのだが、1955年はスキッフルがティーンを「熱狂」させることになる年でもあった。ロニー・ドネガンの「Rock Island Line」は洗濯板やお茶箱ベースといった手作りの楽器で演奏されたアメリカン・フォーク・ソングを安直に改変した曲だったがチャートの8位に達し、ゴールド・ディスクに認定された(デビュー・シングルとしては異例のことだった)。ロックンロールではなくスキッフルであったその曲がジョン・レノンに最初のバンドであるクオリーメンを結成させることになり、やがてポール・マッカートニーとの運命的な出会いへとつながり、ビートルズへと発展していく。
こうした状況下の1955年4月17日、マーガレットとジョン・マクネイシに待望の第一子が誕生した。ピーター・キャンベル・マクネイシである。
レーはグレーター・マンチェスター再分割の際に最も西側に留め置かれたウィガン市の自治都市である。マンチェスター全体を眺めてみると、ランカシャー州にあるウィガンとレーは地方都市の特徴を浮かびあがらせる。それは若き日のピートに重大な意味を持つ。
レーは産業革命で活況を呈し、綿織物と石炭産業の中心地となり、1955年当時もこれらは堅調であった。レーの中心街の食肉業、パン焼き職、青果業、鮮魚業、小間物商といった伝統的な産業は常ににぎわいをみせていた。市場もまた然りであった。昔ながらの市場即ち赤レンガ造りのホールの中には個人の出店が立ち並び、それは北部の風物詩であった。
ピートが十代であった七十年代、中心街にはまだ家族経営の良心的な店が存在していたが、その中にはピートがインタヴューで言及していたレコード店や楽器店、それと並んでこの国の殆んどどこの地域にもあるウールワース(訳注:ヨーロッパ大手の小売業者)が彩を添えていた。サッチャー政権前のこの時代、多くの炭鉱は閉鎖され、若干の大企業、例えば機械技師や化学技術双方の専門家を擁したサトクリフ・スピーカーズの電気ケーブル・メーカーのBICCといった数百人規模の労働者を雇用するところもあった。
ピートが人生の階段を昇り始めた頃からレーは斜陽の道を辿り始めた。主要産業であった織物業と石炭産業は七十年代から八十年代にかけて衰退し、個人商店は軒並み廃業し、最大の雇用先はサービス業界となった。いくつかの炭鉱はまだ稼働してはいた。アクリントン製のレンガとテラコッタ土でできた壮大なヴィクトリア朝時代の塔といったものも運河沿いに存在してはいた。街の権勢は五十年代が頂点だった。ピートの成長にともない、無人の建物があちこち目立つようになり、かつての工業の中心地としてのにぎわいは消え失せていった。
すっかりさびれてしまったその北部都市の景観は、20世紀半ばから後半へと移りゆく時代の様相を見事に映し出していた。工場の門は閉まったまま、就職先もみつからなかった。避けようもないことだが、その街のありようは、そこの住む人々の心にも影を落とすものである。ロンドン出身の者とはどうしてもちがう経験を強いられる。その文化・社会規範は根本からしてちがってくる。
レーの今日について詳述することはあるまい。住宅地や商店は整備され、巨大な「ショッピング・モール」はかつてのパルソネイジ鉱山[1]跡地に建てられている。ビッカーショウにあったもう一つの鉱山跡地には公園が設置され、高級住宅街と化している。鉄道は1969年に閉鎖されたが、マンチェスター行きの「ワンマンバス」が2016年に開通した。ダブルデッカー・バスはかつて鉄道が走っていた区間を走り、特別あつらえのバスが主要幹線を受けもっている。レーには将来ピート・シェリー記念館を建てようとする動きがある。そしてピート・シェリー記念財団を設立して若い地元ミュージシャンを支援する計画もある。これ以上のピートへのトリビュートはあるだろうか?
しかし、幼きピートが過ごしたのは全くちがった時代のレーである。ハワード・ライセットはピートより年少の甥でありピートとは仲良しであったから、幼き日のピーター・マクネイシのことを鮮明に記憶している。
「私の祖母のアリスはピートのお袋さんの姉だった。ピートのお袋さんのマーガレットは兄弟姉妹の中で最年少だった。兄弟姉妹全員マンチェスターとウィガンのちょうど中間にあるアストレイっていう炭鉱街の出身だったんだ。今でも炭鉱が残っているし鉱山の入り口も見える。祖母の家族はピット・ヤードっていう鉱山をとり囲んだ土地に暮らしていた。炭鉱労働者用の休憩所も残っているよ。
「産業革命はアストレイ周辺で始まったのさ。アストレイは理想的な炭鉱地で、ブリッジウォーター運河の近くにあった。運河は常に石炭の運搬に使われたんだ。織布工場もあった。モスは最初の鉄道が敷かれた場所なんだ。スチーブンソンのロケット号はそこで試験運転をしたしね。鉄道は綿の束を工場で積み込み運搬していたわけで、産業革命の縮図というわけさ。私ら一族は代々鉱山で働いてきた。ピートもその血筋だった。勤勉な労働者の血筋だね。
「ピートが生まれたとき、マーガレットとジョンはレイルウェイ・ロードの郊外にあった庭付の一戸建てに暮らしていた。レーの中心地からほど近くでもあった。ピートはかまどのある部屋で生まれたのさ。まるでちがう仕事をするようになったけど。
「結婚したときのマーガレットおばさんは、アストレイのファクトリー・ヤード内にある織布工場で二人の姉と一緒に働いていた。私の祖母アリスとアニー、そしておばさんだ。マーガレットは兼業でバッツ・ミルButts Mill(訳注:牧場の名)所有の、レーにあるワード&ゴールドストーンでも働いていた。そこではクルマやバス用の電気部品を作っていた。ジョンおじさんはグラスゴウ出身で、当時海軍に入隊していた。マーガレットおばさんは戦時中ランド・アーミーで働いていて、私が思うにそこで二人は出会ったのさ。[2]それでジョンおじさんはスコットランドから越してきて結婚したんだ。おじさんは組立工で技師で修理工でもあり、アストレイ・グリーン炭鉱の機械整備工まで務めていた。炭鉱の機械ってやつは整備が欠かせなかった。ポンプはいつだって稼働してたから、停まろうもんなら炭鉱が水浸しになるからね。
「二つ目の家はレーの中心地からちょっと離れたペニングトンにあるバンガローで、ピートの名前の付いた青いリレーフが貼ってある。ピートはレーの出身であることを誇りにしていたけど、ファンには自分の実家を探られて母親に煩わしいmithering思いをさせたくなかったんだ。[3]
「六十年代、レーはどんより曇って陰鬱な街だった。煙突からの煙と石炭を燃やす炎が絶えなくてね。でもそれがあの土地の共同社会の、象徴だった。炭鉱で働く男たちは常に危険と隣合わせだったから互いに助け合わなくちゃならなかったんだ。夏休みの二週間工場や炭鉱は閉鎖になるんだ。『祝祭The Wakes』って我々は言っていたけど。皆大型バス[4]か列車に乗ってリルかブラックプールの海辺へ避暑旅行に出かけるわけだ。その間は街の殆んどの店も休みになる。新聞配達もだよ。読みたきゃ『祝祭』用にガソリンスタンドに置いてあるやつを買うはめになるんだ。街中総出のお出かけさ。家族、仕事の同僚、全員だ。しんどい日々ではあったけれど仕合せでもあったよ。
「ピートは学校じゃ優秀で、イレブンプラス(訳注:イギリスの初等学校から中等学校への進学時に行われた試験。グラマー、テクニカル、モダンのどれかの学校に進学するかを決定する決め手とされた。現在は事実上廃止)の試験にパスするくらいだった。つまりグラマー・スクールへの進学が可能になるということだった。ピートは小さいときから英語は抜群だった。作文のスキルは母のマーガレットゆずりだった。おばさんは文学、特に詩の才能があって当時の学校の校長先生は大学に行かせようとしたんだ。けど父親が認めなかったんだ。女が大学なんてっていう時代だったから。悲しいことさ。おばさんは年を取ってからも詩を書いていたよ。ピートはこう言ってたっけ。「母さんみたいに詩が書けたらなあ」って。おばさんもピートと同じ名文家だったね。
「ピートの英語は抜群だったけど、数学はさほどじゃなかったから、一年後にボールトン・インスティチュートへ入ったのは自分のやりたい学問にとり組む前に数学のスキルアップをしておきたかったからなんだ。
「ピートとはウマが合った。私の学校とレー・グラマーはフェンスを隔てた隣り同士で、昼飯時にはフェンス越しによくダベったもんだ。冬には雪合戦をやったりもした!
「私の家系からはミュージシャンは出てこなかった。まだティーンになりたての頃にピートは最初のギターを手に入れて、ビートルズとかT・レックスにボウイの曲を弾いてたよ。ギター・レッスンをちゃんと受けたことはなかったね。学校じゃリコーダーも吹いたことはなかったし聖歌隊にも入ってはいなかった。生まれながらのパフォーマーだったんだ。物心ついたときから人前によく出てたよ。毎年マルシェの野っぱら―今はセインズベリーズSainsburry‘s(訳注:イギリス大手のスーパーマーケット)が立っている―には当時パルソネイジ炭鉱があったんだが、あそこで炭鉱祭りMiner’s Galaをやったんだ。レーにいる者総出の街あげての一大イベントだった。出店も一杯で、木靴ダンスに他にもたくさんの出し物。何万という人だった。その日ピートはある意味しくじり行為をやらかしたんだ。とある出し物が始まって20分位たってからだった。タンノイのスピーカーから声が響いた。『マクネイシのご父兄の方、舞台においでください』彼が有名人になった瞬間だった!
「母はいつも、ピートの人生最初のステージは自分の結婚式だと言っているよ。ピートが五歳のときで、ペイジ・ボーイpage boy(訳注:花嫁に付き添う役目をする男の子のこと)役だったんだ。おめかしして、肖像写真でも撮るのかいって感じだった。その披露宴の席で彼は舞台にあがり、当時流行のポップ・ソング(五十年代のエルヴィスにロックンロール、ドリス・トロイとか)を歌った。他の出し物はいらなかったほどだったらしい。ブラックプール行きのバスの中、帰りもだけど、そこでもお母さんたちの前で歌うようになった。彼は音楽で皆をよろこばすのが大好きだったんだ。
「グラマー・スクール時代も何かあるときはたいてい引っぱり出されていた。十三歳のときには『ミカド』っていう演劇に出たね。ピートは聖歌隊の日本女性役をやった。出演者は全員芸者の格好をしてカツラをかぶって手にはうちわ。もちろん男子校だから女子はひとりもいやしなかった。ピートはまんざらでもなかったけど他の連中は皆嫌がっていたね!
「私が12か13歳の頃、土曜日の朝だったんだけど私の宿題を見てもらおうと、母がピートを家に呼んだんだ。ピートはバスに乗ってやってきたんだけど、そのときの格好ときたら長いデニム・ジャケットにロング・ヘア、反りかえったエリ。(1973年当時の)最先端なファッションだった。20分位して彼が退屈だろうと言ってきたから私はもちろんと答えた。その後は宇宙のこと、宇宙科学のこと、音楽のことを一緒に話した。ほんと兄貴って感じさ。何でも彼には話せたね。ピートは大人だった。他のガキ共がサッカーとか女のコにうつつをぬかしてるそんな年頃で、彼は読書をし学問研究に勤しんでいたんだから。今の世ならたいていのことはネットとかでカンタンにわかるだろうけど、当時は自分であれこれ手を尽くさないといけない時代だった。彼は時と永遠という概念について説明しようとした。ブライアン・コックスが自分の番組で扱うような類いのことだよ。そんなものを語れる奴なんて周りにはいなかった。BBCの『The Sky of Night』という天体観測を扱う番組はあったけど、カール・セーガンがやったような番組が登場するのは八十年代アタマだよ。[5]この宇宙には生きとし生ける者は存在しないかもしれない、いや将来はわからない、地球外生物は我々とはちがった時間軸の中に生きているのかもしれないし大きさの尺度だって我々とはちがっているかもしれない、こんなことを語ってたんだから。そんなことを扱った本をどうやってみつけてきたのかは判らない。ひょっとしたら〔マンチェスター〕市立図書館かもしれない。我々の地元の図書館にはそんな本はなかった。彼は相対性理論とか量子物理学とかを、まだてんで幼い私にもわかるように説明してくれたんだ。
「土曜の朝は音楽のことでも話題になった。ボウイがどうやってひとつの『商品』として自らのペルソナを創りあげるのかといったこととか、最近はこんな曲を聴いた、とか今こういう曲が気に入ってるなんてことも話してくれた。彼はポップ・ミュージックに精通していたね」
どうやらピートはグラマー・スクールでは有名人でたくさん友人もいたらしい。勉強にはまじめにとり組んでいたようである。友人の一人にガース・デイヴィスがいた。何年もギター・レッスンを受けていて熱心で有能なミュージシャンだった。ロックンロールが大好きで、思春期を迎える前からポップ・スターへの秘かな憧れを抱いている男だった。ピートとガースは学芸会で知り合ってジェッツ・オブ・エアJets of Airを結成し、ピートはギターを、ガースはベースを担当した。バンドは教会などのような人の集まる所にはどこにでも出かけていっては演奏し自らを売り込んでいた。レパートリーにはボウイにビートルズ、ヴェルヴぇッツに加えてピートのオリジナル曲も含まれていた。後にこれらオリジナル曲はバズコックスや八十年代のソロ作品で再度とりあげられる。ピートが敬愛するミュージシャンの研究、ソングライティングの試みはこの時期に始まったというべきであろう。
1974年9月の第二週。イギリス全土では二度の総選挙が行なわれた。アメリカではウォーターゲート事件が勃発し、イギリス国内では節電を目的としてスリー・デイ・ウィークThe Three₋Day Week が施行され、オイルショックが長引いていた(中東情勢の不安定さが引き起こしたものだった)。サッカー・ワールド・カップでは開催国ドイツが優勝し、モハメド・アリがキンシャサの奇跡でジョージ・フォアマンに勝利し、ユーロヴィジョン・ソング・コンテストでアバが優勝し、ロンドンでは最初のマクドナルドがオープンした。
イギリス・シングル・チャートでは、オズモンズの「Love Me For Reason」がトップを取り、第2位には(1973年不可解な死を遂げた)ブルース・リーの雄叫びをフィーチャーした「Kung Fu Fighting」がランク入りした。他には一連のモータウン・ナンバー(スリー・ディグリーズの「When Will I See You Again」が第7位、ダイアナ・ロスとシュープリームスの「Baby Love」は14位)がチャート入りした。その一方でヒュース・コーポレーションの「Rock The Beat」やジョージ・マックレイの「Rock Your Baby」に代表されるように、ディスコが台頭し始めてもいた。
前年には若き日のトニー・ウィルソンがイギリス北西部にあるローカルな、地方のニュース番組『Granada Reports』の若き司会者として登場した。この年には刑務所を舞台にしたコメディー番組『Porridge』が放送を開始し、土曜朝には子供向けヴァラエティ番組『Tis Was』も放送を開始したが、これはほどなく「夜のお務めを終えた朝」を迎えてリフレッシュしたい大人向けの、いってみれば向かえ酒的な内容に転換することになる。一方革新的かつシュールリアリスティックな寸劇番組『Monty Python‘s Flying Circus』が最終回を迎えた。
1974年の映画といえば、災害をテーマとした『タワーリング・インフェルノThe Towering Inferno』や低予算ではあったが大変な反響を得た残虐ホラー作品『The Texas Chainsaw Massacre』がある。一連の『告白Conffession』シリーズ最初の作品である『Conffession of a Window Cleaner』もあったが、これはイギリスならではの小粋な「海辺からの絵はがき」ともいえる、ある種ノスタルジックな内容だと評価された反面、七十年代的なうっとおしさに満ちウィットの欠いた描写は「Carry On」(訳注:戦争中の、日本でいう欲しがりません勝つまでは的なキャンペーン)の再現だと酷評もされた。
こんな中、ピーター・マクネイシはボールトン産業技術インスティテュートで電気工学とコンピュータ部門の高等専門クラスで学ぶことになった。
七十年代初頭、イギリスはジェネレーション✕、いわゆる若者たちには過酷な時代であった。それはジェネレーションYからZへと下るにつれてますます過酷さを増していくことを意味した。五十年代六十年代を境に失業者数は増大していた。燃料は不足し、停電も頻繁に起こった。商店の休日は日曜のみならず平日の半分にもおよび、TVは夜も早い時間に放送終了となるのであった。ナイロン製の下着にシーツ、不快なニオイのする殺菌ミルク、固いトイレットペーパー。当時のイギリスには2.5個分のTVチャンネルしかなかった。BBC1,ĪTV、そしてぶ厚い健康保険証をぶら下げツイードの上着に革の肘当てを身につけ、どこから見ても冴えない売れない芸人が演じているような人間がとり仕切っているイメージをかもし出す、放送時間限定のBBC2である。
エアコンを持っている家などまずなかったし、未だに白黒テレビが一台だけという所帯が圧倒的に多かった。加えて北部ではこれもごく一部であったベランダ付家屋のトイレは屋外に設置され、屋内を見るとベルファスト製の流し台の上にアスコット製のヒーターがあるなんていうのはまずありえなかった。お日様とお花が約束された六十年代は遠い昔であった。サマー・オブ・ラヴはさわやかなカルフォルニアでは満面開花しロンドンの限られた場所に伝わったのかもしれないが、イギリスの大半の地域は戦後のモノトーン一色のままだった。
イギリス北部と南部の隔たりは今日かなり小さくなっているけれども、七十年代初頭のそれは厳然たるものがあった。北部人と南部人は互いをまるで信用していなかった。南部人は北部人を無愛想かつ粗野であると考え、北部人は南部に関係する者を無能かつ不真面目であるとみなした。こうした現象は食料品のブランドや日用品、液体食器用洗剤にもおよんだ。それぞれの自国産のビールの特徴は北部と南部の対立を象徴するものであった。南部人は北部産Baddingtonsをどろどろしてうす汚いとみなし、北部人はWatneysをねぼけて小便くさいとののしった。ロンドンの水にでさえ、マンチェスター人は不満を訴えた。その水はまともに蒸留しているとは思えない、これでは手を洗うときに石鹸なしではいられない、用たしも出来なくなって便秘になる、と。
ファッションは六十年代以降由々しき方向へ流れていった。服飾デザイナーはこれまでのサイケデリックかぶれの十年間が過ぎ去って挫折感に苛まれているようだった。1975年当時主だった店で手に入る服の種類は驚くほど少なかった。女性はA-ラインかマキシ・スカートをアメリカン・タン製のタイツと共に身につけ、重たそうな靴を履いていた。男性はこれ見よがしなおっぱいをくすぐるようなエリとキッパー・ネクタイを身につけていた。もみあげはできるだけ長く伸ばし、ズボンは裾の広いものしかなく、広いものほどスタイリッシュとされた。とあるノーザン・ソウル・ファンはぼってりしたオックスフォード式バッグを欲しがったが、彼らにとってそれがオシャレなことにちがいなかった。合成繊維などの生地で手に入るのはベージュに濃い緑色、泥っぽい色しかなかった。庶民階級(十代も含む)はこうしたアパレル業界を受け入れるしかなくこれはダメだと方々から批判が起こった。キングス・ロードにあるセックス[6]やグラニー・テイクス・ア・トリップ[7](訳注:本文綴りはGrannies Taking Tripsとなっているが、正しくはGranny Takes Å Trip)には数寄者が大勢たむろしていたが、首都ロンドン以外にはこのての連中は皆無だった。ヴィヴィアン・ウェストウッドとマルコム・マクラレンは気どったチェルシーの店でボンデージ用品や性的倒錯者的な服をバーゲンセールで売っていたが、同時期にマーケット・ストリートで手に入る服といったら変テコなリトルウッズ製のナイロン生地の女性用下着であった。
約束された十年を経た後のポピュラー・ミュージックもまた、頭打ちの状態にあった。キテレツな服装とステージ演出、達者ではあるが退屈なソロとワケのわからぬ歌詞を延々と聞かせるプログレが音楽誌を支配し、チャートはスタジオででっちあげたバブルがㇺ・ポップ、粗製濫造のレコード、一発屋で満ちていた。ウォムブルスは七十年代前半に最もよく売れたバンドの一つであり、1974年度М・М誌上におけるもっともよくシングルを売ったバンドの栄誉を得た。パーティー仕立てで過剰なホストぶりで知られる『トップ・オブ・ザ・ポップス』は「Shang-Å-Lang」を放った徒花ベイ・シティ・ローラーズのような連中も混じっていたけれども、十代の若者にとってポピュラー・ミュージックの看板的番組だった(当惑させられるが、理想通りの音楽やコメディ関連の番組はなかなかお目にかかれないということである。グラナダTV所有のマンチェスター・スタジオでの収録にはしょっちゅうタータンチェックに狂った連中が押しよせてはウットリし、時には金切り声をあげてスタジオを占拠し、追い払われたりしていた)。1977年、ボランの『マーク・ショウ』が放映開始されたがワン・シーズンのみで打ち切りとなったのは、小柄で螺旋状の頭をしたシンガーの死のためであった。
さて、AОR(アダルト向けのアルバムと、アダルト志向の人両方を意味する)の音楽ファンにとってより洗練された番組として『オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』があった。七十年代初期の若者は、これを見たがるのは髪がグレイ(grey)になってからだからその名が番組についたのだと思っているようだが、実際はティン・パン・アレイのおエライさん、つまりグレイのスーツをまとい、たいがいはお年を召した方々が新曲をひとくさり聴いてハミングするか口笛を吹いて(whistle)くれたらその曲はthe Old Grey Whistle Testに合格、という意味だったのである。
そんな時代に、パンクが殴り込みをかけてきたのである。あたかも新鮮な空気を吸い込むかのように。
しかし当時のパンクはロンドンを中心とする極く狭いエリアで展開しているに過ぎなかった。それがセックス・ピストルズと、(ケント州郊外からやって来た)ピストルズの親衛隊ブロムリー・コンティジェントで、バンドはロンドンとその周辺を気のみ気のままな、かつ暴力的なライヴを展開し、ブロムリーは熱心にそのライヴに通っていた。パンクの存在が注目されることになったきっかけは1976年12月1日、午後のお茶の時間、ゴールデンアワーでのテレビ出演であった。おそらく酒に酔っていたビル・グランディと舌禍事件を起こしたのである。一般紙は一斉にこの事件をとりあげ、「パンクは」ポピュラー・ミュージックのいちジャンルを表すものであると同時に、ひとつの姿勢、一つの生き様を表現する手段として認知されるようになっていった。
パンクは、ヴィクトリア朝以降の時代に生まれた祖父母や親の世代をことごとく嫌悪した、より若い、より暴力的な若い世代の心情をがっちりとつかんだ。当時の若きパンクスがいかに危険な連中であったか。テレビで四文字言葉が飛び交い、ラモーンズTシャツがプライマークPrimark(訳注:ショッピング・モールの名称)で、髪を緑に染める染料がパウンドラウンドPoundland(訳注:ポンド・ショップ。日本でいう100円ショップ)で買える今となってはなかなかピンとこないだろう。パンクスが初めて新聞の見出しを飾ったとき、セックス(そうセックスだ!)・ピストルズという名前ですら衝撃的だったのだ。時代は変わったのだ。[8]
さて、1974年のグレーター・マンチェスターに思いをいたそう(グレーター・マンチェスター自体が、まだその年の4月1日付でランカシャー州の一部を合併してできあがったばかりであった)。グレーター・マンチェスター北西部の工場の街出身のピーター・マクネイシは感性豊かな、知的好奇心旺盛な学生として勉学に勤しむ一方、ランカシャー出身の保守的なポップ・ミュージックには目もくれず、熱心に聴いていたのがヴェルヴェット・アンダーグラウンドであり、他にはきらびやかなロキシー・ミュージック、バイセクシュアルを貫いたデヴィッド・ボウイであり、さらに早くから入れ込んでいたのがボランとビートルズだった。まだこの頃は両親のいる実家に住んでおり、新しい学生生活に前向きに取り組んでいた。グレーター・マンチェスターの反対側に暮らしていた若きステファン・ディグルもビートルズとスモール・フェイセズに影響されてギターを手にしていた。現代美術と詩も含めた文学にも興味を示し、短期間にたくさんの職場を転々としたが、自分に仕事は向いていないと悟るに到った。多くの時間を両親の部屋にあるベッドの上でⅮ・H・ロレンスを読み耽り、やがて兄弟と兼用の寝室で自作の歌を、オープンリール式のテープ・レコーダーに録音するようになった。自分のバンドを持ちピート・タウンゼンドのようになりたいと思い、父に六本弦の張ったエレクトリック・ギターをねだったが、年長者の父はまちがってベース・ギターを手に入れてしまった。父が職場での情報を基に手に入れたのだった。スティーヴはベースの練習をする破目になった。
同じ頃、マンチェスター北部郊外プレストウィックの裕福な家にスティーヴ・ガーヴェイというわんぱく少年がいた。彼も駅の警備員を含め職を転々としつつ腕達者なベーシスト兼ギタリストに成長しつつあった。そして十代のジョン・マーはまだОレベル(訳注:中等教育修了資格)修得のため南マンチェスターの緑多いウァレイ・レンジにある旧態依然としたカソリック系男子校に通う身にあった。彼も独学でギターを練習していたが、ドラム・スティックを握ることは(多分クリスマスのお祝いをする時以外)なかった。
ボールトン・インスティテュート二年目のピートは、心理学科を落第して人文学科に転入していたリーズ・グラマー・スクールの卒業生ハワード・トラッフォードに出会う。トラッフォードはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの熱狂的なファンであり、インスティテュートの掲示板にヴェルヴェッツの中でも殺人、フェラチオ、色情狂の倒錯者、静脈にドラッグ注射を(「俺はヤクが欲しいんだ」)、といった最も過激なテーマを扱った「シスター・レイSister Ray」-因みにこの曲のスタジオ・ヴァージョンは17分29秒におよび、残されたライヴ・ヴァージョンの中には三十分を超えるものもあり、聴く者にとってひとつの踏み絵といえる[9]-を「自分の解釈」で演奏したい者募集という告知を出した。その告知にはストゥージズも好むとあった。
セックス・ピストルズがロットン、マトロック、ジョーンズ、クックという古典的ラインアップでセイント・マーティンズ(グレン・マトロックが通っていたアート・スクールであった)で最初のライヴを行なった1975年11月6日より数週間前、1975年10月にピートとハワードが最初に練習を行ったという記述は、パンク年表には全く登場しない。
ハワードが後年インタヴューで述べているが[10],バンドを始めたきっかけは「インスティテュートにいたバンドがどれも面白くもなんともなかった」からだった。ピートとハワードは「面白くもなんともない」状況にもの申したのである。同じインタヴューでピートは語っている。「僕らは道ゆく人たちをよくビビらせていたよ。髪を赤茶色に染めてたからね」
ハワードも次第に方向性が固まりつつあったが、マンチェスターではカネがなければなにもできず、ピートも語っているように常識破りの連中は「人々を立ち止まらせ嫌悪の眼差しを向けられる」のである。大げさだと思われるかもしれない。ここはロンドンでもなくマンチェスターの主要都市でもなかった。しかしボールトン(とレー)では、LS・ローリーの絵画の如く、人々はみじめな暮らしをしていたのだ。
ピートとハワードが音楽で自己表現を始めてからしばらくして、二人はピストルズという南部のならず者が乱暴狼藉な活動ぶりで音楽誌から注目され始めていることを知った(掲載されていたのは、ピストルズに援助を申し出た主役バンドの機材をメチャクチャにしたことを伝える記事だった)。その、エディ・&・ザ・ホッド・ロッズの前座であった初期ピストルズを紹介した記事を読んだピートとハワードは大いに興味を持った。記事にはピストルズのトレードマークになったロットンの暴れっぷりばかりでなく、ブロムリー・コンティジェントの名物女性であったジョーダンのセミストリップ・ショウも載せられていた。現在はたいがいの繁華街にはラップ・ダンシングlap₋dancing(訳注:ストリップ・クラブで行なう、客に触りながら踊るダンス)を供するクラブがあり、音楽ヴィデオも三分間のソフト・ポルノ映画のような内容のものであっても珍しくないが、七十年代のポップ・コンサートで女性が上半身裸で登場することがいかに衝撃的なことであったか、理解するのは困難である。
2月のあるどんより曇った週末。マクネイシとトラッフォードは決意を固めた。レンタカーを借りロンドンまでピストルズを観に行くことにしたのである。ロンドンには着いたがピストルズがその週末ライヴをするのかわからず、二人はNME誌にいたニール・スペンサーに問い合わせた。ニールは二人が気に入っていた記者で、二人にピストルズのマネージャー、マルコム・マクラレンがキングス・ロードの西外れにある「ワールズ・エンド」といういかがわしい店で「セックス」のアウトレット品を販売していること、個人経営の店が潰れてその跡地に公営住宅が建てられていること、但しその家の造りはちんけなベランダ付家屋であることを教えた。
二人は「セックス」にいるマルコムに会いに行き、ピストルズが週をまたいで二回のライヴを行ない、前座に政治的にもヤバイことを言うスクリーミング・ロード・サッチが務めること、一日目はハイ・ワイエムにあるバッキンガムシャー生涯学習カレッジで、二日目はセント・アルバーンズにあるハートフォードシャー美術カレッジでライヴを行なうこと、などを聞き出した。カレッジとアート・スクールは当時ロクデナシを唯一受け入れる場所であり、ここから音楽の変革と悪名が芽吹くことになっていくのである。
二回のショウは期待にたがわぬものだった。ピストルズが演奏場所に苦慮していることを知ったハワードはマルコムに、もしやる気があるならマンチェスターで演奏してみないかともちかけた(ピートはすでにジェッツ・オブ・エアー時代にアマチュア興行主として貴重な経験を積んでいた)。当然マルコムはこの二人のプロモーター志願者に任せることにした。そしてこのライヴは単にポップ・ミュージックやマンチェスター音楽シーンだけでなく世界中のポップ・カルチャーを今日に至るまで変革することになった。
ロンドンから戻ったピートとハワードはライヴの計画を実行すると共に、自分たちもピストルズのようなバンドを結成しようと思い立った。バンド名はバズコックスに決まったが、その由来は偶然ロンドンで『タイム・アウト』誌に掲載されていたイヴェント一覧表の一節から取られた。見出しには「ブンブンうなるチンポ!BUZZ,Cock!」とあり、架空の女性ロック・バンドの波乱万丈のテレビ・ドラマ『ロック・フォリーズROCK Follies』の紹介だった。ピートたちは歌姫ジェリー・コヴェントンの「Evita」や野心家だったが不遇であった酒焼けした声のルーラ・レンスカの歌を練習した。
ここで脇道に反れるが『ロック・フォリーズ』について一言」しておこう。このドラマは安直でいきあたりばったりな内容ではあったけれども、驚くほど優れた音楽が生まれてもいた。ロキシー・ミュージックの木管楽器の鬼才であったアンディ・マッコイの手による、可愛くもなければ細身のジーンズも履いていない三人のヒロインたちが歌うドラマ挿入歌がイギリス・チャートNО1に輝いたのである。女優の歌った歌がドラマのサントラ・デヴュー・アルバムの挿入歌になるというのも稀な話であった。このドラマは実験的要素を持つ新曲を産もうと取り組むバンドを描くことで音楽のクロスオーバー化うながす苗床となった。ドラマのストーリーは当時物議をかもした。ベッド・シーン、描くことをタブー視されてきたドラッグ問題、ある場面では三人のヒロインがポルノ映画に主演させられそうにもなったりした。しかし彼女らは自らの倫理観に忠実に行動し、ストーリー全体が男女平等の思想に貫かれてもいた。『ロック・フォリーズ』は現在もその新鮮さを失っておらず、YouTubeで見つける価値はある。この作品は七十年代中期に文化・社会モラルが転換し始めたことを切りとった歴史ドキュメントとしての価値を持っているのだ。
セックスとノイズを信条としたバズコックスの名はパンク・グループにぴったり、しかもそのいかがわしさは巧妙に表現されていたからバンド自身の手によるポスターやチラシをばらまいても、公共のテレビ出演をする際にも、レコードが小売店に並んだときにも、もめ事にはならなかった(バンド関係者は深く考えていたわけではなかったが)。
バズコックスは4月1日、自分たちの通うボールトンのカレッジで最初のライヴを行なうことにした。ヴォーカルはハワード(デヴォートの苗字は彼が出席した哲学の講義に出てきた歴史上の人物からだという)、ギターはピート(シェリーという苗字は彼自身が女の子として生まれたときにつけられる予定に名前だったということだが、ロマン派の詩人シェリーからではないかとする見方もありだろう)が担当することになった。
この日だけの助っ人としてベースにピートの旧友ガースを、地元の無名バンドからドラマーを呼び、短いステージを一回こなすことにした。わずかな数のオリジナル曲に六十年代のナンバー、グラム・ロックのカバーも交える手はずであったが、充分に練習を積んでおらず、当日はオリジナル曲をまともに演奏できなかった。ようやくノリがよくなってきたところでショウのプロモーターによりステージを引きずり降ろされたのだった。当時、労働者クラブworking man’s club(訳注:19世紀イギリスから生まれた、労働者に娯楽を提供する施設)や結婚式場で演奏するだけで満足していたガースは、いわゆるパンク然としたサウンドにピートの書く淫らで思わせぶりな歌詞ではバンドが立ち行かなくなるとピートにクレームをつけた(もっとも後になってその意見を撤回はするのだが)。
まだバンド体制が固まっていないこの時期、リズム・セクションがいないことを痛感した二人は、マンチェスター・レヴューthe Manchester Reviewのドラマーとベーシストの広告を打った。
その一方でデヴォートとシェリーはピストルズのショウ実現のため、マルコムと討議を重ねた。三人が選んだ会場はマンチェスターズ・レッサー・フリー・トレード・ホールMannchester‘s Lesser Free Trade Hallで、街のハル・オーケストラの本拠である気取った、フリー・トレード・ホールでも上級クラスの会場だった。[11]F二人はマルコムを説得して会場の使用料を払わせ、チケットの印刷をし、正価50ペンスのチケットを独力で売った。母校ボールトン・インスティテュートがピストルズを拒絶したため、二人は学生自治会に接触しピストルズのライヴを実現させた。すでにピストルズの評判はいやましに高まっており、識者面した連中は失墜し、シェリーたちは南東以外での初のピストルズ公演を実現させる栄養を手にしたのだった。
ショウの開催は6月4日に決定した。マルコムはA3サイズのポスターを数種類制作した。これは彼のアート・スクール時代の素養が生かされたものであり、ピートとハワードは街中にポスターを貼りまくった。ショウ当夜、マクラレンも宣伝をしようと自ら黒い革ズボンをずり下ろし会場の外を歩き回った。[12] その時マクラレンが話しかけた一人にスティーヴ・ディグルがいた。信じ難い偶然だが、スティーヴはマンチェスター・レヴューに出ていた、ピートらとは別のギタリストからの広告を見て、相手と会う約束を果たすためにそこにやってきていたのである。マクラレンはスティーヴをフリー・トレード・ホール近くのコックス・バーにつれて行き、一杯ひっかけながら事の次第を聞いた後にこう言った。「そいつなら会場でチケットを売ってるぞ。会って話してこい。奴はおまえをアテにしてるから」
ちょうどその時、ハワード自身(・・)が(・)地元紙に出した広告を見た別のベーシストによる、ピートとハワードにピストルズ・ショウの会場で会いたいという返信を受けとっていた。つまりスティーヴが現れたとき、ピートとハワードはスティーヴをそのベーシストだと思い込んだのである。シェリーとディグルはちょっと話して互いに誤解していることを悟ったが、二人はウマが合った。まだピストルズのショウは始まっていなかったがその話題で盛り上がり、ショウは殆んどダマスカスDamascene鋼(訳注:古代インドで造られていた鋼材。その優れた技術故1600年余りを経ても錆びない鉄鋼材として知られる)を得たかのようだった。スティーヴには今後の方向性がはっきりと定まった。それがパンクだった。新しいザ・フーをつくるのを止め、全く新しい音楽をやることに決めたのである。翌日、デヴォート、ディグル、シェリーはロウワ―・ブロウトン・ロードにあるハワードの下宿先に初めて集合し、確かな手応えを感じた。以心伝心の間柄というべきか。音楽的志向も完璧だった。こうして我らが知るバズコックスが誕生した。彼らが言うように、これは単なる偶然なんかではなかった。
この地味な上流階級向けの会場で行われた最初のピストルズ公演にはどれくらいの人が集まったか定かではない。ある人は40人くらいしかいなかったというし、またある人は100人前後だったと推定している(ハワード・デヴォートはもっと客は来ていたと言っているが、当夜の彼は経理係としてチケット切りをしていたことを考えておいたほうがよいだろう)。ともあれ少なくともホールの賃貸料を回収することのできたマクラレン、デヴォート、シェリーは二度目のピストルズ公演を同じ会場で7月20日に行なうことにし、バズコックスが自らサポートを買って出た。しかし問題があった。ドラマーがいなかったのである。
この頃、若きジョン・マーはこの世にはあまたギタリストが存在することを痛感し(クラッシュの歌詞にもあるとおり、五人のギタリストに一本しかないギター、なのである)、興味はドラムスに移り、バンド結成につきパーカッション募集と言ってくる奴が現れないだろうかという気持ちを膨らませていた。新しい楽器が両親のみならず郊外の近隣住民にも歓迎されないのは自明のことであったから、マーは大音量でドラムスの練習に専念するためにも、加入できるバンドを血眼になって探していた。そんな彼の目にМ・М誌の広告が飛び込んできた。若い女性ドラマーがデヴォートに、あるイヴェントの帰りにたまたま誘われたが、彼女とはソリが合わず、マーにお鉢が回ってきたのである。物理化学のОレベル認定を失効するギリギリの五年生であったジョンの元にその週末、ハワードがジャム・セッションに招待のため参上したが(ケータイが登場する20年余り前のことであり、イエデンすら多くの所帯にはなく、ジョンの家も例外ではなかった)、この若いドラマーの音を確かめる前にすでに全員が意気投合し、マーはめでたくメンバーになった。
バズコックスは直ちに週一回の練習を始め、一か月かからぬうちにピストルズのサポートとしてデヴュー・ライヴへの準備を整えた。マーはわずか六週間の独学で非凡なドラマーであることを立証してみせた。Оレベル修了後、マーは内定していたクリスチャン運営の金融機関への就職を辞退したのだった。
レッサー・フリー・トレード・ホールで行われた二度目のピストルズ公演には、はるかに多くの聴衆が詰めかけた。パンクのことを全くわからない者たちが一回目の公演の評判を確かめたくなったのだ(奇妙なことに、ショウの入場料が最初の50ペンスから1ポンドにハネ上がったのであるが、ショウは中止されることはなかった)。マルコム・マクラレンは口喧しいマスコミ連中と地元マンチェスターのテレビ局のニュースキャスター、トニー・ウィルソンをショウに招待した。ウィルソンはグラナダ・テレビ北西支部局で自身の音楽番組を持っており、ハワードは彼の元にでも・テープを送り付けてヒンシュクを買ったことがあった。バズコックスの面々はライヴを緊張することなくこなすことができた。もうひとつの前座だった自惚れ屋で自意識過剰(ワイゼンショア[13]出身のチンピラのグラムかぶれのティーン)スローター・&・ザ・ドッグスよりはるかにマシな出来だったが、ピートは大事にしていた安物のギターをたたき壊した。バズコックスはロンドンのマスコミから注目されサウンズ誌に記事が載った。それほど好意的な内容でもなかったが、全国区にその名が知られるきっかけになっただけでも十分だった。バンドは練習とライヴに明け暮れ、8月の終わりに今度は「お返しに」ピストルズから出演を依頼された。両バンドに加えクラッシュも交えてイスリントンにあるスクリーン・オン・トレンドという劇場でのライヴだった。パンクの台頭はもはや無視できないものとなりつつあったがこのライヴは一層それを印象づけることになった。バズコックスはめきめき腕を上げ、自信をつけつつあった。サウンズ誌には芳しくないライヴ評が載ったこともあったが、おそらく借り物の機材で演奏した時だったのだろう。メディアにとり上げられるだけでもめっけものだと彼らは思っていた。
スクリーン・オン・トレンドから三週間後、彼らはオックスフォード・ストリートにある100クラブでの歴史に残るパンク・フェスティバルに出演した。二日目彼らが出演する頃には観客の大半は帰ってしまっていた。おそらく帰りのバスの時間に間に合わなかったのだろう(モッズがランブレッタとヴェスパ、ロッカーズとメタラーがホンダとスズキなら、パンクス御用達の交通手段は地下鉄とルートマスターRoutemaster⦅訳注:ロンドンを走っていた二階建てバス⦆であった)。それなのに北部の連中はキャロライン・クーンの書いたМ・М誌のライヴ評をよろこんで読んだのである(パンクスとは異なりクーンはタクシーに乗れるご身分であったから会場に最後まで残っていたのだろう)。一ヶ月後、バンドはレボリューション・スタジオで普段のステージそのままにデモ・テープを録音、12月にセックス・ピストルズのサポートとして「アナーキー」ツアーにダムドに代わって参加した。センシブルとヴァ二アンがダービーの地元議員からライヴ出演前にワイセツ行為をしたと嫌疑をかけられ拘束、ダムドはツアーから降ろされたのである。釈放されはしたがダムドはパンクとは呼ばれなくなってしまった。
バズコックスの四人は自身最初のレコードを発表することにした。ⅮIY(訳注:自分でやれ)の精神をピストルズ公演で実現させたことで身につけた今、彼らにはレコード発売を躊躇する理由はなくなっていた。自分たちにふさわしい簡潔なやり方で四曲を選び、7インチ盤にまとめ上げ、友人家族親類から資金を募った(今日でいう「クラウドファンディング」だ)。マンチェスターにあるインディゴ・スタジオを「繁忙期でないdead time」クリスマスから年末にかけての、働くには適さない期間に使用したおかげで費用が安上がりに済んだ。
バズコックスがプロデューサーに選んだマーティン・ハネットはマンチェスター音楽シーンの多才な名士としてすでに一家言を得ていた。化学の学位も取り電子工学にも興味を持っていた。ベーシストとしてポール・ヤング(ティーンのハートをときめかしたポール・ヤングとは同名異人である)と後にスーパー・グループとなるマイク+ザ・メカニックスに在籍してもいた。プロデューサーとしてのキャリアはまずパブでのライヴ・エンジニアから始まり、妻のスザンヌ・オハラと共にマンチェスターにある「社会主義的音楽代理店」ミュージック・フォースの一員となった。ミュージックは興行主や演奏家たちにとって「よろず屋」であり、音響設備や楽器を賃貸し、チラシにポスターに宣伝、さらには音楽家の就職斡旋まで行なっていた。
後にハネットはファクトリー・レコーズの重鎮としてジョイ・ディヴィジョンの二枚のスタジオ・アルバムをプロデュースしている。トニー・ウィルソンの批判的継承者と目されるようにもなるがその理由として、ハネットのプロデュースしたハッピー・マンデイズのアルバム『バンドBUMMED』(訳注:がっかり、うんざり、の意)がある(仄聞するに、マンデイズが望んだ二作目のアルバム・タイトルを『FUCKED』とするリスクに目をつむりこれは売れると見込んだ程の先見性のあるウィルソンですら『バンド』には難色を示した)。マンデイズのプロデュースをハネットはフリーランスという形で行なったのは1992年、「財政的問題」から、レーベルでの職を失ったからである。結局はハネットの慎慮で法廷には持ち込まれずに済んだのではあったが。
ハネットは大変な放蕩者で、マンデイズは1988年発表のアルバム制作時の六週間、飲んだくれの彼を静めようと大量のエクスタシーを与えていたという(他の者ならどんなに酔っ払っていようがハッピー・マンデイズは気にもとめないだろうが)。ハネットの人生は1980年5月、イアン・カーティスの自死により一層深刻化したとみてまちがいないだろう。仕事をするには扱い辛い、暴君なプロデューサーではあったけれど、ハネットは若者たちにとってある種のメンターだったのである。カーティスの死からほどなくして、ハネットはU2のデヴュー・アルバム『ボーイBOY』をプロデュースするチャンスを自らフイにした。周囲との軋轢が原因だった。もしこの仕事をモノにしていたら、彼のキャリアと、たぶん人生も、はるかに違ったものになっていたかもしれない。しかし当時のU2はまだまだ駆け出しのポスト・パンク・バンドにすぎなかった。現在のU2は有数のビッグ・ネームであり、なおも現役であるが。
ピートの父もインディゴ・スタジオにいたが、それは「クラウドファンディング」が無駄にならないよう監視するためだった(父が一番協力的な投資家だったのである)。バンドは精力的かつ効率的に作業を進め、四曲を一日で完成させた。1000枚がプレスされ、スリーヴに使用される白黒写真撮影用の照明の調整に数時間を要した。デザインはバンド自身とマネージャーのリチャード・ブーンが共同で担当。ブーンが自前のポラロイド・カメラで写真撮影をした。四曲入りの7インチEPの価格は1ポンド。マンチェスターではヴァージンの、ロンドンではラフ・トレードの直営店で販売され、(ラフ・トレードの配給で)メイル・オーダーも受け付けた。
EPは音楽誌とBBCの反体制的なDJのジョン・ピールから注目され、1977年に発売されたオリジナル盤はトータルで16000枚を売った。1979年にニュー・ホルモンズから再発されてイギリス・チャートに六週間返り咲き、31位まで昇った。秀抜なインディペンデント・レーベルのミュートから1999年にCD再発もされ、2017年にはヴィニール盤で今度は新興インディのドミノから40周年記念盤として発売、当然のようにフィジカル・シングル・チャートで№1に輝いた。
ピートの甥のハワードの回想:「憶えているのは『スパイラル・スクラッチSpiral Scratch』のレコーディングには四時間とかからなかったことだね。ピートの親父さんもいて目を光らせていたっけ。スコットランド人だったからね(訳注:スコットランド人はケチだというイメージを指しているのであろう)。スタジオの時間をちょっと気にしていたな。ピートは「ボーダムBoredom」の二音だけのギター・ソロに気合いを入れていた。私は「何だよそれ」って言ってしまったよ。音が二つだけなんだから!時は刻々と過ぎていき、ジョニーおじさんは癇癪を起した。費用がかさむのがたまらなかったのさ。ピートは何度も何度もくりかえして弾いて最後の一分でやっとモノにした。レコードは順調に売れてジョニーおじさんの肩代わりした分どころか二回目のプレス費用を十分に賄えたんだ。
「ピートはビジネスに関しちゃ抜け目なかったよ。インディへの道を切り開いて他のバンドのお手本になったんだ。自分たちでレコードを出したんだからね。メジャーなレーベルと契約したときピートは決心したんだな。業界に使われるんじゃなく使ってやろうってね。
「大した男だなって思ったのはもう少し後、1980年くらいだったか、ピートは10000ポンド払ってオーストラリアから機材を買いこんだんだけど、全部エレクトロニクス関係の機材でさ。ドラムマシーンとかそういった類いのやつ。ヒューマン・リーグがアルバム[14]一枚作るときに三週間レンタルして、倉庫の保管料も含めて元は十分にとったんだから。ピートはホント利にさとかったんだ」
最初のレコーディングは成功に終わったが、デヴォートはバンドにいては学校を落第すると思っていた。この六ヶ月バンドにかかりっきりになっていた彼は単位を取ることに専念することにしたのだった。当時ポップ・スターになるというのは生活を不安定にし、かつ道楽以上のものにはならない、長続きはしないだろう、ということを意味した。悩んだ末に彼は学業優先のためバンドを脱退したのだった。しかし(無事に学位を取った後)一年もしないうちにデヴォートはマガジンを結成し、シーンへの復帰を果たすことになる。
残された三人はデヴォートの脱退に動揺したがすぐにバンドをたて直し活動を継続させていった。シェリーはギターと共にヴォーカルも兼任し、ディグルはセカンド・ギターに昇格となった(リズム・セクションでいるよりフロントマンの一人になる方を選んだのである)。そうなるとベーシストが必要になる。当然シェリーが声をかけたのがジェッツ・オブ・エア(訳注:原著ではJet)の同僚でその後も交流を続けていたガースであり、すんなり
穴は埋まったのだった。
新体制となった1977年のバズコックスはライヴに明け暮れ、パンク・シーン注目のバンドとなった。「ホワイト・ライオット」ツアーにもふさわしいバンドとして参加することになったが、ツアー中唯一の非ロンドン出身にして唯一の北部出身者でもあった。いくつかのレコード・レーベルから誘いがかかったが、「これは」と彼らが首をタテに振ったのが友好的で協力的な態度を示していた、すでに前年暮れにストラングラーズと契約を交わしていたUAであった。
しかし1977年10月、ベーシストのガースが(不本意にも自発的ではない形で)脱退した。デヴォートのマガジンに加入したばかりのバリー・アダムソンがガースの一時的な穴埋めとして何度かライヴに参加することになった。当時のことをバリーはこう回想している:
「マガジンはすでに数ヶ月前から活動していたんだが、ちょうどこの頃小休止でね。(ハワードを通して)バズコックスとは交流があったんだ。ピートとも面識があってね。連中は気前よく機材を貸してくれたりしていたな。ピートとも何度か話したことがあった。
「バズコックスはすでにいっぱしのバンドだった。バーでピートの隣りに立っていると、ピートはさっとステージまで歩いていってウールワースのスターウェイStarwayギターを肩に引っかけて弾き出して、あれにはブッとんだな。あの頃はふんぞりかえったライヴばっかりだった。レッド・ツェッペリンがアールズ・コートでやるような、屋根からPAがぶら下がってるようなやつだ。『自分の身の丈でやる』これがパンクの理念だったわけで、それは本当にすごい影響をもらったよ。それまで手にしたことのない体験だった。ステージの裏にしけこんでちんたらなんてことは決してなかったよ。客と慣れ合いなんてこともなかった。ピートは文字通りバーから直接ステージに上がって演奏していた。これこそが本来の、ステージをこなす姿勢ってやつさ。
「マガジンのオーディションを受ける前の日にベースを手に入れたっていう話は、まあ当たってるよ。ギターはかき鳴らす程度にはできたけど、ベースはやったことなかったね。たまたま古い友人とばったり会ったんだ。彼は私をウィズイントンWhithington[15]にある自分の家までつれて行った。部屋の中にはギターにベース、ドラムスと全部揃ってた。「ベースだろ?好きなの選びな」ってさ。ベースには二本しか弦が張ってなかったから、街まで残り二本の弦を買いに行った。ハワードと会う場所もそこだったんだ。彼に電話したらこう言われてしまったよ。「明日の約束ですよ」とね。私は弦を張り一晩中練習することになったということさ。木製のベッドに寄りかかってベースのネックと格闘してると、ベッドの柱にビンビン音が響いてきてね。私はもっぱら一番音の低いフレーズとかEの音、リズム・パターンをいくつか憶えて翌日に備えた。当日ハワードは「The Light Pours Out of Me」を聴かせてくれた。基本的な詩にフレーズをくりかえしてね。完璧な出来映えの曲だった。こうして私も練習に加わったわけだ。
「一ヶ月か二ヶ月たってからマガジンの活動が始まって、エレクトリック・サーカスthe Electric Circusで三曲演った。それから後はラフターズで演奏した。毎日練習してすぐにバンドはまとまってきた。私自身もしだいに自分らしく弾こうとするようになっていったよ。私たちは次第に、七十年代のプログレ・バンドを彷彿させるようになっていったね。ほら、ベース・プレイヤーが目立たない所に立って決して自分だけしゃしゃり出まいというね。極端な例を出して言うならブーツィー・コリンズがジェイムス・ブラウンの「Sex Machine」で弾いているような感じさ。私はあのレコードが大好きなんだ。それからスライ・ストーンのラリー・グラハムやアリス・クーパーのデニス・ダナウェイとかね。彼らはスゴイと思ったよ。次の日の練習に備えて私は「喰らいつく」ようにあのテのレコードを聴きまくったものだよ。
「私のベース・プレイは『スパイラル・スクラッチ』でのスティーヴと結構共通してると思った。何度か連中のライヴを観たときにもそう感じた。ガースのプレイも観察していた。彼はすごくシンプルな弾き方だったと思う。連中の演奏スピードが多分原因だよ。一小節に十回もピッキングしなきゃならんとはってね!
「バズコックスと一緒にステージに上がったら、あの連中ときたら一ステージで16曲も演ったんだ。ビックリさ。マガジンじゃせいぜい9曲ってところだったろうね。大体の曲がミドル・テンポだったから。「Shot By Both Sides」が多分マガジンでは一番早いテンポだったと思う。バズコックスの曲はとんでもないスピードだった。窓をふっとばすんじゃないかって位だったよ。私は自分の限界を超えるスピードで弾くことを要求された。彼らはワケないって思ってたんだ。できるようにはなったがね。ステージの終わり頃にはもう、腕が耐えられなくなって、手首の周りなんか三倍位に膨れ上がっていたよ!指は野球のミットのようになってしまって、ピックを思いっきり握りしめていたね。特に「ファスト・カーズ」の時はね。毎日弾き続けているためにはもう、ハッタリきかせて作り笑いをしていたよ。バズコックスで演るのは、マガジンよりもはるかにしんどかった。マガジンの時もちょっとはしんどかったけど。
「『スパイラル・スクラッチ』はハワードの叙情性が楽曲と歌いっぷりに上手く発揮された作品だと思うけれども、十代の激情と呼ぶにふさわしいドラムの味も格別だね。ジョン・マーのようなドラマーにはいまだかつてお目にかかったことはない。誰とも似ていない。私は彼の大ファンなのさ。ドラム・スティックは目にも止まらぬ早さで動きまくり、テクニックもある。あのスピード。おそるべきものだ」
ツアーから戻ると、バズコックスはベーシスト募集の広告を打った。NME誌がガース突然の脱退を報道したことを受けて、マンチェスターズ・ドラム・スタジオで行われたオーディションにはひっきりなしに「応募者」がやってきた。シンデレラの履いていたガラスでできた8サイズ(訳注:約24.4㎝)の靴に足を合わせようとする「醜悪なお姉様方」の如き行為がくりかえされたが徒労に終わった。バズコックス流のパンク感覚を解さない「音楽家」ばかりなのであった。門外漢としか言いようのない奴、「アタマのネジの外れた」ような演劇志望者、自作の歌を持ち込んだ奴、などなど。殆んど皆があきらめた頃、スティーヴ・ガーヴェイとクセの強いニュー・ウェーヴ・バンドのスマークス―おそらく南部レゲエのアンセム「Up Eh Up(Lancashire Dub)」とその奇妙な、足を高く踏みならすお決まりなダンスでよく知られていると思われる―のメンバーであるモグがやって来た。何日もかけて成果の上がらないオーディションをし続けたバンドは、ようやくお眼鏡のかなう人間を見つけ、最終的にスティーヴ・ガーヴェイに決まった。バリー・アダムソンが言うように「スティーヴ・ガーヴェイは文句なしだった。ルックスもよし、パンク的なモノの考え方も持っていて聡明、プレイの相性もバッチリだった」から、ガーヴェイが加入することになったのである。
その後の四年余り、シングル・ヒットを連発、アルバムも三枚発表しメディアにも盛んにとり上げられることになる。歴史上最高ともいえるポップ・ソングの数々もこの時代に創り上げられた。しかし今考えてみると、いや当時の中にあってもといってよいのだろうが、混沌と喧騒渦巻くパンク・シーンで生き残ることができたのは不思議である(訳注:バズコックスの解散はヴィデオ『プレイ・バック』でのピートの発言によると1981年3月6日とされている。またアルバムは『シングルズ・ゴーイング・ステディー』も加えると四枚になる)。
クラッシュは「Hate and War(憎悪と戦争)」を歌い、「Career Opportunities(出世のチャンス)」が「やってくるわけないさ」と嘆き、白人の若者に「自らの暴動を」起こせと扇動したようにみえる。ストラングラーズには家庭内暴力を歌った曲(「Sometimes」や「Ugly」)があり、下水道を走るネズミとある種の笑いを混ぜ合わせた不謹慎な表現を用いた(「Hanging Round」ではキリストが磔にされるのを肯定し、エルサレムの丘からの眺めを聖母マリアが邪魔するのをキリストは望んでいなかったのだとほのめかした)。ダムドは「Problem Children(問題児)」(訳注:正しくは『Problem Child』)ぶりを歌いあげ、「Stab Yor Back(相手を一突きにする)」ことへの欲望を示し(これはパンクの紋切り型のイメージを完璧に表現している)、「Born to Kill(生まれながらの殺し屋)」と高慢さを発揮したかと思えば、「Smash It up(潰してしまえ)」などとレコードを聴く者に説教は垂れないさ、といった具合に独特で曖昧なかつ巧妙な表現をとっているが、まるで評価されてこなかった。セックス・ピストルズの「God Save the Queen」は「全ての罪は贖われる」と公言し、大英帝国の女王でありキリスト教信仰の擁護者であるエリザベスは人間の扱いをされていないと表現した。女王戴冠25周年に発表され大変な衝撃を与えたこの曲はBBCのみならず「地方の」商業主義的「独立系」ラジオ局からも軒並みしめ出しを喰らった。1977年イギリス・シングル・チャートを見ると、いまだに腐れ野郎ロッド・スチュアートの両A面シングル(「I Don‘t Want to Talk About it」/「The First Cut is the Deepest」)が№1になる有り様であった。かつて世界最大の帝国であったのが七十年代初頭から半ばにかけて住宅協同組合による低価格住宅構想を打ち出し内乱状態にすらある状態にまで堕ちたイギリス。そんなイギリスに対する単なる罵詈雑言以上の内容を持ったピストルズの前作シングル「Anarchy in the UK」が世に出ていたにもかかわらず。
スリッツはピストルズの亜流にはならず、独自の道を選んだ女の子たちであり、消費主義への批判に富んだ(単なる愚痴ともいえる)楽曲を残した。「Spend Spend Spend」は六十年代のサッカーくじで大当たりをとり五度結婚、その後破産しアル中となったヴィヴ・ニコルソンが言い放った言葉(後に評伝のタイトルにもなった)からタイトルがとられた。他には一人の文無しを描いた「Jehovah’s Witness」にしがないコソ泥の処世訓ともいうべき「Shoplifting」がある。Xレイ・スペックスも、とりわけ若い女性の消費に対する批判を「Art₋Ⅰ₋Ficial」や「Plastic Bag」で展開した。同時にメディアによる過剰な監視が引き起こす精神疾患に自傷行為といったテーマも掘り下げられた(「Identity」は「富と名声」を得た者たちには一層身につまされる内容を持っている)。「The Day the World Turned Dayglo」(訳注:daygloは蛍光塗料の一種)は合成繊維や非有機化合物への痛烈な抗議である(リーダーのポーリー・スタイリンは「買い物袋への課税」が導入される25年前に自然環境へのプラスチック製品が及ぼす危険性を予見していたと思われる)。もちろん「Oh Bondage Up Yours!(あんた自身を縛り付ける!)」という、いかにもなイメージを喚起させる歌詞を抜きにしても、そのタイトルだけで十分刺激的な曲もあった(欄干に自らを縛りつけ馬にその身を投げ出すかの扱いをさせられてきた中産階級の女性に60年前から参政権を与えようという動きがあったが、この曲はそのアンセムともなったのだが)。
ではバズコックスはというと・・・・ラヴ・ソングを歌った。ATVの「Love Lies Limp(愛に引きずられ)」のようなアンチ・ラヴ・ソングではなかったし、ダムド六枚目の、そのままのタイトルを持つ「俺はゴミで、おまえはゴミ箱になるのさ」(明らかに性行為を想起させる最もロマンチックなメタファーといえる)と歌われたシングル曲とか、ヒュー・コーンウェルが愛とは「肉のカケラ」とたとえたストラングラーズの「Princess of the Streets」のようなネジレたラヴ・ソングではなかった。バズコックスは心のうつろいを歌った。自分たちに影響を与えたヴェルヴェット・アンダーグラウンドの実験性、イーノ時代のロキシー・ミュージックのアバンギャルド性、それ以上にマンチェスターの先輩ホリーズや同じ北部出身のビートルズが持つ性的欲求を、彼らも又音楽的に昇華してみせたのである。UA時代のバズコックスがパンクの荒波を生き残ったのは、デヴォートが実権を握っていた時代にファンとに絆ができたからだった。パンク好きは『スパイラル・スクラッチ』の、狂的なヴォーカルにざらついたギター、未加工な音処理にけだるさ、たちこめるタバコの煙やストレスを想起させる、もちろん四文字言葉も交えた歌詞を好んだ。一部の者はこの自主製作盤を世に出した直後にハワードが脱退したことでバンドを見限ったようだが(「デヴォートこそがパンクだ!」と主張している者もいる)、再編後のバズコックスはその強力なライヴと練りあげられた楽曲を武器に、さらなる支持を得た。「古典時代(クラシック・ピリオド)」とされる楽曲の数々は所謂パンクに則ったものではなかったが、バズコックスはパンクの持つもう一つの特性である繊細さを備えていた。その繊細さをDIYであふれんばかりの情熱、レコード制作での生真面目さで示したのである。
バズコックスは「あの時代」を画する存在として登場したが故にパンク・バンドと言ってよい。ハワードとピートはパンクの持つ強さ、偶像破壊と民主主義の精神に心惹かれた。それは「誰だってできる」という意思表示であった。そしてピートの楽曲の大半は、一般的な意味でのパンク・ソングではなかった(「オー・シット」やUA末期の鬱状態と哲学的苦悩、疎外感を扱ったごく一部の曲を除いては)。簡潔で歯切れ良い曲構成、情熱的で性急なノリ、buzz₋sawギター。曲の表象はパンクなスタイルをまとっているが、その歌詞の内容とメロディーをパンクの鋳型にはめ込むことはできない。もしバズコックスが五年早く結成されていたらグラム・ロック・バンドと形容されていたかもしれないし、四年遅く活動を開始していたらニュー・ロマンティクスと言われたかもしれない。ピートが十年早く生まれていたらビート・バンドの立役者として大変な人気を得ただろう、と思うのは飛躍しすぎか?
例えば「ホワット・ドゥ・アイ・ゲット?」この古典とも言えるシェリー・ナンバーにブラス、ウォーキン・ベース、後ノリのギター・カッティングをアレンジすれば立派なスカ・ナンバーになるだろう。テンポを落として少し「スィング」させ、(お決まりのフレーズとか「マイナー」な感じとはちがった落ちついた味わいの)アドリブとブルー・ノートを加え、ベース・ギターをダブル・ベースに、ギター・ソロをサックス・ソロに置き換えてみると、見事なジャズ・スタンダードになるだろう。あるいは四ピース・ロック・バンドの代わりにピックを使わないフィンガー・ピッキングのギターとスルドsurdo(ブラジルのベース・ドラム)で第二拍を強調する反復ビートを演奏できるようにし、これにポルトガル調のささやくような女性ヴォーカルを加えれば、一級のボサノヴァになるだろう。ピートのピュアで含蓄に富んだポップ・ソングは歌い手のジャンルを問わず、その完成度の高さをまざまざと示しているのだ。
バズコックスは又、パンク・ファッションに追従しなかった。パンクという殻の中に閉じこもることはなかったのである。彼らはウェストウッド印のごたいそうな服やいかにも「Ⅽ&Aの常連」が好んで手に取るようなボンデージ・ズボンの目の粗い薄手の生地、「オッパイ」Tシャツを身につけることはなかった。同時代の連中とは明らかに彼らはちがっていた。身だしなみはきちんとしていたし立ち振る舞もしっかりしていた。空港のビジネス・クラスの待合室でゲロを撒き散らすようなことはしなかった。そう、彼らは北部出身の若者だったのだ!
彼らのレコード・スリーヴもパンクのトレンドに反していた。クラッシュのファースト・アルバムのカバーはいかにもな、鮮やかなオレンジとNATO(訳注:北大西洋条約機構)的な緑色を対比させた彩色を施し、軍隊を思わせるものだった。フロント・カバーにはまるでコピー機を通したかのようなバンドの脱色した写真があしらわれていた。写真の端はギザギザにちぎれ、バンドのロゴは「ハンコ」が押されたようなレタリングで、「ⅮIY」な感覚が添えられていた。バック・カバーには似たような味わいの、バンドとは対照的ともいえる1976年、アルバム・リリースの前年に起きたノッティング・ヒル・ゲイトでの暴動のさなか、群衆に突入していく警官たちの写真が使われている。その切迫感は(実際以上に)タイプライターで打たれたと思わせるソング・オーダーのレタリングで強調され、不揃いに吹かれた赤いスプレーで補填されていた。このスリーヴはクラッシュが所属するレコード会社CBSの常任アート・ディレクターであり著名な商業美術家ロスロヴ・シャイボによるもので、一般的なパンクのイメージを具現化させたものだった。ここで取り入れられていないのは新聞や雑誌から切り取った文字を使用した「脅迫状」スタイリングで、ジェイミー・リードの得意技としてセックス・ピストルズのファースト・アルバムのスリーヴでも強烈な印象を与えた。その『勝手にしやがれ!!NEVER MIND THE BOLLOCKS』のカバーにはケバケバしい配色が施され、その後CDの時代となったアルバム・カバーの主流となる配色ではなかったが、1977年の象徴的なカラーリングとなった(もちろんスリーヴの衝撃度においては女王戴冠25周年にあたる年に女王のポートレートを用い、その目と口を例の「脅迫状」レタリングによるバンド名と曲名で覆い隠した「God Save The Queen」とは比較にならないだろうが)。
ドタバタ喜劇を感じさせるものとしてはダムドのファースト・アルバム『地獄に堕ちた野郎どもDAMNED DAMNED DAMNED』の、バンド自身のポートレートがある。メンバーがさんざん食い散らかした後、ラット・スケイビーズがクリームまみれになったキャプテン・センシブルの頭をなめる演技をしてみせる(それは確かにクリーム・ケーキとわかるが、人によっては吐瀉物と見るかもしれない)。人をおちょくった「パンク」な宣伝として、限定盤にはバック・カバーにエディ―&ザ・ホッド・ロッズの写真がダムド自身のロキシーでのライヴ写真の代わりに使われ、ロッズの写真が「誤り」であることを示すため、「誤植」であると明記されたステッカーが貼られた(現在このレコードは相当なプレミアが付いていて、手にいれるには相当の運を要する)。
ストラングラーズのセカンド・アルバムのデザインは赤いカーネーションでできた花輪で囲まれた今や伝説のフレーズ「No More Heroes」と彫られた真鍮製のレリーフで飾られた棺があしらわれている。今となってはさほどショッキングなものではないかもしれないが、1978年当時は(訳注:本作のリリースは77年)第一次大戦停戦の1918年から60周年にあたり、当時の戦争経験者の多くは存命であり大いに不快感を与えるものだった。
✕レイ・スペックス唯一のアルバム『GERM FREE ADOLESCENTS』のスリーヴも不遜なふるまいとみなすことは、今日では難しい。スリーヴに描かれているのは各メンバーが試験管にとじ込められ、そこから逃げ出そうともがく図である。リード・シンガー、ポーリー・スタイリンに名声を与えた蛍光色という概念を視覚化させた衣服を身にまとったバンドのいでたちも含めて強烈な印象を残すが、ひとつの固定観念を一層強く見る者に植え付けたとタブロイド紙から激しい非難を浴びた(最初の「試験管ベイビー」ルイス・ブラウンがイギリスで生まれたのがこのアルバム・リリースと同じ年だった)。スリッツが七十年代に発表した唯一のアルバム『CUT』(女性器の切除という婉曲的なこのタイトル。今日では明確には伝わらないが1979年当時は充分なインパクトがあった)には腰布一枚泥を塗りたくった裸のメンバー写真が使われた。このデザインは3枚の写真がタブロイド紙で今なお掲載禁止になっていること、ベニー・ヒルがイギリスでは愛すべきコメディアンとして以上に性に頑迷な嫌われ者となっていることで、わずかながら衝撃を保っているといえよう。スリッツのドラマー、パルモリーヴが語っているが、スリーヴ・デザインが不遜なものになったのはスリッツがライヴ・デヴューした直後に脱退したからだという。パルモリーヴは1954年生まれでピューリタンとして(確かなことは女性たちにとって)抑圧されたフランコ時代〔1939-75年〕のスペインで育ったのである。
一方バズコックスのファースト・アルバム『アナザーミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン』の配色はシルバーであり、大部分の非パンク勢が用いてきた六十年代の宇宙時代-西暦2000年までにロケットに乗って月旅行できるだろうと思われていたそんな時代-を思わせる配色だった。スリーヴの筆記体も水平から90度の角度に線が引かれ、デリケートな黒い罫線で強調された、クールかつ古典的な、洗練されたものだった。バンドの写真は実直で真面目な印象を与える。四人のメンバーはお揃いの黒シャツをまとい、カメラに向って戸惑っているようにいるように見える。ダムドやスリッツのデヴュー・アルバムでのだらしなさとは対極といってよかった。夜中に破目を外して警察に身柄を拘束された酔っ払い集団というより親戚一同の集まりのとき部屋の片隅で撮られた同じ年頃のいとこ同士といった風である。
こうしたUA時代の全スリーヴ作品を手がけたのがマルコム・ギャレットである。マンチェスター・ポリテクニック(訳注:Polytechnic 時にPolyと略される。1902年イギリスでは大学と同字扱いになった総合高等科学技術専門学校のことを指す)でグラフィック・デザインを学んでいた当時、(学校の一年先輩でイラストレーションを専攻していた)リンダー・スターリングからバズコックスのマネージャー、リチャード・ブーンを紹介されたのである(リチャード・ブーン自身もレディングで美術を学び、バンドのスリーヴに関するアイデアをいろいろ提供していた)。経費削限のためブーンは1976年末、ちょうど『スパイラル・スクラッチ』制作の頃、日付や会場を明記していないライヴ告知用ポスターの原画を制作する人間を探していた。明記していなければマーカーで手書きし使い回しができるからである。マルコムは一連のポスターを―有名なのは「ラヴ・バッテリー」である―カレッジにあったシルク・スクリーン機材を使って制作した。彼は今日も使われているバンド・ロゴも考案した。(プラスチック製シートから紙にすりつける乾式転写レタリングをとり入れた)レトラセット製シートが使われ、コンパウンダと呼ばれる書式が採用された。同じコンパウンダでもオリジナルやZsのものとは全く異なった、引きちぎられ伸ばされた書体ではあったけれど(BBCはこれをもっと野暮ったくしたロゴを自身の長寿クイズ番組『Never Mind the Buzzcocks』で使用することにしたのだが、マルコムやピートが使用許可を求められていたら、もっとましなタイトルなりロゴなりを使うようにさせただろう)。
マルコム・ギャレットはその後UA時代の二枚のアルバム、すべてのシングルのスリーヴ・デザインを担当した。中身の曲は聴いたものもあればないものもあった。アルバム・スリーヴには大変な労力が注がれた。―例えば『ラヴ・バイツ』。」おそらく今日ではダウンロード方式で作られるだろうが、このスリーヴに使われた「ブラウン筆記」レタリングは全て気の遠くなるような手書きで行なわれていて、加えて四人の男たちが映った写真には巧妙なトリックが施されている。バンドは鏡の前で撮影されており、鏡に映った彼らの後頭部を見ることができる。一方彼らの後ろにあるのはアルバム名が記された垂れ幕である。が、鏡の中の垂れ幕は普通に映っている。文字はバンドの前方に掲げられていたにちがいない、写真を仕上げるにあたって穴をくり抜き文字をはめ込んだのである、いや文字を最初から鏡文字に描いていたのではないかとも推測できる。マルコム自身はこう語っている:「何でかね。あの写真のことも、どうやって撮ったのかとも聞かれたことないんだよ。言われてみれば確かにちょっと変だって思うよね!でも気付かれないのっていいものだよ。あのポートレートを誰も意識してないっていうのはね」
マルコムは一連のシングル・スリーヴについてこう語っている:「歌詞のどの場面を表現しようかってことを心がけていた。例えば「プロミセス」。輪に重ね合わせた十字架をイメージさせたんだ。相手にキスを送ることを意味するものだ(B面曲は「リップスティック口紅」だからね)」親しみ易くも風変わりなバズコックスのシングル・スリーヴ。そのデザインは表と裏にまたがっている。マルコムは語る:「スリーヴは表と裏、相互に連関し合うべきものなんだ。レコード会社の人間もそうだけど、たいていの人はフロント・カバーばかりに目がいくだろう。バック・カバーも楽しめるものだし、そうあるべきなんだ」
もう一つの例として「ハーモニー・イン・マイ・ヘッド」がある。マルコムによると:「人の頭をイメージした画にしてみた。そこに目を縁取る神秘的な『粒子』がまたたくんだ。頭と目。上手く『調和させる(ハーモナイズ)』ということさ。直線と曲線とのあわいを成していて、バック・カバーの画はそっくり直線を曲線に、曲線を直線に引き直したものを使った。B面曲はもちろん『(「)何かがまちがってしまった(サムシングズ・ゴーン・ロング)』ことを絵画的に説明するものなんだ。まちがえた色で印刷されてしまってね。ホント失敗作さ(原著181ページ、参照)。『(「)何かが再びまちがってしまった(サムシングズ・ゴーン・ロング・アゲイン)』見本になったのは、何とも皮肉だよ」
もちろんバズコックスで最も「パンク」なレコード・スリーヴは、「オーガズム・アディクト」である。刺々しいイエローと濃紺というくっきりした対比を持たせた配色、そこに裸の女のモンタージュ写真が添えられているが、頭部は乳首とアイロンにすげ変えられ、うす笑いを浮かべた口には口紅が塗りたくられている。バックには学友のリンダー・スターリングによるバンドの紹介が添えられている。このデザインは大衆消費社会と性の商品化、女性への蔑視に対する鋭い批判をシンボライズしたものであると同時に、初期ポップ・アーティストのリチャード・ハミルトンへの視座(とりわけ1956年の作品『一体何が今日の家庭をこれほど変え、魅力あるものにしているのか』)も見てとれる。
さて、「アイ・ドント・マインド」のシングル・スリーヴを巡る話は、その大人しいデザインに反してこれもまた反骨心に富んだものだった。バンドはシングル曲をアルバムに収録するのを好まなかった。シングルは単独にリリースするという、ビートルズが大体において守り続けてきた手法をとることで、ファンに対しカネで払う最大限価値あるものを提供したいと望んだのである。レコード会社は「アイ・ドント・マインド」をアルバム『アナザー・ミュージック・イン』・ア・ディファレント・キッチン』に収録することを強要し、これに不服としたバンドはその表明としてマルコムは「アイ・ドント・マインド」のスリーヴのフロント・カバーにUAのロゴを、バック・カバーにカタログ・ナンバーと曲名を表記したのみで他には何も記載もせずデザインも施さないやり方をとった。そしてより自らの主張を徹底させようと、スリーヴにはUAの企業カラーであるクリームとブラウン色が使われた。マルコムが印刷業者にアート・ワークを送ったとき、不運にもその印刷業者はバック・カバーとフロント・カバーを取りちがえてしまった。スリーヴはそのまま、フロントにはタイトルがレーベル・ロゴの代わりに印刷された(出版社側が、さらに一層「アイ・ドント・マインド」ををあざとく宣伝しさえした。広告一面にUAのロゴのロゴをヒモ状に切り裂いて「大ヒット中:アルバムからのシングル・カット」「シングル発売中。新作シングル間もなく登場」というメッセージまで添えたのである。パンクとして扱ってこそ、バズコックスは売れると、悪どい企業側はそう見ていたのである。
1977年夏、セックス・ピストルズのシングル「God Save the Queen」と、そのタイトルが論争を起こしたアルバム『勝手にしやがれ!!NEVER MIND THE BOLLOCKS』の登場で、パンクはその地位を確たるものにした(訳注:『勝手にしやがれ!!』の発売は77年10月28日である)。人目のつくレコード店に不敬なタイトルを持つレコードを置くのはワイセツ行為にあたるという告訴が(とある大学教授の巧みな陳述により)とり下げられた。「金(bollo)玉(cks)」という単語は欽定(きんてい)訳聖書では何百年にもわたって使用されてきた何ら問題のない中世の英単語であるからというのが不起訴の理由であった。
タブロイド紙はパンクの台頭により「道徳が危機に瀕している」と決めつけ、セックス・ピストルズを槍玉にあげた。一般紙も、状況は深刻ではないが道徳教育の再構築はすべきであろうとする見解を示した。1977年にはセックス・ピストルズに関連した記事がデイリー・メール誌で53件、より穏健なタイムス誌で14件に達した。
1977年1月付(わずか数週間前に悪名高きグランディのインタヴューが放送された)のタイムズ誌はピストルズから「もうろくした気取り屋の住む田舎町」とコケにされた小さいが魅力的で豊かな南部の港町ドーセット州クライストチャーチ出身の保守党下院議員の談話を掲載した。デイリー・メール誌は「ロックはもはや病み衰え、救い難い状況」をパンクが象徴していると評した。他方1978年1月付のサン誌はおそらくデイリー・メール誌より感情的にパンクをとり上げ、ピストルズを二パージに渡って紹介し、音楽面では「低能で、客に唾を吐き」かつ「客が楽しんでいるところにヘドを撒く」と非難した。サン誌はバンドの乱暴な振る舞いと堕落した生活は若者たちに伝染するだろうとした上で皮肉を込めて、新聞記者は入社して最初の一週間で覚えたことを忘れてしまうが、世間の悪評はなかなか忘れ去られはしないと記した。
BBCのドキュメンタリー番組『追跡Brass Tacks』』でも1977年8月にパンクがとり上げられた。この時は対話形式で番組が進められ、収録スタジオにはパンク・ロックを多少は嗜んだと思われるキリスト教会の牧師に地元でパンク・バンドのライヴを禁じた評議会議員も含む有識者の名簿パネルが掲げられ、それに対峙する形でピート・シェリーやDJのジョン・ピール、一部のマンチェスター人の間では有名なライヴ・ハウスでありバズコックス第二の故郷ともいうべきエレクトリック・サーカスの名が記されたパネルも掲げられた。司会を務めたブライアン・トゥルーマン番組の冒頭自明のこととして、パンクは日常生活ではロシア共産主義よりも脅威だと断じた。これが冷戦時代の世論であったのだ。収録スタジオでは抗議に備えて電話も設置された。電話をかけてきたパンク肯定派の一人は、仲間内でのケンカ沙汰は起こらないと語った。「ドラッグも酒もやらない‥‥乱暴する奴はいないさ」パンクは不快で淫らであると非難してきた者への反論をするにあたって、最も若々しく品性があり好ましい印象を与えるピート・シェリーはこう言い放った。「僕は不快で淫らに見えるかい?」
さて、ピストルズとその後継者たちがイギリス・メディアにコケにされていたとき、バズコックスはPR(訳注:press releaseとpunk rockマスコミ報道とパンク・ロック)の波が絶頂に達している中にいた。彼らは音楽誌に頻繁に、かつ好意的にとり上げられた。トニー・ウィルソンが司会を務めるグラナダ・テレビの『ソー・イット・ゴーズSo 1t Goes』、さらにBBCの『トップ・オブ・ザ・ポップス』にもゲストとして何度も出演した。さらには1978年、グラナダ・テレビ制作のドキュメンタリー番組『B‘dum B’dum』[16]にも出演することになった。この映画はとあるエキセントリックなバンドを特集するというものだった(バンドは45分の間、ハワード・デヴォートと回顧物語をする破目に陥ったけれど)。他のパンク・バンドと異なるのは、バズコックスが常識では考えられないメディアに登場したということである。例えば土曜朝の子供向けテレビ番組に出演していたし、たぶん一層信じられないだろうが、バズコックスあるいはメンバー個人は何度もティーンの女の子向けピンナップ雑誌に登場していた。女子たちのホルモン促進剤、目の保養となる存在だったのだ。『Jakie』の折り込みや『Patches』の裏表紙に、ボロボロの歯をのぞかせたジョニー・ロットンとか棺からいきなり現れるダムドのデイヴ・ヴァニアンの姿が載っているなんてティーンは見たくもないだろう。しかしバズコックスはこうした雑誌に堂々と登場し、たぶんその四~五年前のデヴィッド・キャシディやトニー・オズモンドと同じ扱いを受けていたのだ。
それではマクネイシ夫妻は(七十年代に恐怖の的とされていた)ハイパー・インフレよりも危険で人を堕落させると決めつけられていたあのムーヴメントの重要人物に自分たちの息子がなっていくことを、どう思っていたのだろうか?
ピートの甥のハワードの回想:「ピートの両親はピートがパンクの渦中にいることを嫌がってはいなかったけど、コトが穏便にいくなんてことも思っちゃいなかった。ライヴの暴力沙汰にも心配していたし。私とピートの下の弟ゲイリーとでバズコックスのライヴを観にマンチェスター学生会館に行ったことがある。パンクの初期の時代だよ。たくさんの客が唾をとばしまくっていて、ステージにいたピートはベトベトになってしまったもんだから、我らがゲイリーは唾をとばしていた一人を思いきりぶん殴ったんだ。ところがピートはこう言ったんだ。『その時は嫌さ、やってられないと思う。けどじきに収まるもんだよ』って。ピートは実に寛大な男だった。連中のことをよく判っていたよ。唾を吐くのを皆すぐしなくなっていったんだ。彼は正しかったんだ。今さらだけど、バズコックスが他のパンク・バンドとまるきりちがっていたのは、ちゃんと演奏できたということと、いい曲を書けたからさ。客は曲を聴き演奏を観るためにライヴに通ったんだ。暴れるためじゃなかったわけだ」
しかしある記事が音楽誌に掲載されたとき、あらたな問題が家族の中にもち上がった。ハワードは言う:「バンドの初期に起こったことだった。一枚の写真が発端だった。NMEだと思ったな。ピートとスティーヴ(ディグル)がキスしてるヤツで、エレクトリック・サーカスでだったかな。ピートが帰宅したとき、オフクロが問い詰めた。「まさかホモなのか」[17]とね。ピートは「もしホモだってことになったとしても、業界には何の問題にもならないよ」と言って、オフクロは納得していたけど、ピートのセクシュアリティで問題になったのはこのときだけだったはずだよ。―公の場ではまるで話題にならなかったね。ピートは同性愛者の人権問題にとても熱心にとり組んでいたけど、自分のセクシュアリティについては真剣には考えてはいなかったね」
ハワードはパンクについてこう語っている:「もちろんピートのおかげもあってパンクにハマったね。15のときだった。ピートに誘われてライヴに出かけたら、ステージにピートがいたんだからなあ。けどピートが言うんだ。こんなことしてるなんてとても言えないって。周囲には内緒にしてたんだ。ムーヴメントの終わり頃にはもうライヴには行かなくなった。夜のマンチェスターは危険だったよ。今の自分なら行くよ。だってフリー・トレード・ホールにピストルズが出るんだからね!
「ライヴ・ハウスには早い時間に行ったもんだよ。前座を観たかったんだ。ピートは客の中に紛れ込んでいた。彼はいつも前座をどうしようかとしていたよ。若い連中にチャンスを与えようとしてたんだ。できるだけね」
もちろん、こうした若いバンドの一つにジョイ・ディヴィジョンがいた。後のニュー・オーダーだが、その人気とセールスは明らかにバズコックスに劣っていた。ハワードはこう付け加える:「ピーター・フックが言うにはバズコックスから前座の打診をされたとき、まだメンバーが固まってなかったらしいよ。でもこんなチャンスは滅多にないってんで受けたんだと」
ジョン・マーもこのいきさつを認めている:「俺たちは前からジョイ・ディヴィジョンのメンツとは接点があったね。ピーター・フックはレッサー・フリー・トレード・ホールでやったセックス・ピストルズのライヴには全て足を運んでた。イアン・カーティスもさ。あのライヴはたくさんの人間にバンドを始めるきっかけを与えた。
「俺たちはマンチェスターの中じゃ仲間同士だったしバズコックスはすでにそれなりの実績を積んでいたから、よくアドバイスを求められたね。そうそうテリーっていう若い奴がいた。あいつはジョイ・ディヴィジョンのドラマーになるはずだったのに採用されなくて、結局はローディになったんだ。テリーはマンチェスター・イヴニング・ニュース誌にドラム・セット一式の広告が載ったとき、それを買おうか俺に聞いてきたよ。忘れられない思い出がある。ツァー中にジョイ・ディヴィジョンのメンバーが一人クルマの窓ガラスを降ろして外の女たちに猫のような声を出してからかっていたよ!何と言っていたかはとても言えないけど、かなりヤバイ内容ではあったね。
「ジョイ・ディヴィジョンと名のる前にあいつらはワルシャワって名のってて、その前はスティッフ・キッティンズ(訳注:Stiff Kittens 下衆なあばづれ女、と訳すべきか)って言っていた。ピートが名付けたんだけど、まじめに名付けたわけじゃなかった!たぶんあいつらも直ぐに変えようと思ったんだろう」
マーはジョイ・ディヴィジョンとのツアーをふりかえってこう語る:「あいつらはよそよそしくて暗かったな。ロング・コートをまとった陰鬱な白黒写真をヒュームにある、とある橋の上で撮ったっけ。ツアーが始まって、だんだんとあいつらサッカー・ファンの一団みたいな荒くれ共の集団と化してった。皆スゴイ飲み助だった。ホテルのバーでもう閉店したっていうのに器物破損でホテルを追い出されちまって。レコードとは似ても似つかない姿だった。
「あいつらは道化者を地で行ってた。毎晩じゃなかったけど、破目を外してたな。ロンドンでの最後のステージの時は、俺たちの頭の上から生きたウジ虫をバラ撒いたっていう話がある。憶えてないけどね。ああ!でもツアー・バスの中に、ペット・ショップで買ったネズミをバラ撒いた『伝説』は・・・・」
1979年。バズコックスは絶頂期を迎えていた。ヨーロッパとアメリカ両大陸をツアーし、テレビやラジオにも出演し続けた。トップに立った者が道を踏み外すことは許されなかった。パンクは沈静化しつつあり、体制側に受け入れられるようになった。パンクとされてきた連中も1978年以降は「ポスト・パンク」と呼ばれるようになった(その理由の一つとして『リアル』パンクは1977年で終わった、その年の夏にピストルズが大当たりをとり、これでもうおしまいだという見方が巷に広がったというものがある)。ロンドンのチンケなクラブでパンクが安っぽく扱われるようになっていき、イアン・カーティスの事件後ゴシック・ロック・バンドなるものがハバをきかすようになった。バズコックスは今やパンクは未だ終わっていないことを証明しなければならない立場にあった。
かつて年一回の「炭鉱祭り」で周到な計画でもって手に入れたスターダムの座。ピートはスターダムをどう思っていたのだろうか。ハワードはこう語っている:「ショウの後にバック・ステージに行くといつも『rider』といった類のシャンパン(世間じゃ『No-Moet、no show-ay』で通ってるんだろうけど)があったけど、ピートはお茶に、たぶんサンドイッチをパクついていた。ロックンロールって感じじゃないよなあ!ファンが大勢集まってサインをねだっていた。『ウザくね?』って聞いたらピートは『何でだ?これが僕の仕事だよ』って言ってたよ」
ハワードは続ける:「ピートは親戚の子供たちから『ポップ・スターのピート』ってすごく好かれていたけど、世間で言われていたような『ポップ・スター』じゃなかった。彼はただ人を楽しませたかったんだ。『エンターテイナー』になるのが望みじゃなかったんだよ。何年か前だったか、親戚一同が集まったときに彼に歌ってもらおうとした。皆が集まる毎に頼んでみたけどダメだった。『そんなに緊張することなんてないだろ。昨日はスェーデンで12000人もいる前で歌ったじゃないか』って聞いたらこうさ。『ああ。けど知らない人ばかりだったからね』って。
「彼の歌や音楽が愛されるのは、人が共感できるからなんだろう。彼の歌は誰もが心に思うことをテーマにしていた。自分の身に起こったことを歌にした。誰もが経験しうることをね。
「ピートが亡くなって、そりゃあ悲しいさ。彼はファンを大切にしていたけれど、慎ましい男でもあった。人生の終わりに到ってレーの市井人として、皆に幸あれと祈っていたんだよ」さて、ようやくバズコックスが、その長いキャリアで残した神がかりでポップな、優美な作品を彼が創りあげたということ、それを存分に証明できるときが来た。
さあ、テープからチリを払おう。実り多きUA時代のバズコックス。その楽曲が成立していく物語をピートの言葉で味わうことにしよう。ここに横溢する彼ならではの品性と知性と共に(読者諸氏は慎み深いランカシャー人の方言、自己分析、ときおり出てくる下世話な笑いと憤りの感情をも読みとらなければならないだろうが)。
始めますか、ピート・・・・。
[1] パルソネイジ鉱山The Parsonage Colliery イギリス最大の鉱山。1930年代には1500人の雇用があった。1992年閉山。
[2] 女子ランド・アーミーThe Women‘s Land Army 第二次大戦中、徴兵された男子の代わりに農作業に従事すべく結成された民間組織。
[3] 北部地方の英語で「to mither(訳注:mitherには北部・スコットランド地方ではmother=母親と解釈されることもある)」とは、「騒ぎ立てること」とか「いら立たせること」を意味する言葉。
[4] 娯楽目的の小旅行に使用されたバスや車。
[5] 『コスモスCosmos:A Personal Voyage』(訳注:サブタイトルは『宇宙へのいざない』、とすべきか)
[6] セックスSex セックス・ピストルズのマネージャー、マルコム・マクラレンとデザイナーのヴィヴィアン・ウェストウッドの経営していたブティック。ゴム製の、あるいは性的倒錯者的な服、ボンデージ服を販売、パンク・ファッションのイメージを決定づけた。女性のパンク・アイコンであるジョーダンやセックス・ピストルズのベーシストであったグレン・マトロックは店の売り子部門のアルバイトをしており、ピストルズのメンバーにアダム・アント、スージー・スーらブロムリー・コンティジェントは店の常連であった。
[7] セックス同様、グラニー・テイクス・ア・トリップスGranny Takes Å Trip(ⅬSⅮでトリップするという意味)はキングス・ロードの繁華街から外れたところにあったブティック。プレミアの付いた古着と共に、最先端の「デザイナー」がデザインした衣服も販売された(当時バザーではまだ1930年代のウェディング・ドレスや女性用のパジャマが手に入った)。もっとも客の殆んどは六十年代末のヒッピーくずれや七十年代半ばの、ニセモノのダイヤなどの宝石類でめかし込んだロッカーズであったけれども。1979年閉店。
[8] バンド名はジョン・ライドンが主張しているように、ポルノ映画や暴力行為を意味するものではなく、植物の生殖器官からとられた。
[9] バズコックスの支援を受けていたジョイ・ディヴィジョン~ニュー・オーダーは後年幸運にも短くアレンジした「シスター・レイ」を、バズコックス同様多大に影響を与えてくれたリードとケイルなどへの敬意を表して演奏している。
[10] リード・スキナーと。1991年8月3日付BBCラジオ1にて。
[11] ホールは1846年、血に染まった1819年ピータールー大虐殺の行なわれた場所に建設された。題材は建物のコンセプトはロマン派の革命詩人シェリー作『政府の仮面劇the Masque of Anarchy』の91連から成る詩編の一つから取られた。
[12] 例年マンチェスターの6月は暑く、注意が必要とされている。特に1976年夏は観測史上最高気温を記録している。
[13] ワイゼンショアWythenshaweは当時西ヨーロッパ最大規模の公営住宅建設計画が進んでおり、区画は郵便番号が二種類になるまでに拡張された。
[14] バズコックス同様マーティン・ラシェントのプロデュースであった。
[15]南マンチェスターで学生たちに愛好された住宅街。
[16] 番組名はハワード・デヴォートが、バズコックスのEP『スパイラル・スクラッチ』収録曲「ボーダム」で歌った造語から取られた。
[17] 1970年代、イギリス北部で「puff」は同性愛の男性を意味し、南部人は「poof」の綴りを好んだ。一方北部での「poof」は空席がないとき祖父母の膝上に座る行為を指す。